なんてことはない、それでも大切な思い出話
ninjin
なんてことはない、それでも大切な思い出話
何ということはない、十一月後半の日曜日。
その日は何故か母親に付き合わされて、車の運転と荷物持ちの為に、駅前の百貨店、高島屋に来ていた。
高島屋に来るのなんて何年振りだろう。
まだ僕が小学校の低学年だった頃、今は亡き祖父母と母親、それに僕と弟の五人で来て以来のことかもしれない。恐らくそれで当たっているだろう。
僕と弟は高島屋のレストランでお昼を食べられることだけが楽しみで、祖父母は何やらお歳暮の注文か何かでやって来たのだと思う。(確かあの時も季節は、寒くなる少し前だった気がする)
そして母親は、『孫にお昼をご馳走したい』という祖父母の申し出に、僕ら子ども2人の付き添いとして同行したのであろうと、今は想像できる。
あれから既に二十年近く経っている。
勿論、そんな昔のことなので、まだ背も随分と低かった僕は、その広い店内の何処をどうやって歩き回ったのか覚えていないし、お昼をどのレストランで食べたかも忘れていた。
それまで見たことも無い、頭付きのエビフライを食べたことだけは覚えているのだが、そのレストランだって、今もまだあるのかどうかは怪しいところだ。
その後、祖父母の家に遊びに行くと、たまに母が祖母から『高島屋さんで、良いお肉が有ったのよ。ちょっと買い過ぎちゃったから、あなたのところで持って行ってちょうだい』、そういう会話をしており、そんな話を小耳に挟んだ翌日は、我が家は必ずすき焼きだった。
そんな時父親は、すき焼きの肉を口にしながら『うん、美味いな』とは言うものの、表情は明らかに渋くなっており、そして、何故だか肉はその一切れを食べた後は、子どもの目から見てもあからさまに分かるくらい、頑なに焼き豆腐と野菜ばかり食べていたように思える。
今考えると笑ってしまうのだが、ちょっとした切なさと郷愁が同時に胸の奥に押し寄せてくる。
そういえば、親に連れられて買い物に行くといえば、近所のスーパーマーケット、それにUNIQLO、それからヤマダ電機が定番だった。
百貨店で買い物なんて考えたことも無かったなぁ。
母も僕たち兄弟が社会人になり、家を出て、随分と生活にもゆとりが出来たということか・・・。
何だか申し訳ないというのとは少し違うのだが、それに似た胸の奥のちょっとだけこそばゆいような、それでいて温もりのある寂しさとでもいうのか、そんな変な気分と、可笑しいくらい気持ちが優しくなる自分を感じていた。
おかしなものだ、久しぶりに訪れた百貨店で感傷に浸るなんて・・・。
自分自身に苦笑するしかない。
先を歩く母親が振り返り、僕に向かって言う。
「お母さん、ちょっとお習字の筆と、あと、家で使うバスタオルを見に行くんだけど、どうする?一緒に来る?それとも何処かで待ち合わせる?」
僕は少し考えてから、「いいよ、付いて行くけど、売り場の近くでブラブラしとくよ」、そう答える。
「そっ。じゃあ、そうしましょう。そのあと、お歳暮コーナーと、地下の食品売り場に行くからね。その時は荷物持ち、お願いね」
母親はそう言うと、またスタスタと先に歩き始めたので、僕は慌ててその後を追った。
母親が如何にも専門知識のありそうな文具店の店員と話し込みながら筆を選んでいる間、僕は特にすることも無く、そのフロアを適当にグルグルと歩き回っていた。
母親の筆選びは思った以上に時間が掛かり、既にフロアを二周も回ったところで、流石に僕も痺れを切らして、母親の決定、購入を促す為に、書道用品のコーナーに戻ってみた。
あれ?母の姿はない。さっきまでそこに居た筈なのに。
僕は慌ててレジの方向に目を遣るが、そこにも母の姿は確認できなかった。
あらら、見失ってしまった。
ええっと、次はタオルを買いに行くって言ってたっけかな。
僕は文具店を離れ、タオル売り場に向かう。
確か、さっきフロアを見て回っていた時、タオル、手拭い、生地の専門店みたいなとこが反対側に在ったような気がする。恐らくそこに居るのだろう。
タオルのコーナーの棚に辿り着き、辺りを見渡す。
あれ、お袋、どこだろう?
何度か見渡してみたが、母親の姿はどこにも見当たらない。
どうやら逸れてしまったようだ。
それでも、子どもの迷子ではないのだ。どこかに居るのだろうから探せばいいさ。
僕は特に慌てることも無く、取り敢えずもう一度フロア全体を歩き回ることにした。何処かでバッタリ鉢合わせするかもしれない。
先ほどはただ何となく遠目に各お店をぼんやりと眺めながら、特に何かに気を留めるでもなくブラブラと歩いたが、今度は母親を探すという目的の為、一応はフロア全体の通路を覗き込むようにしてぐるっと一周して、元のタオル売り場まで戻って来た。
再びその店舗内を見渡すが、やはり母親の姿はない。
どちらかというと、母は小柄な女性だ。
ひょっとして、少し屈むと、棚の陰に隠れてしまって見逃しているかもしれない。
そう考えた僕は、店の通路をひと通り歩いてみることにした。
そして、結果、やはり何処にも居なかった。
さて、どうしたものか。
別に心配している訳でも困っている訳でもないのだが、取り敢えず立ち止まり、これからどうしたものかと思案する。
すると、背後から若い女性の声がして、それはどうやら僕に向かって話し掛けているようだ。
「あのぉ、お客様、もし宜しければ、お探し物でしたら、お手伝い致しましょうか?」
声だけでドキッとしてしまうような、僕の大好きなタイプの声だった。
僕が慌てて振り返ると、そこには百貨店の制服を着た若い女性が、にこやかにこちらを見ているではないか。年の頃は僕より少しばかり若そうだ。
僕は一瞬息を飲んだ。
見た目も全くの僕好みなのだ。
身長は恐らく160センチ弱、どちらかというと細目のフォルム、眉は若干描いているかもしれないがそれでも自然な少し濃いめ、パッと見切れ長に見える二重の瞳はよく見ると実は大きく、唇は厚くも無く薄くも無く、顎のラインはシャープに引き締まっている。
嗚呼、神様、これが一目惚れっていうやつなのですね・・・。
僕は呆けたようにその女性店員に見惚れるしかなかった。
「あの、お客様?」
「あっ、はいっ、ええっと・・・」
僕は慌てて瞬きをして正気に戻る。
「お客様、因みに、何をお探しでしょうか?」
僕は返答に困ってしまうのだが、ここで何も言わない訳にもいかない。だってそうだろう、『いえ、大丈夫です』なんて答えて、ここで会話が終わってしまうのは如何にも勿体ないし、黙って立ち去るなんて以ての外だ。愛想のない変な客だと思われるだけだ。
一か八か、賭けに出るしかない。本当のことを言うのだ。
「あ、いえ、実は・・・、母を探しています・・・」
「・・・・・?」
彼女の表情が『?』だらけになるが、そのキョトンとした眼差しがまた何とも可愛らしい。
それから彼女は少し困ったような、そして恥ずかしそうな上目遣いで僕を見上げるようにして、今しがたの僕と同じように次の言葉を考えている風だった。
僕は僕でこれ以上言葉はない。
すると彼女は一度僕から目を逸らして、そして再び向き直り、こう言ったのだ。
「・・・それは・・・申し訳ありませんが、お役に立てそうに御座いません。大変失礼致しました」
絶対に笑わせに来ている。
暫し僕は彼女の瞳を見詰め返し、そして堪えきれずに、声を立てて笑い出してしまった。
彼女も可笑しそうにクスクス笑っている。
「ですよねぇ。でも、面白かったです、今の切り替えし」
彼女も可笑しそうにニッコリと微笑み返し、「ありがとうございます」とおどけて見せる。
もうダメだ。心臓がバクバクしてこれ以上この場に居られない。
いやいや、本当はこの場にもっと居たいし、この子と知り合いになりたいし、何かしらの会話の糸口を見つけたい。
でも無理だった。
今迄二十七年間の僕の人生で、こんなことって有っただろうか。
目が合っただけで恥ずかしくって逃げ出したくなるような、こんな感覚。
今の彼女の切り替えし以上に面白い言葉を発することが出来る気がしない僕としては、つまらない男と思われる前に、この場を立ち去りたいのだ。
なんか無茶苦茶な理屈なのだが、実際にそうなのだから仕方がない。
「あのぉ、お客様、今、お役に立てないって言いましたけど、もし宜しければ、館内放送でお呼び出し致しましょうか?」
おお、何ということだ、会話が繋がった。しかも彼女の方から。
しかし僕はテンパっているのでそれに上手く乗ることが出来ない。
「あ、いえ、そこまでは・・・。母も嫌がるでしょうし・・・」
何断ってるんだっ、俺ぇ。
「もう少し自分で探してみます。ありがとうございました・・・」
僕は頭を下げてお礼を言いながら、自分を責める。
何を違う方向に向かって行こうとしてるんだ、この意気地なしっ。
「お母様、早く見つかると良いですね」
その場を離れかけた時、彼女に掛けられた言葉に、僕は再び思わず笑ってしまった。
そして思った。この子は絶対に逃がしちゃいけない、運命の人だ、と。
「いえ、そんな大層なことじゃないです。母を訪ねて三千里でもないですし」
彼女は『あっ』と言う顔をしてから、自分が言った言葉が如何にも大仰だったと気付いたようで、恥ずかしそうに笑う。
「でも、ありがとうございます。では探しに行きます。あ、それと、ここ以外にバスタオルなんかを扱っているお店ってありますか?」
「あ、ええっとですね、この下の三階のフロアに寝具売り場が御座いまして、そこでもタオル類、取り扱っていたと思いますけど・・・」
「そうですか、ありがとう」
ほんの少しだけ、会話が繋がっただけなのに、僕は先ほどまでの緊張感も解け、ある意味満たされた心持にまでなっていた。
今度は本当に母を探す為に、階下へのエスカレーターに向かって歩き出した僕だったが、心に決めたことがあった。
母と合流出来たら、この場に戻って来て、もの凄く大袈裟に、彼女にお礼を言おう。
『大変お世話になりました。無事、母との再開を果たすことが出来ましたっ』って。
笑ってくれるかな?笑ってくれたらいいなぁ・・・。
三階のフロアに降りた僕は、寝具売り場で、直ぐに母親を見付けることが出来た。
「あら、どこ行ってたのよ。ま、いいけど、こっちも丁度今済んだところだから」
そう言って母は「はい、これ」と、僕に買った荷物を手渡した。
そうだった。今日は荷物持ちだった。
「さ、じゃあ次はお歳暮、それから食品」
いや、僕は今直ぐにでも、すっ飛んで四階フロアに戻りたい。
そうしないと・・・。嫌な予感がする・・・。
そして案の定、その嫌な予感は当たるのだ。
お歳暮売り場で三十分、食品売り場で更に四十分。
両手に大層な荷物を抱えている上、時間が経つにつれ、先ほどの高揚感は薄れていき、何なら不安な、そして心許ない、更には諦めに近い感情が、僕の心を満たしていくのだ。
一目惚れ?そんなバカな。
気持ち悪がられるだけじゃね?
抑々恥ずかしくって、もう一度なんて行けっこない。
変な人扱いされたら、もっと恥ずかしい。
勘違い野郎って思われるのも嫌だ。
あれは唯の客と従業員の遣り取りだ。
俺は何をそんなに絆されてるんだ?
いやいや、そんなんじゃダメだ。勇気を出せ、俺。
こんなチャンス、滅多にないぞ。
これは絶対に天恵だ。
いいや、上手くいく訳ないじゃないか。鼻で笑われて終わりだ。
違う、彼女は絶対に笑わせに来てたって。
勘違いだって、俺の。
無理無理、恥もかきたくないし、嫌がられに決まっている。
下手したら、不審者扱いされて、警備員を呼ばれるのがオチだ。
諦めよう・・・
諺に『鉄は熱いうちに打て』と言うのがあったなぁ。
なるほどな、言い得て妙、まさにその通りだ。
もうすっかり鉄は冷めてしまったってことか・・・。
駐車場で車に荷物を詰め込み、それでもまだ後ろ髪引かれる思いで運転席に乗り込んだ。
セルスイッチにキーを差し込み、それを回そうとして手を止めた。
大きく息を吸い込み、それから息を吐き、助手席の母親に顔を向けて言い放つ。
「お袋、ちょっとここで待っておいて。俺、ちょっと行くところがある。10分、いや、15分で戻る。じゃっ」
僕は車を飛び出し、駐車場を転がるように、エレベーターホールへ駆けていった・・・。
「で?そのあと、どうなったの?」
小学校四年生になる娘は、興味津々にその瞳を輝かせて、話の先をせがむ。
僕は少し考える仕草をして見せてから、「そして、君が生まれた」、そう言ってみた。
勿論そんなことで納得する娘ではない。
「ダメ、ちゃんと教えて」
「でもね、この先はまだまだうんと長い話なんだ。これから、少しずつ、話しちゃダメかな?君にもちゃんとお母さんのこと、話さなきゃならいって、お父さんも思っているんだ。それじゃダメかな?」
娘は今ほどの僕のように、ちょっとだけ考える風にして、「いいわ、分かった」と微笑んでくれた。
「うん、そうしよう。また、明日の晩。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
僕は娘の額をそっと撫で、ナイトスタンドを消してから、娘の部屋を後にした。
リビングに戻り、いつも変わらぬ笑顔の妻に報告する。
僕等の娘は、きっといい子に育っています。
最近は君の話を聞きたがって、今夜は少しばかりだけど、君との出会いの話をしました。
凄く長い話になりそうだけど、少しずつ、僕が思い出せる限り、あの子に伝えたいと思います。僕の間抜けな話も織り交ぜながら・・・。
僕がどんなに君のことを愛していて、君がどれだけ僕とあの子を愛してくれていたかを、包み隠さず、全て、伝えられたらいいのだけれど・・・。
見守っていてください。
フレームの中の妻は、やはり笑顔のまま、僕を見詰め返してくれていた。
寂しいよ・・・。
でも、あの子のおかげで、君のことを思い出せるよ・・・。
ありがとう・・・。
僕はいつまでもあの日のままの妻を、見詰め返す・・・。
おしまい
なんてことはない、それでも大切な思い出話 ninjin @airumika
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます