何故書くのか。何が書かれるのか。何を読むのか。

 先生は彼女の書いた小説を数々の言葉で、執拗に罵倒しますね。それは先生自身が、満足いく小説を書けないことから来る八つ当たりなのでしょう。
 二人が出会った当初は、先生は「いつもたくさんの人に囲まれて笑って」いたようなので、その頃は作家として認められていた。あるいは、作家になるべく邁進しており仲間もいて充実していたのでしょう。
 そこからの凋落が伺えます。
 ただ、このような状態の先生であっても、その小説感には確かな物があるように思えます。

   「詩情があると読者に思わせたいのはわかるけれど、作者の知識と情景描写が欠如していて、何が言いたいんだかさっぱりわからない。そこまでだったらまだいいよ。けどね、文章から透けて見えてくるんだよ、作者の天狗みたいな高い鼻が」
   「そりゃあ、練習しかない。名作を読んで、読んで、それから書いて、書いて、書いて……とにかく、書き続けるしかない」

 この感覚はヤチヨリコさんのものなのでしょうかね。
 この作品の中で、彼女が先生に愛想尽きた後に先生の小説を読んで見ると、それまで天才と思って来たにもかかわらず、小説にまで価値を見失っています。
 小説は誰が書いたかは関係なく、何が書いてあるかが最重要だと考えます。しかし、私たちはおそらく知らず知らずのうちに、小説を読む上で、著者は誰か、というバイアスに晒されている、そんなことを伝えているのでしょうか。
 それから小説というものは、著者の本質が色濃く反映されるものでもあります。彼女が先生への関心を失うとき、当然の帰結として、先生の分身(ここでは子供と書かれている)とも呼べる彼の著作に関心を持たなくなる。そういった側面も書かれていると思います。

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