戀々茶房物語
羽倉せい
一
目の前に出されたのは、ガラスの茶杯だった。
茉莉花と
若い新郎新婦を祝福するかのように、かぐわしい花弁と青茶の香りが、板床の広間をゆったりと包み込んだ。宴席の人々は吐息をもらし、両親とともにその場にいた幼い少女も、両手にある茶杯に目を輝かせた。
(……とってもきれいなお茶。これ、本当にお茶?)
まるで咲き誇る花弁を、ガラスの茶杯におさめたかのような茶である。飲むのがもったいなくてぐずぐずしていると、少女の父親がつぶやいた。
「なんと手の込んだ花茶だ。このような美しい茶は、見たことも飲んだこともない」
「ええ、本当に! あたしもですよ」
そう答えた母親は、茶杯を口に運ぶと、うっとりした様子でまぶたを閉じた。
今宵、めでたき宴に招かれて祝茶を振る舞ったのは、まだあどけなさを残した少年であった。
年の頃は十五、六。青い絹の礼装を身にまとい、黒髪はきっちりと頭頂でまとめている。
すっきりとした姿勢で中央に座しながら、小さく丸められた茶葉をガラスの茶杯に落としていく。そうして風炉の柄杓で湯をそそぐと、次々と花弁が開いていった。
茶杯が運ばれるたびに、客人たちの感嘆の声があちこちから聞こえてきた。
「なんと見事な茶だ」
「まるで芸術作品のようじゃないか」
賛辞を浴びる少年の横顔を、少女はそっと盗み見た。
(このお茶みたいな、きれいなお顔……)
そう思ったとき、母が父に訊ねた。
「ねえ、あんた。あのお若い茶師様は誰なの?」
「天雲茶房の三男坊だ。
「まあ! 兄弟全員が立派になられて、天雲のご当主はさぞ自慢でしょうねえ」
「そうなんだが……彼だけ少し難しいところがあるという噂だ」
父は声をひそめながら、表情を曇らせる。
「難しいって、気性がかい?」
「噂を耳にしただけだから、俺だってよく知らない」
父が答えた直後、当の茶師が挨拶まわりでこちらに近づき、目の前に座った。
少年が挨拶代わりに会釈する。両親を真似て少女も頭を下げたが、いまだ両手にある茶杯の茶は減っていない。それに気づいた少年は、不安げな眼差しを少女に向けた。
まずくて飲めないのだと、思わせてしまったかもしれない。
少女は焦り、素直に告げた。
「すごくきれいだから、もったいなくて飲めないんだ。これ、お花畑みたい。本当にお茶? 飲んでもいいの?」
そう訊ねると、少年は安堵したかのように表情を柔らかくして、微笑んだ。そうしてからおもむろに、細長い黒板を帯から取り出す。小さな巾着から
――今宵のために、私が手づくりをしたものです。
――もちろん飲んでください。二煎目も楽しめますからね。
話せないのだ。両親が息をのむ。だが、少女は違った。
「あなた、おしゃべりできないの?」
「これ、
母にたしなめられたが、少年は朗らかに笑ってうなずいた。布で文字を消すと、ふたたび白墨をさらさらと走らせる。書き終えると、翠明に見せた。
耳を隠した猿と、口を隠した猿の愛らしい絵だった。
「あ、言わざる聞かざるのお猿さん!」
喜んだ翠明がクスクスと笑う。少年もにこにこして、こう書いた。
――私は
生まれつき聞こえず、話せない。けれど、彼自信の努力もあって、言葉は他人の口の動きで読めるのだそうだ。
「あたし、翠明。よろしくね!」
灯秀が頬をほころばせた。飲んでくださいと伝えられたので、翠明はそうする。少しぬるまっていたけれど、胸いっぱいに花香が広がって、春の野原を裸足で駆けているかのような心持ちになった。
(……わっ、幸せの味だ!)
見た目の美しさもさることながら、あまりのおいしさにびっくりし、少年をまっすぐに見つめた。
幸せの味。そうか、これは、この人が幸せを願ってつくった花茶なのだ。
末永くお幸せにと、声にする代わりに茶にしたものなのだ。
「……そっか! あなたはお茶でおしゃべりできるんだ。すごいね!」
びっくりしたように、灯秀は涼やかな瞳を丸くさせる。と、次の瞬間、心底嬉しそうにくしゃりと笑った。
(幸せになれるお茶、作れてすごいな。あたしにも作れたらいいのにな)
そう思った。翠明が八歳のときのことである。
* * *
龍国の人々にとって、茶は文化であり宝である。
大小さまざまな茶館や茶房が都のいたるところにあり、この下町にもたくさんあった。
それらを営む者のもとに嫁ぐのは、年頃の庶民の娘たちにとって玉の輿を意味しており、翠明が年頃になるや、例にもれず両親や親族、はたまた近所の人々が、ひっきりなしに縁談をもってくるようになった。
「西陽茶館の次男はどうだ? いずれ自分の店をはじめるだろうから、いまのうちに手をうったほうがいいとおじさんは思うんだ」
「それよりも、翠明。おばさんは燐永茶房の一人息子を推すよ。なかなかの美丈夫だし、茶師としての腕もいい」
母や父までもくわわって、いやいやそれよりも……といった会話はやがて喧嘩に発展する。翠明はいつも頃合いを見計らい、その場から逃げた。
「――あっ、これ! 翠明、待ちなさい!」
「縁談すすめてもいいんだね!」
「おいおい、こっちが先だぞ」
「なにを言うの、あたしが先ですよ!」
言い争う声を背中に受けながら、翠明は家を飛び出した。いつものように下町を走り抜け、いつものように馴染みの茶房に逃げ込んだ。
控えめでささやかな看板の、東雲茶房。
「灯秀さん、かくまって!」
灯秀は翠明を見るなり、微笑んでうなずいた。
この店にはじめてきたのは、宴席で灯秀と出会ったひと月後。
母とともに茶葉を購入するために訪れ、やがて翠明一人が使いに出されるようになった。
商人の父のもとには客人が絶えず、茶葉はあっという間に減ってしまう。間をおかずに足を運ぶようになり、灯秀とは自然な流れで仲良くなったのだった。
翠明はとにかくお転婆で、近所の子どもらと泥遊びをして衣を汚したり、実のなった木に登って摘んだりするので、ことあるごとに母に叱られた。
そのたびにこの店に逃げ込み、灯秀からお菓子とお茶をもらってご機嫌になり、母に見つかってまた叱られ、母と一緒に灯秀に謝るということを繰り返した。
そうして七年。翠明はいまだに、この店に逃げ込んでいる。
茶葉を売って客足が途絶えると、灯秀は茶房の扉を閉めてくれる。そうして翠明が落ち着くのを待ち、ふたたび店を開けるのだ。
開けておいてもいいと翠明が言っても、灯秀は「いいんです」とでも言うかのように微笑むのだった。
だから、翠明は甘えてしまう。今日もそうだ。
「お店の邪魔してすみません。けど、聞いてください、灯秀さん。また親戚のおばさんとおじさんが来て、あっちはどうだこっちはどうだって、まったく面倒くさいったらないんです」
たおやかな茶葉の香りが、こじんまりとした店内をゆったりと包んでいく。
作業台に立った灯秀は、茶を淹れながらちらりちらりと翠明の口を読む。
「会ったこともしゃべったこともない相手なんて、姿かたちがどうであれ全部一緒。あたしにとっては、全員ジャガイモみたいなもんです」
灯秀は澄んだ瞳を楽しそうに輝かせ、笑みを噛み殺した。
「あ、また面白がってますね」
灯秀が首を左右に振る。
「いーや、面白がってる。あたしにはわかるんですからね」
二十歳をとうに過ぎている灯秀に、妻はなかった。
端正な顔立ちの彼は、穏やかで物静かということもあり、女性たちに人気がある。当然のことながら縁談もあったようだが、すべて断っているという噂だった。
(きっと、心に決めた人がいるんだ)
翠明の胸はちくりとした。けれど、黙っていられない性分だから、思いきった。
「そういえば、灯秀さんはどうして結婚しないんですか」
灯秀が瞠目する。と、控えめに笑み、黒板に白墨を走らせた。
――私には夢が二つあります。一つは、私のお茶で誰かの願いを叶えたり、幸せになっていただくこと。
――そしてもう一つが、真に腕のよい、この国随一の茶師を育てることです。
黒板を見せられて、翠明はびっくりした。灯秀は文字を消し、書く。
――けれど、私は話せないので、そのような茶師を育てるためには、相応の労力を費やすことになるでしょう。この生涯を、賭けることになるかもしれません。
翠明に見せてまた消し、また書く。
――家族がいたら、きっと私は自分の夢に夢中になって、大事な人たちをないがしろにしてしまうかもしれません。だからです。
自身の生涯を賭けるほど、本気らしい。しかしこれまでの間、弟子らしき者を店内で見かけたことは一度もなかった。
「……お弟子さんは、まだとらないんですか?」
灯秀は照れくさそうに笑む。
――人生をともにしなくてはいけないので、私との相性と才の両方を見極めなくてはいけません。なかなかに難しいことです。
まだ見つかっていないらしい。黒板の文字を目にした瞬間、考えるより先に言ってしまった。
「――じゃあ、あたしは?」
灯秀が驚く。翠明はここぞとばかりに身を乗りだした。
「あたしを弟子にしてください。ジャガイモを夫にするぐらいなら、自分で生きていける道を選びたい。それに、はじめてあなたのお茶を飲んだとき、こんなにきれいでおいしいお茶を、あたしも作って淹れてみたいって思ったんです」
灯秀はまばたきもせず、見つめてくる。
「灯秀さんとは気心だって知れているし、家からだって通えます。それに、茶葉を仕入れる灯秀さんが旅に出ている間、あたしが店番します。そうすれば、お店を閉めなくてもよくなりますよ」
翠明はたたみかけた。
「女の茶師はまだ少ないし、厳しい道だってこともわかっているけれど、あなたのように茶葉を配合できたり、おいしいお茶を淹れられる茶師になれるなら、こんなに嬉しいことはありません!」
灯秀の顔から、笑みが消える。どこか哀しそうに視線を落とすと、ためらうように白墨を手にした。
――それはいけない。
「なんでですか? あたしが女だからですか? 自慢じゃないけど、あたしはそこらの男より物覚えもいいし、根性だってあります!」
灯秀が少し笑む。まるで、いまにも泣きそうな目で。
そうして、黒板に書いた。
――あなたは、幸せにならなければ。ジャガイモの中に、きっとみずみずしい桃が隠れています。その桃が、あなたの運命のお相手でしょう。探してあげなくては。
一瞬手をとめ、文字を消す。そうして、灯秀はいっきに書いた。
――どうぞ、あなたの宴席に私を呼んでください。最高の祝茶をふるまいます。
翠明は、どう答えたらよいかわからなくなった。けれど、傷ついたことを悟られなくて、なんとか笑みつつ冗談めかした。
「……そう、ですよね。いやいや、なんとなく言ってみただけです! けど、祝茶だなんてありがとうございます。そのお茶に見合う相手を探さなくっちゃ、ですよね?」
さ、そろそろおいとましなくちゃ。ありがとうございます。それではまた。
翠明は元気よくそう告げ、灯秀をまともに見ることなく、店をあとにした。
(バカなあたし。弟子にしてだなんて、どうして言っちゃったんだろ。案の定、断られちゃったじゃないの)
じわりじわりと胸が痛む。なんだかもう一歩も歩けない気がして、路地裏で立ち止まったとたん、ぽとりと頬に涙が落ちた。
ぽとり、ぽとり。やがて翠明は、迷子の子どものようにその場にうずくまった。
(ああ。本当にあたしはバカだ。こんなときになって、やっと気づくなんて)
傷ついたのは、弟子になることを断られたからじゃない。
好きな相手に結婚をすすめられたから、だった。
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