平成の先は『平静』、そして『平性』である

さくら

私と鬱とジェンダー

※このエッセイは、平成31年4月末に投稿したものです。


 あらためましてこんにちは。趣味で小説を書き始め5、6年が経ちました。新しい元号が発表され、今私たちが生きている「平成」という時代もあと1か月間となったことを機に、初めてエッセイというものに挑戦しようと思います。まさに「平成」のど真ん中を生きてきた私が、この時代に強烈に感じたことを書きたいと思います。


 でも何を書いたらいいかテーマが思い浮かばないので、自分のことを語るしかないことをお許しくださいませ。かなり暗い話、痛い(文字通りの意味で)話になりそうですがお付き合いいただけると幸いです。


 さて、それまでは読み専だった私が、小説を書いてみようと思ったのは、『山田先生は変身がお好き?』という男の娘先生が主人公の短編小説を書いたのが始まりでした。女装モノ・男の娘モノのジャンルが大好きで、そのシリーズを探しては読んで、探しては読んで……の繰り返しでしたが、いっそ書いてみようかと思い立ったのです(どうして女装モノ・男の娘モノに惹かれるのかは、その時は深く考えていない時期でした)。


 それから連載をするようになり、いくつか作品を完結させたり、未完だったり様々ですが、どこか悩みを抱えている人たちを主人公にすることが多いと思います。同性に惹かれることに悩んだり、性自認が揺れていたり、時代を越えた自分自身のルーツを探したり。難病を抱えて生きていく悩みであったり。主人公たちを通して、私の気持ちを代弁してもらっているような気がしています。


 私は現在30代後半ですが、「うつ病」、そして「性同一性障害」と付き合いながら生きております。生きづらさと葛藤、それは私自身が抱えていることと重なるからこそ、物語に投影しているのかもしれません。


 うつ病を発症したのはここ数年ですが、発症して投薬治療が始まると、それまでは楽しく取り組めていたプロットづくりや執筆活動などが一切できなくなりました。作品をいくつか書き上げたり、連載モノを描き続けていた途中だったのですが、一旦休まざるを得ない状況に陥っていったのです。


 うつ病にも様々な種類がありますが、私の症状で特に強く出たのが、「希死念慮」そして「自傷行為」でした。希死念慮とは、端的に言えば「(できるだけ早く・今すぐ)死にたい」という気持ちそのものだと感じています。厄介なことにこの希死念慮を消してくれる薬は現在ありません。主治医に断言されました。今でも弱くではありますが、感じています。


 そんな私は生きていくことへの疲れ、1日1日を過ごしていくことが本当に大変で、時間の流れがものすごく遅くて、何にも食べたくなくなり、空腹感を感じていても「どうでもいい……それよりも動きたくない、動けない……」という気持ちが強くなったり。


 それは、まるで「降りることのできないランニングマシンであと30年走り続けなければならない」という感覚でした。その感覚は今もあります。家庭で家計を支えているのは現状では私ですので、子供たちが大人になり、せめて一番下の子が成長して就職をするまでは決して死ねない、倒れることはできない。そんな考えが、どんどん症状を悪化させていった気がします。


 また、抗うつ薬の影響、そして病気自体の症状からなのか、何事にも興味を持てなくなり、楽しかったはずのすべてのことが「灰色がかって見える・感じる」という具合でした。好きだった恋愛小説を読むことというか、活字を追う事自体ができなくなるだけでなく、漫画やアニメ、DVD、音楽など、それまでは楽しめていたことが、空しく感じて心の芯まで響いてこない、空虚な感じがして、ただ橋の上や自宅のマンションから階下をのぞき込む、川の流れをただじっと見つめるということが続きました。


 自傷行為が始まったのもそんな時です。家庭と仕事への責任感を発散させるべき手段(それまでの趣味)が功をなさなくなり、どんどん膨らんでゆくバルーンのようになっていったとき、その空気を抜いてあげなければ私は私ではなくなってしまう。そんな強迫観念と、常に頭から消えない、消えてくれない希死念慮の連鎖が、リストカットへとつながっていったのです。


 最初は怖くて、ハサミの刃でスッと、本当に弱く切っただけでした。でもその瞬間、重かった心がふっと、ふわっとするように軽くなったのを強烈に覚えました。「あぁ、これだ。見つけた。」そこから、ハサミからカッター、ナイフへと変わっていき、切る深さや頻度が加速度的に上がっていきました。


 私にとって、リストカットは痛くないと、血が流れ出ないと意味がありませんでした。できるだけちょうどよい力を入れて、ゆっくりと刃を引くことが好きでした。痛みが長引き、切っている途中でぷくっと血の玉ができあがり、それが滴っていくのを見て感じると、それが私の唯一のガス抜きとなってくれました。


 主治医からも妻からも、「どうしてリストカットするのか」と何度言われたか分かりません。代わりの方法を見つけたほうがいい。それも何度も言われました。でも、趣味が趣味でなくなった瞬間から、そして後述する性同一性障害による性表現(服装や髪形のこと)が父親・夫という立場上、家庭内では不可能であることから、「リストカット以上に私の心の負担を軽減してくれて、かつ死への誘惑を断ち、平静を取り戻してくれる方法はありません」というのがいつも医師と妻への回答でした。


 そんな状況は昨年の6月まで続き、そのころには毎晩のように切っていました。仕事には発病以来、ずっと行くことはできていました。職場ではなんとか全エネルギーを使い切り、退勤することができていました。しかし、通勤途中と帰宅途中で考えることは、いつも「生きていくことの意味」でした。なぜ生き続けなければならないのか。なぜ死を選んではいけないのか。理性ではわかっていても、もはやそれを考えなくてもよいという余裕は、私のつま先から頭のてっぺんに至るまで、どこにも残されてはいなかったのです。


 そのころには、子供たちにも怒鳴り散らす、イライラが止まらない、自己嫌悪と疲労感、生きていくことへの疲れから感情を制御できず夜になると涙が止まらない、という状況にもありました。そして、子供を寝かしつけたその隣で、私は隠していたナイフを取り出し手首を切っていたのでした。死ぬのはナイフで心臓を指すか、川で溺死しようと考えていました(考えています、かもしれません)。だからナイフを握ったまま寝ていたこともありました。


 そんな日が続いたある朝、早朝、妻が部屋に入ってきました。私は発病以来寝つきが非常に悪く、2~3時間おきに目が覚めるため、4時か5時には起きていました。たぶん5時ごろだったと思います。彼女は無言で私の手首をとりました。


「……どうしたの?」

「……昨晩リストカットした?」

「……ううん、たまたましてない」

「そう……もし切ってたら、入院してもらうつもりだったのよ」


 私以外の家族も、疲弊しきっていました。


 そして、その日から約2週間ほどで職場と調整し、休職を届け出て、6月から1か月間、大学付属病院精神科病棟に入院することになったのでした。そして、その入院で、ある看護師さんの言葉で、私はそれまで漠然と感じていたことをはっきりと自覚し、灰色だった世界に、何年振りかに色がついて見えて、生きる方向を見つけることができたのです。それが、「性同一性障害」(現在では「性別違和」「GID; Gender Identity Disorder」という名称に変わっていますが、世間で分かりやすいのは前者だとおもうので、性同一性障害で統一してここでは触れることにします)でした。


 小さな頃から絵ばかり描いて遊んでいた私。当然、いろんな漫画も読んでましたし、ゴジラやキングギドラなどの怪獣の絵、ティラノサウルスなどの恐竜の絵なんかも描くのが好きでしたが、やがて描きたい対象が、女の子へと移っていったのです。なんだか、その時は恥ずかしさがすごくあって、「僕自身は男の子なのに、女の子の絵を描きたいと思うなんて、どういうことだろう」と思いながらも、コロコロコミックなんかに登場する漫画の女の子キャラを模写し始めたり、ピーチ姫を描いたりしていました。


 今思えば、やっぱり憧れていたんだと思います。外見に強いコンプレックスを抱いていた私は、「美少年キャラ」「女の子に間違われるキャラ」にすごく惹かれ、『幽遊白書』に登場した「蔵馬」なんかは、どれほど彼になりたいと憧れたか覚えていません。


 そんな私が、一番強烈に心惹かれたのが、高橋留美子先生の『らんま1/2』でした。みなさんご存知だと思いますが、本来男の子である早乙女乱馬が水をかぶってしまうと、女の子に変身してしまう体質の主人公として描かれた漫画です。私がちょうど高校生の頃、地方の放送局の夕方から2話ずつ、再放送を始めてくれたこともきっかけでした。


 私は高橋先生の描くらんまちゃんも大好きで何度も何度も模写させていただきましたが、アニメ版のらんまちゃんのタッチのほうが好きで(すみません汗)、当時はまだVHSでしたが、なんども止めては目の形や輪郭、眼の中の光の入り加減などを確認しながら模写し続けていました。いまでもらんまちゃんは何も見なくても描けるくらいです。


 極めつけは、『3年B組金八先生』で登場した、上戸彩演じる性同一性障害の女の子でした。


 私は、とても大きなショックを受けたのを覚えています。


 同時に、「彼女と同じ病気だったなら、どんなにいいだろうか」「もし私も性同一性障害だったなら、どんなにかいいだろうか」そう強く思いました。そう、不謹慎かもしれませんが、彼女の立場がとても羨ましいと感じたのです。これが、後々尾を引いていくことになっていきました。


 そんな私は、性同一性障害を結婚して子供を授かってから診断されることになるわけですが、「どうしてこんなに『異性になりたい』『性転換できるキャラに強烈に憧れるのか、嫉妬するのか』」が分からないままでした。思い込みかも知れない。当時は、まだLGBTについてもまだまだ情報が少なくて、トランスジェンダーについても、極端な例しか本になっていませんでした。その著者の誰もが、口をそろえて「幼少期から性に違和感を覚えていた」ということを書いているのを見るたび、絶望していったのです。あぁ、また私とは違う。やはり性同一性障害ではなく、思い込みなのだ。反対の性別に帰属したいという思いは、性的欲求の延長線上のことなのかもしれない(つまりフェティシズムの一つかもしれないということです。しかし両者は決して同じではありません。ただ、当時の私はそう思うしかありませんでした)。


 その絶望の中、ジェンダークリニックがある、という話を勤務先のカウンセラーの先生から聞き、そのほぼ同時期に『Xジェンダーって何?』(label X編著)という書籍が発売されたのでした。

 

 まさに天啓。それ以外の言葉は見つかりませんでした。


 それまでは、性同一性障害というと、必ずと言っていいほど「幼少期から自分の性別に違和感があった」「小さなころから、自分自身は女の子(男の子)だと思っていた」など、幼少期からの強い違和感、反対の性別への帰属感の自覚、そしてホルモン治療、手術、云々の流れが語られるばかり。いろんな書籍を読んでも、私のように、大人になり、性自認の揺れに気づくことなく異性と恋愛し、結婚して子供をつくってから初めて自分の性別に違和感があると悩む例を紹介している本などは、皆無に近い状況でした。


 果たして私のこの感覚は気のせいなのか。思い込みに過ぎないのではないか。単にらんまちゃんや蔵馬に憧れるあまり、女装モノ、性転換モノが大好きで、その主人公(もちろん女装する人、性転換する人に同化します)たちに惹かれるだけで、性同一性障害なんかではないのではないか。そんな恐れがつねに私に付きまとっていました。当時の私にとって、「あなたの性自認の揺れは気のせいであり、どこをどう見ても、どう考えてもあなたは100%男でしかないから、それでずっと生きていきなさい」ということを宣告されることが、最も恐れていたことでした。


 もっと身近な人たちの例を知りたい。私のように、1か0(ゼロ)か、つまり男か女かという二者択一の心の性別ではなく、どちらかというと「真ん中から女性寄り」という人たちは他にいないのか。いや、そもそもそういうジェンダーの在り方自体存在し得るのか。「1」か「0」に該当しない者はすべて、気のせいであり、身体の性に合わせて生きていくべきなのか。そのことで悩んでいたのは、私だけじゃなかったんだ。たくさんの人が、私と同じように、自覚したのが結婚した後だった人も多いんだ、という事実を知った瞬間の安ど感は、計り知れないものでした。


 入院中はうつの治療に専念できる環境になりましたが、具体的にはとくにすることはありませんでした。精神病棟では、何もする必要はないのです。だから、私は家では決してできなかった女装(女性装)を通しました。髪も伸ばしていましたし、外出許可が出たら、すぐにスカートとストッキング、トップスを買いに行きました。それで、初めてくつろぐことができた。そう感じました。


 ただ、物事はそう単純ではありませんでした。結婚して妻と子供がいる私が、女装している。その姿でいるほうが落ち着く。それは、大きな問題と発展していきました。入院中に何度も妻とぶつかり、収まっていた希死念慮が一気に噴出し、スマホで調べた「日本の自殺名所10選」のようなサイトから、3か所を選び、具体的にどう行こうか、などと考えることもありました。 


 結果的に、私のうつ病は希死念慮・自傷行為と自らのジェンダーの悩みが絡み合っていたため、妻と義母、私の実家を巻き込んでの大騒動となりました。最終的にはそれらの人々すべてに私のジェンダーのことをすべて話すことを余儀なくされ、果たして私は家に帰っても居場所があるのだろうか。子供たちはよくても、妻は受け入れてくれるのか。もうそうなれば別居も離婚もやむなしだ。ようやく見つけた自分の生きる道、方向性を否定されたら、今度こそ立ち直れなくなる。何度も何度も、病棟のベッドで考え泣いていました。ただただ、妻からとどくメールの通知音におびえていました。どんなことが書かれているのかおびえていました。


 入院までに妻と義母(私の両親は遠くに住んでいるので電話で告白し、無事受け入れてくれました)、そして主治医との面談を何度も行い、すこしずつ妥協点を見出していき、なんとか私も「どうしても女性的でいたい」という極端な考えを折ることができ、髪もショート(ボブは譲れませんでしたが)に戻し、なんとか予定通り1か月で退院し自宅に戻ることができました。


 それからは少しずつ、妻と話し合いや衝突を繰り返しながら、やれる範囲でレディースを買っています。普通のお店ではサイズがないのでレディースの3Lくらいを扱ってる店舗のネット通販で買ったりしています。職場では割と自由で、髪形やピン止め、イヤリング(小さなやつです、さすがに汗)を少しずつ様子を見ながら導入していっているので、むしろ職場でのほうがジェンダーの面では開放感が強いです(首から下は男装ですよ、もちろん。普通のスーツです)。


 同僚もいい意味で他人ですし、仕事に差し支えるわけではないので、何人かにカムアウトして、受け入れてもらっている状況です。管理職からも何も言われないですし、一度飲み会に私服(レディース)で行ったときも、特に何も言われていませんし、そのあとそのことで呼び出されてもいません。人事部からも当然なにも言われません。そのおかげで、妻とはできない、お化粧の話やファッションの話なんかができて嬉しいです。うつ病を発症して、職場環境が原因で転職しましたが、いまの職場に就職できて本当に感謝しています。


 平成もあと1か月、と冒頭で書きましたが、もう20日とすこしですね。テレビでもこぞって「平成」の特集をしています。


 私にとって、この時代は自分自身のジェンダーに関するもやもやと、うつ病との闘いでした。子供だったからこそ気づかなかったことに、大人になって情報通信技術が発達し、情報が容易に得られる時代になったからこそ、そのもやもやの正体に気づくことができたのかもしれません。うつ病に関しても、今は隠す時代ではないと感じていますし、職場でも聞かれたら答えるようにしています。


 現在は、うつ病の病院の他、ジェンダークリニックにも通い始め、カウンセリングを月1回のペースで進めています。私は性器の切除は望まないし戸籍の変更も望まないけど、それでもホルモン療法は受けたい。そしてレディースが少しでも似合ようになりたい。それが今の私の願いです。


 もちろん、そう至るには、まだまだこれから妻や子供たちと話し合って妥協点を見出していかなければいけません。


 願わくば、令和の時代が、私にとって、そして同じことで悩むすべての人たちにとって、「平静」そして「平性」であればと思ってなりません。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

平成の先は『平静』、そして『平性』である さくら @sakura-miya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ