東雲茶房には、もうずいぶん足を運んでいない。

 母に使いを出されても、遠まわりをして別の茶房に通った。

 抜け殻みたいにおとなしくなった翠明は、流されるまま着飾って見合いをし、何人かの青年と会った。みな親切で感じがよく、茶師としての腕前もなかなかだ。声をあげて笑うし、翠明の言葉にすぐおしゃべりが返ってくるやりとりも楽しい。

 それなのに、みなどれも同じジャガイモに見えた。

 どうしたって、特別な桃は見つからなかった。

(もういい。あたしは結婚しない)

 いっそ己の力で茶師を目指すべく、どこぞに修行へ行ってみようか。

 茶州の異名で知られる遊江州なら、女の茶師も多いと聞く。

(そうだ。あそこなら、あたしを修行させてくれるところがあるかもしれない)

 灯秀を忘れるための夢想が、いつしか本気の夢になった。決意を込めて両親に告げると笑われ、本気だと何度か訴えるとこっぴどく叱られた。

 気持ちが不安定になることは、年頃の娘によくあることだ。そう考えた両親は、一刻も早く娘を落ち着かせるため、裕福な茶房の次男を婚約相手に決めてしまった。

 いまさら断ったところで、別の相手が選ばれるだけである。家出を決意した翠明は、こそこそと荷造りをはじめ、いっさいの口出しをやめた。

 

 相手側の仲人が贈り物をたずさえて訪れ、それを受け取ることで承諾したとみなされる納采が、七日後に迫ったとある午後。

「いやはや! おめでたい茶をいただいたぞ!」

 翠明の父が興奮気味に、友人宅から戻ってきた。

「我が家のお転婆娘の婚約祝いだそうだ! 母さん、翠明、おいで!」

 自室にいた翠明は、旅支度用の衣服を寝台に隠した。荷造りはすでに終えている。明後日の夜更けに出発するつもりだ。

(父さん、母さん、ごめん。落ち着いたら手紙を書くよ。立派な茶師になって必ず戻るから、どうか許して)

 うしろめたい気持ちを隠し、翠明は父のもとに急いだ。父は木箱に入った茶筒を取り出し、小皿に茶葉をのせて見せた。

 色鮮やかな桃色の花茶葉。それを目にした瞬間、翠明は息をのむ。

 父が言った。

「遊江州の桃花茶とうかちゃだ」

 桃の花が開く直前の蕾を乾燥させた花茶である。桃の甘酸っぱさをかすかに残し、上品な渋みの奥に、梅や桜の香りを感じさせる愛らしい茶だ。

 飲みたいと言う父を、もったいないと母がたしなめた。

「納采の仲人さんに出す茶にしないと。手をつけたらダメですよ!」


* * *


 修行に出たら、数年は戻れない。

 あんなに親切にしてくれた灯秀に、自分勝手な哀しさと気まずさから別れも告げずに旅立つのは、礼儀に反しているのではないだろうか。

(いや、礼儀とかそんなんじゃない。最後に一目、顔が見たいだけ)

 そうしてきちんと別れを告げ、けじめをつけよう。

 決意した翠明は、両親が寝静まったのを見計らい、棚に仕舞われてある花茶葉を小さな巾着に入れた。

 それだけをたずさえて、幼いころから何度も通った路地を駆ける。

 灯秀が遅くまで茶房にいることは知っていた。案の定、小窓からほのかな灯りがもれている。翠明は息をととのえ、笑顔をつくってから扉を叩いた。

 間をおかず、扉が開く。灯秀が驚き、目を丸くする。その顔を見た翠明は、あまりの恋しさで内心泣きそうになった。


 この人に触れたい。この人とともに生きたい――生きたかった。


「夜分遅く、ごめんなさい。父さんが珍しいお茶を手に入れたんです。あたしが淹れるので、ご馳走させてください」

 満面の笑みを見せることができた。自分の演技のうまさには、ほとほと感心する。

 灯秀はまるで夢でも見ているかのように、立ちすくんでいた。

「しばらく来られなかったからって、あたしを入れてくれないんですか」

 翠明が冗談めかすと、灯秀ははっとしたように扉を開け放つ。店内に入った翠明は、灯秀を椅子に座らせ、小窓のそばの作業台に立った。

 茶師のようにはいかずとも、茶の作法は誰もが知っている。

 茶盤に茶杯を置き、風炉の湯を柄杓ですくってかけ、温める。急須も同じくして温めてから、巾着の花茶葉をそっと落とした。

 湯をそそぐと、儚い甘みが店内を包む。

 茶師なら香りで茶がわかる。灯秀がはっとした。

「きっとあたしの噂を耳にしているかもしれませんが、あたしは誰とも結婚しません」


 ――あなたと一緒に生きられないなら、あたしはずっと一人でいい。


「明後日の夜、内緒でここを離れます」

 灯秀に茶杯を差し出す。灯秀はまばたきもせず、翠明を見つめていた。そんな彼を見つめ返して、翠明は微笑んだ。

「あたしも茶師になるんです」

 灯秀の視線が、翠明から離れない。苦笑した翠明は、飲んでくださいと茶杯をしめした。

 灯秀が茶杯を手にする。口に運び、目を閉じた。味わい、吐息とともに深くうつむく。こころなしか、彼の美しいまつげが震えているように思えた。


 ――そう。あたしの桃は、あなた。

 ――あなたが、ずっと好きでした。


「残りの花茶葉は、差し上げます」

 売り台を出ると、灯秀が顔をあげる。翠明はいまにも泣いてしまいそうで、先を急いだ。

「あなたの好敵手になって帰ってきますからね! それまで、どうかお元気で!」

 灯秀が席を立つ。外に出た翠明は、最後に彼の顔を目に焼きつけ、扉を閉めた。


* * *


 翌日は、せめてもの親孝行で両親の手伝いをよくした。

 いよいよ旅に出る当日の午後。両親への手紙を書き終えたとき、母に呼ばれた。夕餉ゆうげの使いを言い渡されたので、籠を持って出かけようとした矢先、すっきりとした礼装姿の品のよい壮年の男が玄関先に立った。

 両手に、流麗な刺繍のほどこされた純白の絹の包みを持っている。

 婚約相手の仲人だ。しかし、納采はまだ先のはず。両親も互いに顔を見合わせる。

「……納采は今日ではないはずなんですけれど……?」

 母が首をかしげる。

 翠明は青ざめた。ここでそれを受け取ったら、求婚を受け入れたことになってしまう。そうなれば、婚約したのに逃げた娘ということになり、相手側も両親も自分のせいで恥をかくことになるのだ。

(だから、その前にいなくなるつもりだったのに、どうしよう!)

 受け取る前の逃亡であれば、自分一人のわがままですませられるし、相手側も次の相手を堂々と見つけられる。顔面を蒼白させる翠明を尻目に、

「まあ、いいか。急いでご馳走の準備をしましょう。さ、あがってください!」

 父親がにこにこ顔で受け取ろうとする。

「ま、待って! どうして納采が早まったのか、ちゃんと訊かなきゃ!」

 翠明の必死の言葉に、両親はぴたりと動きを止めた。

「まあ、それもそうか」と父。

「なにかわけがおありでしたか?」

 母が訊ねる。微笑んだ男性は、包みを持ったまま告げた。

「誤解をさせてしまったようで、大変申し訳ございません。私ははく灯秀様の仲人として参ったものでございます」

 翠明は驚き、固まった。

「……伯?」と母。

「東雲茶房の茶師様にございます。こちらは贈りものの一部。後日、正式に納采に参ります」

 唖然とする両親をさしおき、翠明は包みを受け取った。信じられない。これは夢だろうか。

 もしかすると夢かもしれない。でも、それでもいい。

「翠明様に、灯秀様よりご伝言がございます」

 仲人が言った。

「あなたが私の声になってくれるなら、私の生涯をかけてあなたを育てましょう――とのことです」

 翠明は礼儀も忘れ、玄関先で包みをほどく。細長い木箱に入っていたのは、見るからに最高級。細やかな花々が彫られた、大小様々な形状の茶さじだった。

 小さな紙が入っており、開く。それを見た翠明は、思わず笑う。

 両手に桃を持った、いたずらっ子のような猿の絵だった。

 嬉し涙をぬぐった翠明は、仲人を見つめて告げた。

「受け取りました。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いいたしますとお伝えください」

 

* * *


 月のきれいな夜、翠明は灯秀を思い出す。

 茶を交えて静かなおしゃべりを楽しんだ夜のことを、思い出す。

 今夜はとくに、月がきれいだ。

 翠明は天にいる夫を思いながら、久しぶりに手に入った桃花茶を、ゆっくりと丁寧に淹れた。そうして、小窓からふと夜空を見上げる。

「――おや、流れ星」

 なにやら、いいことがありそうだ。


(了)

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戀々茶房物語 羽倉せい @hanekura_s

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