それはまるで毛布のなかの両の手みたいで
中田満帆
それはまるで毛布のなかの両の手みたいで
*
みじかい階段をあがって入出庫のホームを歩き、その半ばにあるエレヴェータにみんなと乗った。ぼく、フロア主任、香水の臭う長身の男、年増女、そしてかの女と。2階での持ち場に就いて、まずは棚づけを始める。室いっぱいに棚が並び、そこには照明器具の部品がある。どの商品を、どこに置けばいいのかがわからない。棚番はめちゃくちゃだ。もちろん先出し、後出しもある。棚に入らないものは床に置くしかない。主任は急かす。早くしろ、早くしろ、早くしろ。午后ちかくになって今度は伝票が来るのを待った。出庫作業だ。ぼくはパレットを降ろし、ハンドリフトに通した。やがて主任が伝票を持ってきて、机にひろげる。そして割り振りをした。主任のぶん、壮年のぶん、ぼくのぶん、かの女のぶんだ。それぞれリフトを引きながら、ピッキングをはじめた。もうここへ来てひと月半にもなるのに、商品の場所はまったくのでたらめで、伝票の棚番通りにはまったくいきはしない。困ったときは年増女に訊く。それでもないときがある。いつも商品が完全に揃うまでに定時を過ぎ、残業がはじまる。ぼくは昼餉に大盛りのスパゲッティを平らげ、ビールを呑んで職場にもどった。そして休憩室で本をひらき、かの女の声を聞く。聞き耳を立てるのだ。
高校卒業してキャディーの仕事をはじめたんです。
それでこっちに来て。
ほんとは専門学校にいきたかったけど、
お父さんに「あほか!」っていわれて。
キャディの寮はわたしとおなじ九州の子がおおくて。
かの女は、ほかのフロアの40男と愉しそうに話をしてる。かの女の身の上ばなしだ。ぼくだってかの女と、ああいう話をしてみたい。そうおもいながらずっと聞いてた。
高校時代はバンドやってて、
わたしベースもギターも弾くんですよ。
いまも楽器は持ってるんですけど、
いまはゲームばっかりしてて。
ぼくもギターをやってる、そういいたかった。それでもかの女はぼくが立ち入れないような聖域みたいな気がする。やがてかの女は女子用の休憩室に入り、40男は去って、ぼくはひとりになった。「裏切りの国」というイギリスの冒険小説を読みながら、時間が経つのを、そしてまたかの女と仕事することをおもった。時間になり、倉庫にもどって、残りの伝票を見た。きょうも残業だ。半分も終わっちゃいない。やがてみんながもどって仕事がはじまった。主任が笑みを浮かべていう、
なに喰った?
スパゲッティです。
おまえ、よう喰うなぁ。
たしかにそうだった。ぼくはすっかりデブだった。23歳になるまでのこの1年、太りすぎてしまった。主任はぼくの腹を叩き、やがて気味のわるい笑みを、冷たい、無表情に変えて持ち場にもどった。気分がわるい。むかむかしてた。気づくと、品番のちがう商品をパレットに積みあげてしまってた。けっきょく仕事は7時までつづき、ぼくはせっせとトラック別にわけたパレットを階下のホームへ持ってった。運転手たちにパレットを渡し、また2階へあがる。ふとかの女を見た。つらそうなふたつの眼がみじかい髪のなかで一瞬光る。ようやく仕事が終われば、ぼくはかの女に挨拶をするために駐輪場で待った。そして叶えてから、酒を買いにいった。バーボンをいっぽん。ひとくち味見してると、男が寄ってきた。若い男だ。ぼくとそうかわらない。背広を着てる。その口元はだらしなくひくつき、なにかを求めてる。でもなにかを得るにはまずは冷や水に頭から突っ込んで、自己認識ってやつを重層化する必要があるみたいにおもわれた。あるいは脳味噌にシラタキをぶち込む必要があった。
つまるところ、やつはまともじゃなかった。わるい色が一色、その心を占領しちまってるにちがいなかったんだ。やつはぼくのそばまで来て、もぞもぞしたうごきを何度か繰り返した。ぼくにつよい蔑みをむける。そしていった。
呑ませて欲しいんや。
ふざけるな。
おまえ、おれのこと知っとうやろ?
いいや、おまえなんか知らない。
小学校でも、中学でも一緒やったろ?──おまえ、太ったな。
いいや、おまえなんか知らない。
おまえはいつも絵を描いてた、絵ぇ巧かったなぁ。
いいや、おまえなんか知らない。
おいっ、ちょっとでもええから呑ませてくれや!
おまえはだれだ?
友だちや。
タイムカプセルはどうした?
タイムカプセル?
おまえ、呼ばれんかったか?
おれは黙ってやつに壜を差しだした。ふたくちほど呑まれて壜はもどってきた。どうだっていい。
これで気が済んだか?
まあな。──おれんちに来いや。
いいや、おまえなんか知らない。
おれは知ってるんやで、おまえのことなんか。
じゃあ、いってみろ。
おまえは勉強できへんから、みんなにばかにされてた、
おまえはユカのことが好きやったけど、ユカにはきらわれとった。
ユカのこと、修学旅行で追い回し、カメラで撮ろうとしてた、
おまえはユカからもらった自己紹介のカードにふざけたことを書いて先生に取りあげられてた、
おまえは議論の授業でいつもとんちんかんで場違いな発言をしてまわりをしらけさせてた、
おまえは中学1年、おなじクラスのやつをナイフで刺した、そいつは孤児で転校してもた、
おまえはだんだん学校に来なくなって、3年は1回しかいってなかった、
おまえはアリマの定時制にいって、おれらとはそれっきりや。
おまえは、──とやつはまたいいかけて、ぼくが遮った。聴くに堪えなかった。ぼくは折れた。それでやつの家にいくことになった。ニケツして丘をあがり、小学校のある区域へとのぼった。やつの家は公園のてまえだった。森のむこうから高速道路の灯りがちらちらしてる。ハイソを気どったらしい白い家にやつが誘った。
なにがあるんだ、家には?
ビールならあるで。
ほかには?
なぃで。
内装は白で統一されてる。薄汚れた白だ。壁紙の隅に黒黴が生えてる。なにか腐ったみたいな臭いがしてた。やつと台所へいった。そして木目のテーブルにかけてビールを待つ。やつが国産を4本持って来る。ぼくはそいつをチェイサーに、安いバーボンを呑みはじめた。
残念ながら、――とぼくはいった。
おまえのことはおもいだせないんだ。たぶん、おもいだしたとたん、ぶん殴ってるだろうけどな。
できるわけないやんけ、おまえにひとは殴れへん。
おれは1年まえ、親父を殴った、他人だっておなじことだ。
家族との仲もわるいんやな。
家族との仲が、だ。
そやけどおまえ、おれたちのだれともつきあいはあらへんやんか?
それが友だちにいう科白なのか?
友だちねえ、あれは巻き餌みたいなもんや。
おまえに友だちはおらへんて。
ぼくは黙り込んだ。いったい、なにが愉しくて友だちでもないやつを家に誘う? ビールをだす? やつから眼をそらし、室のなかを観察した。汚れた扇風機、かつてはハイ・センスだったはずのガス・コンロ、ひどい花の絵が描かれたポット、冷蔵庫に貼られたメモ、そこに書かれた文字、「牛乳がない」、「調味料が切れてる」、「あけたら閉める!」。ひらかれたガラス戸のむこうにある居間。板床に散らばった婦人雑誌、テレビ、ゲーム機、経済新聞、洋服ダンス、小さな染みみたいに見えるなにか、テーブルと、そのうえの請求書たち、コーヒーの臭い、莨の臭い、老人の臭い。なにもかもがいけ好かないし、なにもかもが剥きだしのなにかに見える。それにしてもかれの両親はどこにいるのか。もう7時も過ぎているのに、だれもいない。なにか、正体のわからない空気が漂ってる。
おまえの家族はどこだ?
でかけてる。
どこに?
夜勤だ。
やつはにやりと笑い、一瞬腰を浮かすと、うしろむきのまんまおなじところへ坐った。ぼくはかれの後頭部にむかって話をするはめになってしまった。いったい、どういうつもりだ。
なるほど。――それでつまみはないのか?
冷蔵庫にシメサバがあるわ。
とっととだしな。
おれに命令すんなや!
それでもやつはシメサバのパックをだしてきて、皿に盛った。おれは指で切り身を摘まんで喰いながら酒を呑んだ。いまのところはハーフ・ロックにしといた。これからなにが始まるのかがわからないからだ。こいつの腹づもりがどんなものか、様子を確かめたかった。――なにか話をしろよ。
話?――そうやな。――おまえ、童貞やろ?
だったら?
女、欲しくないんか?
欲しいよ、そりゃ。
でも、なにもしてないんやろ?――おれはちゃんとやることやったで、大学の新歓で手に入れたで。
でも、おまえはなにもできへんのやろぉ?
生憎、万策尽き果ててね。
うそ吐くな、努力しなかったんやろ?
ハンデが大きすぎるんだ、生まれた星が好くないのかもな。
ごまかすなや。
なにも。
おれはずっと手のうちをあかしてる、ごまかしてるのはおまえのほうだ。
おまえの目的はなんだ?
いまなにをしてる?
それを訊いてどうする?
それを話さないでどうすんねん?
倉庫作業員、照明器具のな。
おれは営業や。
くそみたいな仕事や、――でも、おまえは楽やな、人間じゃなくて品物相手の仕事なんやから。
女がいるんだろ、文句はいえないよ。
女なんてトラブルの一種やで。
あーだ、こーだ、うるさいわりにろくなことにならへんし。
あんなもん、おまえにやるわ。
じゃあ、なんで童貞だなんて持ちだすんだ?
新歓なんてほざくんだ?
おれはわざわざこんなところまで来て、どうして知らないやつの愚痴を聞くんだ?
おまえはおれを知っとう!
「いいや、おまえなんか知らない」――そのとき、やつはこっちをむいた、上半身をひねり、それから下半身も向きを変えた。焦ったおもづらでぼくを見つめ、すがりつくようにこっちに乗りだした。
ちょっと待ってくれや、
少しでいいから懐いだしてくれへんか。
無理だよ。
お互い遠い過去なんだ。
憶えてていいことじゃない。
むかし、おれたちのあいだでなにかがあったのかも知れない。
でもそれは終わったことだ、つまりはジョン・ウェインが勝ったってことなんだよ。
おまえはきっとかつて憐れなこのおれが、いまも憐れに酒を呑んでるからって声をかけたんだろ?
からかってやろうって腹づもりなのはとっくにわかってるんだ、でもそんなことに意味なんかない。
やつはしばらく黙ってビールを啜ってた。ぼくはバーボンの、〆の1杯を呑むところだった。こんなところには長居は無用だ。早く、早く離れなくちゃならない。あしたも仕事。主任の青白く、冷たい顔が浮かぶ。眼鏡のなかの、決して笑わない眼が浮かぶ。それからかの女のうつくしい顔が浮かぶ。おれはいかなくてはらない。
おまえの書いてる詩、ネットでぜんぶ読んだんや。
それで興味が湧いてな、
おまえがどんな暮らししてるか、それでなんとなくわかった。──おまえには夢がある。
なるほどな、――でも話すことなんかないだろ?
いや、おまえに会いたがってる女がおんねん、おまえとおなじクラスやった子が!
きょうは疲れてるんだ、それにこんな太った姿は女に見られたくない。
いまから呼んでくる、待ってろよぉ!
やつは勝手に飛びだしていった。ガレージから自転車をだす音がする。沈黙。ぼくは待った。ビールはまだ2本ある。バーボンを鞄にしまって、それをちびりと始めた。もう夜の8時だ。木枯らしが鳴る。箒にすがりつくようなかぜの声がする。1本めをやって30分、2本めをやって20分、もういちどバーボンをだして啜った。もしかしたらまたぞろ、くだらないのがやって来ておれを嘲りに来るのかも知れない。そんな羞恥に耐えられるかどうか。けれど、どっかで期待してしまうところもある。女の子がおれを待ってるのかも知れない。そう考えると、なんだかわるい気もしないではない。その場の勢いとやらで1発できてしまうかも知れない。どうせ、かの女とは発展なんかないし、このままじゃ童貞で人生が終わってしまうじゃないか。そんなことを考えて1時間半。
ぼくは家をでた。そしてジョルノに跨がり、発進する。やがて公園脇の林道にひとの姿があった。倒れた男の姿が。やつだ。ぼくは降りて確かめる。首に打撲痕がある。倒れた拍子に傷つけたのか、左頬に血が滲んでる。死んでるわけじゃない。冷たい夜だ。ふたたびジョルノに跨がって発進した。夜の森が黒々とあたりを被い、暴力の気配を滲ませてる。田舎町は退屈と狂気にまみれてる。それを救ってやれるのはぼくだけだ。けれど、それはぼくの錯覚だ。どこを走っても、このあたりに公衆電話はない。そして携帯電話をぼくはいまだに持ってない。だれかに報せたほうがいいのはわかる。でも、けっきょく帰ることにした。面倒はごめんだ。もしかしたらとは、おもう、やつとほんとうに友だちになれたかも知れないと。つぎの瞬間ぼくはそのおもいを嘔き棄てた。ひどい味がしたからだ。あんなやろうは好きなだけ凍えてればいい。
*
欠勤した。午の2時まで眠って、それから酒を買いにいった。ほとんどの金が酒で喪われていく。ぼくは週ふつか欠勤する。あの子もだ。室に帰って音楽をかけ、両切りに火をつける。完璧だった。きょうはスコッチを仕入れた。シングル・モルトの。4千円もした。ネットを見る。相も変わらず、ぼくの作品に反応はない。書くことの意味を見失いそうになる。詩誌のほうでも掲載の連絡なしと来た。日常の、ありふれた奇跡、そんなものすらここにはない。3年まえのことをおもいだす。ホテルで見失ったかの女がどうしてるのかをおもうとき、いやな汗を掻いてしまう。それでも酔いがまわり、そんなことは忘れる。妹たちの声が階段や廊下に響く。かの女たちは自由だ。ぼくはといえば父の使用人みたいなものだ。
ふかく酔わないうちに手淫を済ませた。ぼくはどうやってでも、早く世にでなければならなかった。だって仕事のうだつはあがらないし、またじぶんから辞めてしまうだろう。いまのところはかの女の存在がつっかえ棒になってるけど、かの女がいなくなればもうあそこで働いていられないだろう。このまま歳をとりたくはない。いますぐにでもデビューして、かつてぼくを蔑んだやつら、からかったやつらを見返したかった。さもなくば死ぬしかない。25歳まで、あと2年しかない。ぼくは早熟というものにいちばんのあこがれがあった。でも、けっきょくいつものように酔いどれて眠り、次の朝に容赦なくぶち呑めされるんだ。いつもの棚づけが待ってる。入庫数がいかれてる。
早く、
早くして、
早くやって!
フロア主任がぼくはきらいだ。ねちねちとひとの陰口を叩き、つまらないギャグをやって笑いをせがむ。ぼくはつくり笑いで凌ぐ。やつは早く、早くと仕事を急かす。仕事は終わらない。個数が揃ってなかったり、品番がまちがってたり、いつもなにかがあった。家で呑む量は増えてった。ロッカーにも酒を置き、休憩時間の気つけ薬にした。年があけて1月、いつものように量販店で酒を見てた。当然。おれはなにをやっているのかとおもった。もうずっとなにも書いてはない。詩も小説も絵もなにもかもが遠くにやられ、いまでは展ばすはずの手を酒瓶にやってる。もう書けないのかとおもう。だいたい、ぼくに情熱も真剣さもないんだ。ぼくよりも若いやつらが次々とデビューを果たし、いつまでもぼくは遅れてる。2年まえ、作家の弟子になったというのになにも進展がない。かれはぼくを褒めてはくれる。ただし、それまでだ。
冷たい家で、あたらしい酒を連れて室へいく。カーテンもない窓のむこうで父がまた作業してる。つよい灯りを焚いてだ。めざわりでしかない。PCの画面越しに世界を眺め、じぶんとはなんの繋がりもない話題に笑ったり、怒ったりしながら夜が更ける。水割りはハーフロックになり、それはやがてロックになって、やがてストレートに変わった。乾いた咽に即席ラーメンをぶち込むと、あとは昏倒して、気がつけば朝だ。壜に残った酒をあけ、ジョルノに乗る。倉庫街のかぜは痛いほど、鋭かった。ぼくはいつになれば身を立てられるのか。いつまでもなんの成長にもならない単純な仕事に身を窶すのか。あまりにも不安な朝だ。いつもみたいに2階へいき、仕事を始める。かの女は休み。そんなときだった。
あの子、辞めるみたいやね?
年増女が口を切り、30男の主任が答える。
残業についていけへんのやろ。
そのときになってようやくぼくはかの女に惚れてるってことがわかった。かの女のみじかい髪、白い肌、愁いを含んだまなざし――もちろん、こんな表現は陳腐だし、仮に読者がいたら眼を背けてしまうだろう。でも、たえられずにぼくは倉庫の奥でしばらくのあいだ、かの女へのおもいをぶちまけてた。だれもいないところで。かの女はあした来るのか、来ないのか。そうもおもった。それはまるで毛布のなかの両手みたいで、覆い隠されたおもいだ。
けっきょく、かの女は来た。雑談をした。かの女はぼくとおなじ歳で、おなじ町に棲んでるのがわかった。そしてどういうわけか、かの女とぼくは腕相撲をした。主任にやらされてだ。かの女が手袋を脱ごうとする。ぼくはそれをとめる。かの女の、裸の手、それをぼくが汚すわけにはいかなかった。ぼくはかの女に勝ちを譲って、仕事にもどった。どうやら、月の終わりに辞めてしまうらしかった。でも、ぼくはなにもいえなかった。こんな醜いでぶやろうが、かの女に近づいたってろくでもない。夜、かの女をおもって1篇の詩を書いた。そいつに「太った聖者」となまえをつけた。深夜まで父が作業をしてる。眠れやしない。こっちも音楽をかけ、酒を呷った。
うるさい!
その変な音楽消せ!
知るか、くそったれ!
父が室に入ってきた。ぼくは父に殴りかかった。拳がテンプルに決まった。父はフックを用意してる。でも、母が2階から降りてきて、わって入った。そして、あしたカーテンを買うからといって泣いた。泣きながら2階へあがってった。父は作業場の灯りを消し、ぼくは眠ることにした。かの女はあした来るだろうかとおもいながら。
かの女は来なかった。ぼくは宿酔いでどうしようもなかった。入庫品を隠れて毀しまくった。踏んづけて、蹴飛ばした。かの女がやめるまであと1日しかない。この3ヶ月、なにもできなかった。その日、早退した。当然、主任は怒った。でも、それ以外にどうしようもなかった。かの女にできることはないだろうか、ぼくはそう考えつづけた。長い坂道を上りながら、どうやっておもいを伝えられるだろうかと考える。けっきょく、それまでの作品をまとめることにした。水彩画と写真、そして詩歌。なるべく量を抑えて、クリップで留める。そのページの最後に「好きでした」と書いた。これを渡そう。
朝、エレヴェータにかの女がいた。どうしようもなくうれしかったが、あしたでかの女とはお別れだ。できるだだけ話そう、話しかけようと考えた。かの女と眼があった。――おはよう。――かの女が応える。――おはよう。
きのう、ぜんぜん寝てなくてね。
わたしも、ずっとゲームしてた。
おれはギター弾いてた。
かの女は悦んだ。じぶんもまえにバンドをやってたといい、いまもギターとベースが室にあるといった。いまはゲームでぜんぜん触ってないことも。――それはみんないままで立ち聞きしてたことだった。
ドアーズってバンドの曲をやってた。
洋楽?
うん。
むつかしそう。
その日はずっとかの女の仕事を楽にできないかと立ち回った。でも、大したことにはならなかった。なんどか話かけただけだ。残業を終えて、服を着替えた。みんながかの女に話しかけてるあいだに駐輪場へ降り、かの女を待った。長いこと待った。よほど帰ろうかとおもったとき、かの女が降りてきた。フェイク・ファーのついた紫色のダウンと、カーキ色のズボンを穿いてる。かの女の笑顔がたまらなかった。
きょうで終わりだって?
うん、そう。
お疲れさまだったね。
ほんと、しんどかった。
ところで――といってぼくは鞄から作品をとりだした。――こんど、本を出すんだけど、よかったら読んでよ。
えー、凄いね。
咽がからからで声がでずらい。もっとなにかいいたいことがあるはずなのにいえなかった。かの女はぼくに手をふって、
じゃあ、またね。
たしかにそういった。そんなこと、あるはずもないのに。ぼくはかの女が林道を下って消えてゆくのを確かめ、ジョルノのエンジンをかけた。もう2月だ。また単調で、退屈な仕事が待ってる。ぼくから人間らしさを奪う仕事が待ってるんだ。ぼくはまた酒を買いに走った。きょうはとびきりの酒にしようと。やがて酒を手に入れ、バス停のまえで停まった。精神病院へとつづく暗い坂が植木のなかで延びている。無人のバス亭でなぜ呑んだ。どうしてかはわからない。泥酔の果て、だれかがやって来た。そしてなにごとかを呶鳴りながら、ぼくの上着を剥いだ。ぼくはそれをどうすることもできない。なにも聞こえない。なにもわからない。気がつくと、シャツ1枚で隧道を歩いてた。引き返してみる。ジョルノだけは無事だった。ぼくはそいつに跨がり、上着が落ちてないか探った。河床に引っ掛かってた。
かの女が辞めた翌日、おれは休み、クビになった。もうどうだっていい。それから飯場に潜り込み、あるいはスーパーの屑入れに潜り込み、あるいは医薬品の倉庫や、冷蔵倉庫にもいったりした。家にはいられなかった。父との折り合いはどうやってもつかないからだ。日銭稼ぎの、当てのない日がつづくなか、なにかが蝕まれていった。夜は公園で眠り、午は働く。あるいはその反対だってある。薄汚れたわが身を繕う、そんなゆとりもない。週に何度かはネット屋のシャワーを使ったりもしたけど、それも回数が減ってった。仕事がなくなってきたからだ。とにかくどうしようもない。仕事はなくとも酒はやめられなかった。いつもの店で、酒を買い、公園で呑んでた。暗がりのなかのベンチに坐り、昔から抱いてる多くの空想とともにして呑む。気づいたときにはだれかの室にいた。ぼくは起きあがってあたりを見る。
やっと、気ぃついたか?
ずいぶんまえに見たことのある顔だった。できれば見たくない顔だった。おそろしく退屈で、冗漫で、怠惰で、笑えもしないし、泣けもしない、もはや怒りの湧いて来ない顔だ。感情らしいものを見いだすのも億劫になる顔。そして鼻。
おれのこと、懐いだしたか?
ぼくはいった。
いいや、おまえなんか知らない。
ビールがまだあるでえ。
いいや、こんなところにはいたくないよ。
まあ、そういうなや、ほら、まえにいった子ぉ、連れてくるから。
わかったよ、さっさと連れて来いよ。
ああ、いま電話したるわ。
やつは臀のポケットから電話をだしてすぐにかけた。幽かに女の声がしてる。ぼくはしばらく我慢することにして、酒壜をとった。何度か、それを呷って、深い呼吸を繰り返す。もう泥酔もいいところにちがいない。やがて電話は終わって、やつが怪しい笑みを浮かべてぼくを見た。
すぐ来るそうやで。
そうか。
それで、そいつは美人か?
ああ、きれいやで。
やがて階段を昇る音がした。不定形の女が室に侵入して来る。定型に収めるにはどうしたらいいのか?――ぼくは慌てて酒壜を、そいつの顔にたたき込む。悲鳴がする。そのまんま立ちあがって、廊下まででると、階段を駈け降りた。やつが追って来る。なんだってこんなところにいるんだ!――まるでパラノイアみたいにぼくを追いかけるかげ。玄関にたどり着き、扉をあける。やつがぼくの肩に手をかける。一瞬ふり返る。でも、その顔は見えない。やがて照明倉庫の出庫口まで来る。エレヴェータに乗って、2階へあがった。急ぐ。もういなくなったかの女に与える辞を探しながら。もうじき去ってしまうかの女に伝える辞を探しながら焦る。倉庫は照明器具を扱ってる、かの女はそこでぼくと働いてたんだ。フロア・リーダーのアズマがぼくを怒鳴る。そして追いかける。ぼくは走る。やがて暗がりのなかでピッキングのリストがちばらり、鬱病の男がぼくを掴まえていう、きみはぼくの息子にそっくりだっていう。突き放してフロアの奥へ走る、主任は気味のわるい、口のわるい、品のない男で、あんなやつになんか負けたくない。でもおとついぼくはかの女にわかれをいって、そして翌る日、ふけたんだ。それでクビにされた。でも、いまはかの女は映画のなか、もっと若いころのかの女が映画にでてる、スクリーンの裏手まで、ぼくはいった。5階の男がさえぎる、キンジョウさんがなにかいってる、ケイシンや、もりか運輸、信州名鉄AとBやなんかのトラックがいっぱいで、なにも見えなくなる、それでもぼくはかの女のなまえを呼ぶ。
ナカクボさん!
おなじ町に棲んでたあの子、おなじ歳だったかの女、バンドをやってたあの女、みじかい髪が愛おしくなるようなあの子、ミヤザキからきたかの女、かの女が笑みを浮かべて立ってる。倉庫の制服を着てる。けれども、そこで眼が醒めた。ベンチは暗いまんまだ。けっきょく次の朝が来るまで呑むことにした。朝になって口入れ屋に電話する。あしたの仕事がないかを聞く。けっきょく、そんなものはない。パンを喰いながら、時間を潰す。おなじ状態がずっとつづくみたいな感覚だ。やがて日が暮れて、夜になって、ぼくはジョルノに跨がる。わずかガソリンを気にかけながら。──いったい、おれはなにをやってるんだろう。仕事もできず、家にもいられず、孤立してて、それが恢復する気配もない。金はあと、3千円ばかりしかない。望みがない。望みがなくて、なにかを始めようって気分にもなれない。問題があまりにも山積みで、どっかで手をだせばいいのかが、まるでわからないと来る。アルコール、アルコール、アルコール、──ただそれだけをおれのなづきが呼びつづけてる。タイヤ専門店の裏に段ボール置き場を見つけた。そこでぼくは身体を丸め、浅い眠りを眠った。翌日、ようやく仕事が入った。それも10日契約。鹿ノ子台の医薬品倉庫で仕分け作業。おもわず、小躍りしちまいそうになった。
ぼくはふとかの女が棲んでいるだろう場所を探して走った。もちろん、見つかりはしない。けっきょく丘のうえにあるスーパーで酒を仕込むことにした。残り少ない金でだ。洋酒は大して置いてない。ズブロッカの壜をみつけてレジにいく。そのとき、紫色のダウンが見えた。まちがいない。会計を済ませ、そのあとを追った。どうか、かの女が気づいてくれますようにと願いながら、近づく。ぼくはかの女の声を待っていたんだ。かの女が通りを渡り、公園に入る。そのままぼくも着いていく。かの女はふりむかない。ふりむいたところで、かの女はどうおもうだろうか。いままでにぼくをふった女たちをおもい浮かべた。くだらないことだ。かの女はふりむかない。ぼくはベンチに坐って酒をあけた。かの女はふりむかない。やがてそのうしろ姿も見えなくなって、気づくとじぶんでも知らないうちに泣いてた。
そのあと、ぼくは丘をくだって灯りの乏しい田舎道を歩いた。中古車ディーラーが点々としてる。あとはスタンドぐらい。車がぼくを、ぼくの人生を、そしてぼくの死をも追い越していく。まるで馬みたいに。雲がかぜに流され、それまで見えなかった月が姿を現した。まさしく、グレープフルーツ・ムーンだ。その光りのなかに一瞬立ち止まり、交差点を進む。ひとかげが浮かぶ。なにかがぶつかる音がしてる。中学生らしい少年たちが車道にむかってオレンジを投げつづけているのを見つけた。オレンジは道で弾け、あるいは轢かれて弾けて爆発し、果肉と汁を撒き散らした。
なにやってるの?
これ、黴が生えちゃったんだよ。
ダウン・パーカーを来た少年がいじわるそうな笑みを浮かべていった。いい眼をしてる。
で、投げてるのか。
そうだよ。
愉しい?
愉しいよ。
なるほどな。
おれも仲に入れてくれ。
ぼくはかれらにそういった。かれらは笑った。そしてオレンジをしっかと掴んで、車道を走る車にむかってみんなで投げつけた。それは貨物トラックのフロントグラスに当たり、運転手はハンドルを誤った。こっちへむかってくる。そしていま、少年たちが逃げ惑うなかで、ぼくは「広告募集」の看板のしたで、ただ立ってるだけだ。かの女がふりむかなかったみたいに、この世界がぼくにふりむかないのなら、――どうにでもなっちまえ。
*
それはまるで毛布のなかの両の手みたいで 中田満帆 @mitzho84
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