心の中

ヤチヨリコ

心の中

 「死にたい」と彼が言ったので、彼の身体にしなだれかかって、私は笑った。

「センセ、貴方が死んだら、貴方の書いた子供たちはどうなるんです? まさか、道連れにするってんじゃあないでしょうね」

 先生は私の目を一瞥して、舌打ちした。たぶん、隣の家のカップルが友達を呼んでバーベキューをしているのが気に食わないのだろう。肉の焦げた臭いがこの部屋まで漂ってきている。

「道連れだ。心中だ。親子心中だ」

「あら、お気の毒」

 私は微笑んだ。薄っぺらい紙ペラ一枚貼り付けたような笑いだった。

「君はいつもそうだ。微笑むばかりで、何も解決策を寄越さない」

「そうしろと言ったのは先生ですよ」

「そうかそうか、そうかい。僕が言ったからって素直にそうするってのは少しばかり頭が足りないんじゃないか?」

 先生がこういう風に騒ぎ立てている時間で、名作を数本書き上げてしまう人だと、私は知っている。神は筆の速さと文才という二物を与えながらも、どうやら性格の難という欠点を与えたらしい。そんな彼の恋人をやっている風変わりは私しかいない。

「そんな女はお嫌い?」

「嫌いか好きかで測れる話じゃないだろ、これは。考えろと言ってるんだ」

「仮に測るとすれば、ですよ。杓子定規で測るというのも時には大切です」

「……僕が君を嫌いって言えば、君は僕を嫌いになるだろ。だったら、言わないほうがいい」

 そう言って、私に身体を預ける彼。

 本当に死にたい人間は何も言わずに消えてしまう、とは言えやしないけど。けれど、そんな歪んだ考えは私の脳内を支配していて、いつか、彼にぶつけてしまうことを恐れている自分がいた。

 彼の腕を見れば、わざとらしく見えやすい位置に作られた浅い切り傷が何個もあって、ああ、この人は何も変わらないのだと痛いほどわかった。

 彼は死ねない。死なない。私がいる限り。それが嬉しくもあり、悔しくもあり。

「嫌いといえば、だね」

 今度は私か。私を口撃したいのか。この気分屋には毎度のごとく悩まされる。誰かを言葉で攻撃しなければ生きられないのかといつも思う。

「僕は君の書く小説だけは嫌いだよ」

 私も自分が嫌いだよ。口をついて出そうだった言葉をグッと飲み込んで、ただただ薄ら笑いを浮かべた。

「そうですか」

「君の書く小説は小説じゃない。薄っぺらい紙ペラに書かれたゴミだ。塵芥にも劣る不細工な文章の羅列だ」

 そんなこと言われても、しょうがないじゃないか。私だって努力している。

「詩情があると読者に思わせたいのはわかるけれど、作者の知識と情景描写が欠如していて、何が言いたいんだかさっぱりわからない。そこまでだったらまだいいよ。けどね、文章から透けて見えてくるんだよ、作者の天狗みたいな高い鼻が」

「天狗……ですか?」

「そう。すぐ折れそうな高い高い鼻。本当に天狗だったらもっと賢いだろうが、君のはただの知ったかぶりだ。『私、こんなこと知ってるの』とでも言いたげな表現の仕方、反吐が出るね」

 先生はすこぶる不快といった表情で、吐き捨てるように言った。

「知ってるからといって使えるわけじゃないんだ。勉強しなよ」

「勉強しろったって、何で勉強しろって言うんです」

 自分でも意外なほど妙に冷静な声で、彼にたずねた。

 彼の横顔を見つめる私はどんな顔をしているだろうか。上手く笑えているだろうか。

「そりゃあ、練習しかない。名作を読んで、読んで、それから書いて、書いて、書いて……とにかく、書き続けるしかない」

「ふうん」

 ま、いいや。そうして、私は何も言わずに、彼は自分の心のままに言葉を紡ぐ。これが世間で幸せと言われることではないことを、私と彼は知っている。



 彼に作品を読ませても、彼は酷評しかしない。

 「つまらない」、「退屈だ」、「これ、面白いと思ってる?」、そんなことばかり言われる。正直、何度、眠る彼の横っ面に平手打ちをくらわせてやろうかと思ったか。

 がむしゃらに書いた。毎日欠かさず、仕事の合間にコツコツ書いた。友人に縁を切られるくらい書いた。何度も、何度も、書いて、読ませて、書いて、読ませる。そんなことばかり繰り返した。

 外では夕焼け小焼けが流れている。この時間帯はもう真っ暗だ。

「ね、今回のはどうですか?」

 先生はコンビニエンスストアで買ってきた缶ビールを一口飲むと、少しばかり味わって、ふむ、と頷いた。

「全くダメだね」

 原稿用紙を札束を扇にするみたいに広げて、バサバサと扇ぐ。表紙にはいつもの通り、大きくて真っ赤な真っ赤なペケが書かれていた。

「ポエムだ、ポエム。ポエムなんだよ、これは。何度言わせればわかるんだ? 君の頭は夢心地の少女なのか? くだらない、くだらない。もう、うんざりだ」

 先生はケラケラ笑って、原稿用紙をゴミ箱に捨てた。捨てられた数十枚の原稿用紙はくしゃくしゃで、その上から先生が私の中身の入った缶コーヒーを捨てたものだから、もうぐしゃぐしゃで、まるで私の心を映しているように感じられた。

「後で分別してくださいね」

「それは君の仕事だろ」

「先生の仕事はなんですか?」

「僕の仕事は小説を書くこと。それ以上のそれ以外でもない」

「そんなこと言ったって、先生、お金を家に入れたこと無いじゃありませんか」

「あのねえ……」

 あ、まずい。

 先生の人形のように青白い顔がみるみるうちに閻魔のように真っ赤になった。目はしばらく怒りと蔑みを行ったり来たりして、最後には私を嫌悪の色一色で睨みつけた。

「僕が金や名誉のために小説を書いていると思っていたのか! ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな! 誰が君なんかを恋人にしてくれる!? 誰が君を愛してくれるって言うんだ!?」

 神経質な、毒のある尖った声。

 私は、亀のように首をすくめて、彼の気が済むまで罵倒を聞いた。女性という『性』を見下す言葉に嘲笑、私の家族に対する誹謗中傷ひぼうちゅうしょう、私個人に対する罵り、そしり、あざけり、はずかしめ。いつかは終わるだろうと、岩のように押し黙って、じっと言葉の嵐が止むのを待った。

「なあ、君だってわかるだろ? 理解してくれ。僕の理解者になってくれ」

 そんな情けない言葉を聞いた途端、頭の中に疑問符ばかりよぎった。

 何故、私はこの人の理解者にならないといけないの?

 何故、私はこの人を理解しなくちゃいけないの?

 そもそも、私はなんでこの人といっしょにいるの?

 そもそも、私はなんでこの人が好きなんだっけ?

 フッと、意識が浮上したとき、私は彼に殴られていた。

「おまえなんか生きてる価値無いんだよ。おまえなんかの書いた話が面白いわけないんだ。おまえの書いた話は誰の心にも留まらない」

 肩を怒らせ、目を血走らせて私を睨む男は、威嚇する小動物のようで、臆病者のようだと出会って初めて思った。

 なんで、私はこの人に殴られなくっちゃいけないの?

 そんな疑問が頭に浮かんでも、私は反論も反抗もせず、じっとしていた。

「僕もおまえも人様の心に留まらず死んでいくんだ。人様の役に立たず、人様に迷惑しかかけない。なあ、それならいっそいっしょに死んでしまおうじゃないか」

 男が私の肩に手をかけ、揺さぶる。彼の腕には深く多く切り傷が刻まれているのが見えて、この人の性分というのはこれなのだなとぼんやり思った。

「……なんとか言えよ。なあ、なあ、なあ、なあ!」

 私は何も言わず、沈黙を守った。答えてはいけない。答えたら殺されるだろう。

 私がずっと口を閉じていると、男は、大きく舌打ちをして、

「もう、いい。寝る」

とだけ言い残して、背を向け、寝室の扉を開けた。中に入ると、もう出ては来なかった。男がいなくなったら、あれだけ騒がしかったこの部屋がしいんと死んだみたいになって、それがなんだか落ち着いた。

 立ち上がるまでに幾年も年月を経たように思えた。時計を見ればそれほど時間は経っておらず、いかに私があの男を嵐のように思っていたのかが嫌でもわかって涙が出た。

 物音のしなくなった寝室に、置きっぱなしの保険証などをそろりそろりと取りに行くと、そこには寝息を立てずに静かに眠るあの男と、開きっぱなしのコンピュータが目についた。コンピュータにはパスワードらしいものが書かれた付箋が貼り付けられていて、その通りにキーボードに打ち込むと、簡単にホーム画面を開くことができた。

 ――あんなに私の小説を酷評するのなら、あいつの小説はどうなんだ?

 いや、いや、いや、彼の小説は名作ばかりだったじゃないか。

 けれど、今の私は、あれを名作として読めるのか?

 疑問のままに、私は彼の【小説】というタイトルのフォルダに入っていた文章ファイルを一つ開いた。

 そうか、そうか、彼はこういう人間なんだな。

 なるほど、そうか、そうか。そういうものだったのか。

 感想は無い。ああ、なんだ、こんなものか、と思った。惚れた腫れたも過ぎればただの思い出。『先生』などと私はあの男を呼んで慕っていたけれど、喉元過ぎればなんとやら。私の『先生』は死んだのだ。

 眠る男の近くのテーブルには、空の薬瓶。そういえば、男は睡眠薬を常飲していたなと思い返し、無くなったから通院のための車を出さなければ……と少しばかりの情けで思ったけれど、そんな考えを振り切って、私はこの家を出ていった。


 特にあてもなく家を飛び出してきたものだから、当然、宿も無く。自暴自棄になって、数年連絡をとっていなかった実家に電話をかけた。電話に出た父はただただ、「そうか」と言って、何も聞かずに家に帰ってくるように言った。その声がひどく懐かしくて、夜のサービスエリアで人目を気にせずわんわん泣いた。

「ごめん、ありがとう……。ありがとう」

「母さん、お前の好きな唐揚げ作って待ってるって」

 低くて、静かで、やさしい声。感情を込めないのではなく、表に出すのが苦手なところは、母ではなく父に似たようだ。

「もう大丈夫か」

「……うん!」

 私が喋り終わるまで、父がじっと耳を傾けてくれたのを思い出して、車の中でもう一度泣いた。声が枯れるまで泣いた。


 私は、昔、父が嫌いだった。父のようにはなりたくないと思った。家ではほとんど喋らないくせに、たまに喋ったとしても仕事の電話に出るときだけ。なのに、家の外でも中でもペコペコ謝ってばかりだった。そんな父を夢見る少女だった私は恥ずかしく思っていた。情けないと思った。父のような大人には絶対になってたまるもんか、父のような男とだけは付き合ってやるもんか、そんなことばかり考えていた。

 大人になって、『先生』と出会って、ひと目で彼に恋をした。博学で、けど、それを鼻にかけず、いつもたくさんの人に囲まれて笑っているそんな彼が好きだった。そういえば、小説を書くのが好きだった彼の後を追うように、私は小説を書き始めた。

「なに、してるの?」

 雨宿りに入ったカフェで、ずぶ濡れの彼が私の原稿用紙を覗き込んだのが、全ての始まり。それがきっかけで話すようになって、終いにはいっしょに暮らすようになった。


 どんなことがあったとしても、壊れるときは一瞬で。壊さないように、彼の機嫌を損ねないように、彼の気まぐれに付き合わされないようにしていたのに、疲れてしまったのだ。もう、あの家には戻らない。

 出ていった後、あの男から一件の不在着信が届いていた。

「そうか、そうか、つまり君はそういうやつなんだな」

 いつも以上に短くて素っ気ない言葉。返す言葉も無い。もう、彼にくれてやる言葉は無かった。もう、終わったのだろうと思った。

 携帯電話に残った彼とのメールを全てゴミ箱フォルダに送った。彼の写った写真も全て消した。そして、彼の連絡先を全て消して、その日一日上の空で過ごした。

 その後、風の噂で、あの男が自ら命を絶ったと聞いた。それに何も感じなかった自分を恥じる他なかった。

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心の中 ヤチヨリコ @ricoyachiyo0

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