第一幕 少女、雪中花の如く

目覚めると、見慣れない天井があった。

それに他人の家の匂いが鼻をつく。


勢いよく身を起こすと左腕が痛んだ。

思わず触れた左腕には、丁寧にさらしが巻かれている。


「…………」


昨夜の出来事を思い出したところで、ゆっくりと障子戸が開かれた。


「あ……」


障子を開けたのは、昨晩怪我の手当てをしてもらった女だった。


まだ少女と呼べる見た目は十五、六歳くらいか。

助けられておきながら、素性の知れない男を家に上げるとは何とも警戒心のない女だと思う。


この家は、確か長屋だった。

女が出てきた部屋、それに自分が寝かされていた部屋の二間の間取りである。

女以外はこの家に誰もいないようだ。


「まさか、本当に助けてくれるとはな」


一か八かの賭けだった。

違う所に助けを乞えば、番所に突き出されていたかもしれない。


「怪我、してたから」


「お人好しだな。悪人かも知れないんだぜ」


「……悪人、なんですか?」


刀は丁寧に、手元に置かれていた。

女を脅すことも容易い——が、脅す気など毛頭ない。

問題なのは、女の警戒心のなさだ。


「さあな」


女に正体は明かせない。

いぶかしがられたら最後だ。


いや、充分に怪しいはずだ。

裏があるのだろうか……女の考えていることがわからない。


朝餉あさげ、持ってきます」


女は名前すらも聞いてこなかった。



よくわからない人。ゆきが男に抱いた印象だった。


怪我を負っている所為せいかもしれないが、寡黙で、時折抜刀して刀を確認しているときだけが怖かった。


名前だけでも聞いてよいのだろうか。

男は誰かに斬られ、かくまってほしい様子である。

探りを入れてはいけないような雰囲気に、何も尋ねられなかった。


「紙と筆を用意してくれ」


誰かに書く文がある。男はそう言った。


手習所に通っていた時分以来、文字は書いたことがない。

よって、家に紙が常備されていなかった。


筆なら一本くらいあるだろうかと、がさごそと箪笥たんすを漁ってみるも、この家には筆もない。


「少し、待っていて下さい」


「反故紙でも書けりゃあなんでもいい」


「わかりました」


紙と筆があったところで使うことはないので、わざわざ買うまでもなかった。

それに、紙をくれる心当たりがある。

雪は向かい長屋の一番西部屋に住んでいるおさいを訪ねた。


おさいには六つになる息子がいた。

息子は手習所に通っているのだが筆達者だそうで、両親がたくさん紙を与えて文字を書かせている。

その反故ほご紙を、おさいは長屋の住人に備忘録やら書留用にと分け与えていたのだった。


「すみません、雪です」


呼びかけてすぐに戸口が開いた。

姿を現したのは、おさいである。


「おや、何だい」


おさいは雪を見て、眉をひそめた。

嫌なものを見たような態度をされ、事実そうなのだが、雪は慣れていた。


「あの……反故紙を一枚もらえないでしょうか?」


「もらってどうするんだい?」


まさか用途を聞かれるとは思わなかったので、雪は戸惑った。

おさいは反故紙を分け与えるときに、いちいち用途など聞いていなかったはずである。


「……えっと、書き留めたいことがあって」


怪我をしている浪人を匿っている。その浪人が、文を書きたいのでもらいたい、とは、口が裂けても言えない。

雪は咄嗟とっさに嘘を吐いた。


「あんた、字なんか書けないだろ。何に使うか知らないけど、迷惑をかけられるのは御免だよ」


つまり、雪にあげる紙はないということだ。


わずか数日足らずで手習所を辞めた雪が、字を書けないのは事実である。

おさいがその事情を知っているのかはわからなかったが、頭から無学な女だと、決めつけているのかもしれなかった。


「迷惑は……」


かけないと言おうとして、おさいは戸口をぴしゃりと閉めた。


たった一枚の反故紙すら、雪はもらえなかった。


雪は仕方がないと肩を落として、紙と筆は四文屋で買うことに決めた。


物言わぬ戸口の前に居続けたら、情けなくなって泣きたくなるだけである。

雪が四文屋へ行こうと身体をひるがえしたとき、声をかけられた。


「お雪ちゃん」


振り返れば同じ長屋の住人、伊吹いぶきがいた。

歳は雪の三つ上で、貸本の行商をしている青年である。


「これを使いな」


そう言って、伊吹が差し出したのは真新しい紙だった。

伊吹を見返せば、優しい笑顔がある。


「いいんですか?」


「帳面の切れ端で悪いけど、今はそれしか持ってないんだ」


「そんな大事な物を……」


「俺しか見ない帳面、一枚千切ったところでどうってことないさ」


遠慮しながら受け取った紙は、確かに千切ったような跡が端にあった。

もちろん、何も書いていない紙である。


「筆はあるかい?」


「いえ……」


「わかった。今すぐ持ってくるから」


「あ、あの」


急いできびすを返した伊吹は、顔だけ雪に向けた。


「ありがとうございます。とても助かります」


この長屋の住人で唯一、雪に優しくしてくれるのは伊吹だけだった。

住人に何か言いがかりをつけられたときにかばってくれたり、時々気にかけてもくれる。

伊吹は誰にでも親切で、雪が長屋の住人から嫌われていることを知っていても、態度を変えたりはしなかった。


雪と関わるのはやめろ、お前まで変な目で見られてしまうと、伊吹が言われているのを雪は聞いたことがある。

それでも伊吹は、普通に話してくれた。


感謝はしているが、本当に伊吹が悪く言われるようなことがあってはと、雪はなるべく関わらないようにしている。


だけど、伊吹の優しさはうれしかった。

顔は自然とほころぶ。


筆と墨まで貸してくれた伊吹に充分に礼を言って、雪は家に戻った。


(へへっ……いいもん見れたな)


雪は滅多に笑わない。

しかも話しかけても、会話が続かなかった。


それでも伊吹が雪に話しかけるのは、伊吹の心をくすぐる、ごくまれに見ることのできる雪の笑顔が見たいからだった。



雪は早速、男に紙と筆を差し出した。


「どうぞ」


「ありがとよ」


男はすらすらと文字を書き連ねていく。

思わずじっと男の手元を見ていたことに気づいて、雪は腰を上げた。


見たところで文字は読めない。

だが、人の文を盗み見るのはよくないことだ。


隠す様子もとがめられもしなかったが、何も言わない男に急に恥ずかしくなる。

そして、字が書けることが少しだけうらやましかった。


(大人しい女だ……)


何も尋ねてこないどころか、自分からは会話すらしようとしない。

男はお喋りな質ではなかったので、無闇に話しかけられるよりはましだった。


今も一心に、内職だろうか、巾着袋を作っている。


「すまねぇ。もう一つ、頼まれてくれねぇか」


男は書き終えて折り畳んだ文を渡した。


「これを、神田にある弥勒みろく屋に届けてくれ。主人か女将に渡せばいい。辰巳たつみからって言えば、向こうもわかる」


「辰巳……さん?」


「俺の名前だ」


「あっ……申し遅れました。私は雪です」


恥ずかしがるように、失礼な振る舞いをしてしまったことを後悔するように、雪はおずおずと口を開いた。


辰巳に対して詮索はしないように心がけていた雪は、自身の名前をあえて教えなかったわけではない。

ただ、言う機会がなかっただけである。


辰巳はそんな雪の様子を、何度か瞬きしながら見つめた。

慌てた様子に、ただの大人しい女ではなく、少女の可愛らしさを見つけてしまった。


「いや、俺の方こそ遅れた。名前くらい聞いてもよかった……って、俺も同じか」


「……弥勒屋、ですね」


「ああ。世話になるな」


よかった。怖い人ではなさそうだと、雪は安堵あんどする。


少し話したくらいで、会ったばかりの辰巳の何がわかるというのか。

しかし雪は、気を許しすぎているとは考えていなかった。



弥勒屋は、神田にある一膳飯屋だという。

所在を辰巳から細かに聞き、雪は弥勒屋へと赴いていた。


雪の住む長屋は湯島天神の近くにある。北には上野、もう一足行けば浅草が望める。

そして、南にあるのが神田だった。


長屋から神田まではわけもない距離であり、雪は神田に行くのには慣れていた。

というのも、雪は内職で巾着袋を作っているのだが、その納め所が神田にあり、足繁く通う場所である。


弥勒屋は巾着袋の納め所からは離れているので、初めて通る道ではあったが、何となく町の構造が頭に入っている分、迷うことなく辿たどり着くことができた。


紺色の暖簾に弥勒屋の文字。

戸口は開け放たれたままで、中をうかがえば、昼の混雑時を過ぎていて客がまばらにいる程度である。


雪は一呼吸して、足を踏み入れた。


「いらっしゃい!」


愛想よく挨拶したのは、中年と思われる女だった。

この人が女将だろうか。


好きなところに座ってと、これもまた気持ちのよい返事をされる。


飯屋に入るにはめずらしいであろう女一人で来たのにも関わらず、特に驚きもせずに応対されたことに感じ入ってしまった。

だが、雪は客ではない。


雪は女を呼びとめた。


「あの、すみません。この店のご主人か、女将さんはいらっしゃいますか?」


女はきょとんと、雪を見返す。

顔にある皺は歳を感じさせてしまうが、張りのある声と仕草は若かった。


「主人なら向こうに、女将は私だけど」


やはり女は、この店の女将だった。

女将の指さした先にあるのはおそらく調理場だろう。


「辰巳さんから文を預かっているんです。

和泉いずみさんに、お渡ししてほしいそうで」


和泉に文を渡せ、とは辰巳から言付かっていることであった。


「あら、辰巳ったら最近、音沙汰なしだったから心配していたのよ。和泉も知らないって言うから」


辰巳が怪我をしていることは伏せることにした。

女将に隠したいことかもしれないし、言ってしまって女将の不安をあおってもいけない。


心底、辰巳の安否を心配していたような女将は、一瞬辰巳の母かとも思ったが、料理屋の子どもが浪人のわけがない。

親しくしている間柄といったところか。


では、和泉は友人なのか、それとも……

もしも辰巳のい人だったら……そう思えば、雪の心はもやっとした何かに襲われた。


「辰巳さんは元気です。今日は来れないそうで、私が代わりに来ました」


自分は何を考えているのか。

雪は自分に呆れて、思考をさえぎるように言葉をつむいだ。


「そうかい。なら安心したよ」


女将は笑顔で文を受け取った。

挨拶もそこそこに帰ろうとした雪の足は、女将の言葉で止まった。


「辰巳にこんな可愛い子がいたとわねぇ」


すぐには女将の言葉の意味が理解できなかった。

そして理解できたときには、女将が次の言葉を続けていた。


「ぶっきらぼうな人だけど、根は優しいからさ。辰巳のこと支えてあげておくれよ」


「ちが……」

「ご馳走さん」


否定しようとした言葉は、食を終えた客の声に被せられた。


「ありがとよ!また来ておくれ」


女将はそそくさと、食器を取り下げにかかる。

雪には目で挨拶をして、奥へと消えていった。


いつまでも客ではない自分が店に居座っていても邪魔なだけだと、雪は否定することをやめて、店を出たのだった。


(どうしよう……誤解された)


やはりきちんと弁明した方がよかっただろうか。

しかし、わざわざ弁明するためだけに店に引き返すのは大袈裟だ。


(きっと、後で辰巳さんが誤解を解いてくれる)


申し訳ないのは、自分なんかが好い人だと思われたことだ。

誤解とはいえ、辰巳は嫌がるに決まっている。


雪の足取りは重かった。


神田から帰る道すがら、夕餉ゆうげの買い物をする。


いつもなら最低限の栄養のあるおかずを一品作るか、買うか、朝炊いた米をおじやにしてしまうかという簡単な料理しかしていなかった。

しかし客人がいる以上、手抜きはできない。

料理ができないわけではないので、苦労はしなかった。


「文は女将さんに渡しました。

辰巳さんのことが心配だったそうです。怪我をしていることは言っていません」


雪は夕餉の準備をしながら辰巳に話しかけた。


「そうか。あの店にはほぼ毎日行ってたからな。

女将と主人とは親しいんだ」


今度お前も来い……と言おうとして、辰巳は慌てて口を閉じた。


(俺は、何を言おうとしている……?)


「先に食べていてください」


こと、と食器を卓に置いた音で、辰巳は我に返った。

動揺は表には出ていたかったようで、雪は気づいていない様子だ。


卓には大豆の煮物が置かれている。

雪はすでに、他のおかずの調理に取りかかっていた。


食欲をそそられる匂いに腹の音が鳴る前に、辰巳は素早く大豆を口の中に入れた。


(美味い)



数刻後、すでに他の住人たちは寝静まったようで、暗闇と静寂に包まれている。

その中でぼんやりと、辰巳の傷口を照らすのは行燈あんどんの明かりだった。


まだ傷口は完全には塞がっていない。

幸いにも利き腕ではない左腕を怪我していたので、さほど日常生活に支障はきたさなかった。


「……っ!」


傷口から雪に塗ってもらっている薬が染み、辰巳は顔を歪めた。


「あと少しだけ、我慢してください」


雪は、自分が悪いとでも言うように、申し訳なさそうな顔をしている。

今日までで辰巳がわかったのは、雪は大人しいだけでなく、遠慮深い女だということだ。


傷の手当て、食事の用意、他にも至れり尽くせりだ。

主導権は雪にあるはず。でも雪は、見返りを求めたり、一言も気の強いことを言わない。

むしろ機嫌を損なわせないように気を遣っている。


何気に飯が美味いとささやけば、お世辞だと思われる。

雪の料理を美味しいと感じているのは本心だった。

なのに、褒められること自体を経験してこなかったとでもいうような反応をされる。


「終わりました」


腕には新しいさらしが巻かれていた。


「他に怪我をしているところはありますか?」


「腹が、少し。蹴られたんだ」


おもむろに、辰巳は着流しの袖から手を抜いて、上半身を露わにした。

雪はといえば、反射的に顔を逸らした。


「どうした?見てくれねぇのか」


見慣れない男の身体を目の当たりにして、雪はたじろいだ。

しかし怪我をしていると言われた以上、背けたままではいられない。


具合を見ようと伸ばした手は刹那、辰巳に取られ、ぐいと引っ張られる。

前のめりに倒れ込んだ雪の身体は温かい肌と触れ合い、感触がこれでもかと伝わってきた。


急に引き寄せられたことで、すぐには状況がつかめなかった。

顔を上げれば、辰巳の顔が間近にある。男の身体にもたれかかり、触れ合う手と手。


状況を理解したときには、雪は顔を赤らめ硬直していた。


「お前は、気を許しすぎだ」


いとも容易く、触れることさえできる。

こうして、引き寄せることも。


「…………」


熱のこもった辰巳の視線に耐えきれず、雪は視線を逸らした。

やんわりと抵抗したくらいでは離してくれない。


辰巳が何を言いたいのか、雪にはわかる。

見知らぬ男と一つ屋根の下で暮らしている事実を、改めて教えてくれたのだ。


もしも、求められたら……

微かな期待を抱いているということは、辰巳のことが嫌ではない証左だった。


「……ごめんなさい」


激しく波を打つほどの鼓動、しかし雪の心は徐々に冷静になりつつある。


自分を女として求めてくれる人など、いるわけがない。

辰巳はただ単に、警戒心のない少女を注意しているだけだ。

期待など、羞恥でしかない。


「何で謝るんだ。俺は……」


辰巳は雪の身体を離して、しかし言葉の続きは言わなかった。


「お腹、少し痣が」


「こっちは大したことない。……悪かったな」


雪は謝られる理由がわからなかった。

聞き返さなかったのは、気まずい空気ができてしまっていたからである。


辰巳の鍛えられた身体、声、そして感触を忘れられないまま、雪は寝床についた。

目を閉じても、まぶたは揺らめいてしまう。

眠りにつくまでには、時間を要した。

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