ゆっくりとした螺旋
名前は、知らなかった。
相手は改めて、自分を斎藤佑史と名乗ったから
一応俺には伝えたことがあるのだろう。
でも、それは
手紙でしか知らず
あの時視界を閉ざした、深い声の人と一致するまで
少し時間を要した。
「見るな、坊」
―言ってなかった、そういえば。
俺の目を、隠したその手は―少し震えていた。
―
「…注文、どうする」
「…」
ついさっきまでは、怖い感情があったのに
今ではまた違うベクトルの感情が渦巻いて
混乱していた。
座席に座り、足にすり寄る感覚にちょっとびくついて
周囲を見たらそこは
「…猫」
「猫カフェだからな」
まあ…わかるけど、わかりますけど。
確か「にゃんにゃんパフェ」という名前だった。
それはいいとして、こんな渋い人が猫カフェ。
人の趣味は千差万別だけど、えぇ…
「猫、家でも飼っててよ」
「…」
「ぶちまろというんだ。ぶち柄だけど気品がある様な気がして、まろをつけた」
ど、どうでも…いい。
「…適当に頼んだ」
「え、俺…何も」
「いらないと言うんだろう。ダメだ、頼んだ」
食事も細いし、欲もないし
でもこの人は勝手に頼んでしまった。
凄いなんかの料理が来たら、どうするんだろう。
手汗が、びっしょりしてきた。
―
さっきと、凄いギャップ。
「おまたせしましたー」
「…?」
「ありがとう。そこに置いてくれ」
しばらくして店員が持ってきたのは、人間が食べるというより
どちらかというと猫…の?
それが二人分。斎藤さんはその一つを手に取って
近寄った猫にやさしく微笑みながら、与えていた。
―自分のごはん、ではない。
それを感づいてから、顔が赤くなった。
う、うぬぼれ…
「…どうした?」
「え、あ、あの…」
「お前の足元の猫、お前を見てるぞ」
えっ、と思って足元を見たら
さっきより増えてる猫の数。
なめられてるのか、求められてるのか
す、すごい数-っ!
「にゃぁ」
…はい。
恐る恐る、近寄ってきた猫に
見たこともないごはんをあげた。
はぐはぐと、美味しそうに食べて
その顔を見てると、俺の事嫌じゃないのかなと思う。
ただ、ごはんが欲しくて近寄ったのかと。
そんな利益がなかったら、俺は別に。
「猫は、嫌いな奴には近づかねぇ」
「…」
「それでいいんだよ」
ごはんを食べ終えた猫は、何回か俺の指をなめて
どこかにふらっと出かけた。
あんまり経験しない出来事に、ぼーっとして
隣でふっ、と笑う声が聞こえた。
「…笑わなくても」
「そうだな」
「ここ、来たかったんですか?」
「ああ、俺んとこの猫の故郷だからな」
―故郷。
「…よくあるだろ、飼えなくて捨てられる猫」
「…」
「ぶちまろもそんな猫で、ここに保護されていた」
まだ、会ったこともないけれど
そうか、斎藤さんの猫は最初ここにいたのか。
「この店、表沙汰にはしてないが猫の保護活動もしていて。そんな時に出会ってさ」
「捨てられて…たんですか」
「まあな、で。俺が一目で気に入って飼うことにした」
―命の譲渡って、そんなに軽いのかな。
「なんか、不思議なものでさ」
斎藤さんは残った餌を小さくちぎり、欲しがっている猫に
少しずつ与えていた。
「猫って、人間より凄いのかなとかさ」
「凄い?」
「語りかけてきたんだよ、俺を見なって。ぶちまろが」
―はぁ…
「気づけば、自然と家族の中にいる。人間より器用に、しっとりと」
「…」
「難しいと思っているのは、人間のほうで。猫はそんなこと少しも思ってない」
それは、分かる。
今まで猫の事意識してなかったけど、そういう生き物なのかなというのは
斎藤さんのほんの僅かの語りで、分かる気がする。
「…本当に、ここに来たかったんですか」
「…」
「本当なら、いいんです」
「正直言うと、半分半分だ」
―コトッ、と
空になったごはん皿を、斎藤さんも置いた。
ふわっとした空気の中で、なんだかもにゃもにゃしている猫達は
俺達の事、どう見えてるんだろうか。
「…間凪、お前。食事とかあんまりしないだろ」
「え…あ、最低限は…」
ちょっと嘘をついた。
あんまり、いや、最低限以下の食事だったりする。
そういうものの欲がない、というのか。
知らぬうちに、自分が食べたいときに食べる。その延長で生きている。
だから、嘘だ。
「…お前を店に連れて行ったところで、多分お前が困るだろうと思ってな」
「…」
「他にもそういうのを見たことがある、そう。逆に無理して普通を装って食べようとして」
―それ、つらいな。
でもそれをしない自分がいるとは限らない。
「…自信は、ないです」
「それに本当に気晴らしに、ここに来たかった」
「だから半分半分、ですか?」
「ああ、でもそんなに居心地悪くないだろ」
―
傍にいるか、いないかなんて
その猫の気まぐれで
でもなんだろう。俺はこの場に居させてもらってる。そんな気がする。
座って、話して、ゆっくりして。それを猫が―
「いつも許されてる。俺はな」
「あ…」
「お前もそんな気分じゃないか?少しだけでも」
うつむいて。
そうかも、と言った。
視界がぼやぁと、滲む。
どこかで、どの猫か知らないけど
にゃあと鳴く声が聞こえた。
「…なあ間凪、お前これからずっとこのままか?」
「…」
「お前は自分の事、どの位まで理解している」
「そんなに、分かっていません」
―ふらふらした、漂うような、ぼんやりとした。
くらげのような自分だとは思う。
何を考えているかわからなくて、触れようにも毒があって
感じた遠巻きの、恐る恐るな視線。
「…俺は、お前を誘いに来た」
「…?」
「物事が少しずつ動いてきて、そう思うまでに少し時間はかかったが」
―なんだろう、どこに―
「お前は、もう少し。お前の事を知り、目を背けるな」
テーブルの上に、斎藤さんは一枚の書類を置いた。
そこには
「がっ…こう」
「普通の学校じゃない。訓練と実践を兼ねた、特務校だ」
―『十京特務技巧高校』
「盤面が、形成しつつあるんだ」
―なんだ、この学校。
普通なのに、違う。
「お前が失った要因に繋がる、『やつら』に一泡吹かせる訓練校だ」
―
――
あたまのない、
おかあさんと、おとうさん。
誰にこんなことをされたの。
「それはね」
誰かがそう言った。
―
「止めておくれよ、間凪」
―
一瞬にして、俺は
息ができない位に、深く―
水底へ叩き落されるような―
0.limiter たくあん @engawa_nasu
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