最終話 性善か性悪か

 八城孝二の語った内容は、大東の想定をはるかに超えていた。

 曰く、現代社会のあらゆる情報機器に、八城兄弟が開発したレトロゲーム『ビッグバン』のコアが組み込まれているというのだ。ビッグバンのコアロジック、通称ビッグバンエンジンは、データ処理を飛躍的に高速化することができた。このため八十年代以降のソフトウェアは言うに及ばず、ハードウェアであるCPUのマイクロコードまでもがビッグバンエンジンをベースに記述されているという。さらに驚くことに、プログラム言語の『モカ』。その心臓部コアを構成するのもビッグバンエンジン。要するにモカ言語で開発されたプログラムすべてがビッグバンの子孫と言える。

 そんな内容だった。


「ごめんなさい、まったくわからないです。鳴子は理解できた?」

「オレ文系っすよ。心理学専攻っす」

 鳴子はメモとペンを手にしていたが、ここまで一文字も書いていない。


「すみません。要点だけに絞ってお話しいただけますか?」

――このままでは手ぶらで帰るハメになりかねない。

 大東は孝二に懇願した。


「要点はですね。高度に発達した情報システムは、人間の欲望を感知すると壊れるということです」

 孝二は胸ポケットから万年筆を取り出した。図解してくれるようだ。孝二は穂波に紙を用意させる。秘書はA4サイズのコピー用紙を手渡した。

「いまどき万年筆なんて珍しいでしょう? パーカー製です。ビッグバン開発当時から使っている、私のラッキーアイテム。これで書くと良いアイデアが浮かびます」

 大東は鳴子にパーカーの写真を撮るよう指示した。記事の素材に使えそうだ。


「話を続けましょう。スピードスケートのリンクを思い浮かべてください。こんな形をしていますね」

 太く無骨な指でパーカーの万年筆を器用に使い、孝二はコピー用紙の上に楕円を描いた。

「重要なのはココ。直線部分バックストレートの交差区域で二人のスケーターがレーンチェンジする箇所です。もし二人が互いを確認することなく、同時に交差区域に進入したらどうなります?」

「どっちかがけますね。危ないから」

 話に追いついた鳴子が、当然とばかりに答える。

「人間ならば、そうするでしょうね」

 孝二が鼻白む。彼が期待した答えとは違ったようだ。

「もしスケーターが知能を持たないデータであったら、交差区域で衝突するでしょう? ビッグバンエンジンは、どちらのデータも待たせることなく衝突を予測回避し、さらにはレーンチェンジを加速します。この理論を組み込めば、ソフト・ハードに限らず全てのデータフローが高速化できるのです」


「欠点はないのですか?」

 大東が疑問を口にした。

「いい質問ですね、欠点があります。スケーターの滑走が外から激しく妨害されたときは、ビッグバンエンジンの緩衝能力キャパシティを超え、スケーターつまりデータ同士の衝突を回避できなくなります。我々兄弟はこの妨害のことを『擾乱じょうらん』と呼んでいます。データのスムーズな流れを予想外に乱すものです。ビッグバンエンジンは元々、擾乱を想定して設計した堅牢なシステムでした。ところが最近、緩衝能力を超える規模の擾乱が発生し、銀行の基幹システムやAI推論システムに障害が多発するようになったのです」

有り体ありていに言うと、それはつまりバグ?」

「違います。レトロゲーム時代には想定できなかった情報密度の異常な高まりです。電子機器は集積化され実装密度が高まり、些細なことで混信クロストークやノイズを発生します。一方、ネットワークを流れる情報は5Gなど通信網の発達により、桁違いに高速化しました。最近ようやく突き止めたのですが、ネットワークを流れる人間の悪意や欲望ノイズデータ、これがビッグバンエンジンの内部で修復不可能な擾乱を生む根本原因と判明しました」


「その擾乱でしたっけ? 擾乱を起こさないようにするには、どうすれば良いのでしょう」

「ノイズを減らすことです。手っ取り早いのは、人間の悪意と欲望を減らすこと」

「それは無茶だ。ビッグバンエンジンを改修した方が早くないですか?」

「手遅れです。今から回収することなんてできないでしょう? 世の中の情報機器全てに内蔵されて、広く行き渡っているのですから。あなたが手にしているスマホだってそうです。あらゆる電子機器にビッグバンエンジンが入っているのですよ。ほら、そこにいる穂波だってコアはビッグバンです」

 孝二はパーカーの万年筆で、壁際に控えていた穂波を指し示した。

「ちょ、ちょっと待ってください、」

 さきほど穂波を『人間認定』したばかりの大東はうろたえる。

「秘書さんもアンドロイドですか?」


「そう私はアンドロイドです、」

 答え始めたのは、穂波本人だった。右手を自分の心臓の位置に添え、説明を続ける。手のひらが白いブラウスを押さえ、豊かで形よい胸を強調した。

「制御ソフトはモカ言語で記述さ……」

 穂波が言葉を止めた。目を見開き紅い唇を半分開いたまま、全身がフリーズする。


「ほら、これが擾乱で生じたフリーズです。普段は深い森で世俗から隔絶されているため、問題ありませんが、どうしたわけか穂波のセンサーは人間の劣情に敏感でして……」

 孝二は立ち上がり、壁際で硬直している秘書アンドロイドのうなじを押して、穂波を再起動させる。

「穂波のそばに卑猥な妄想をいだく者がいると、擾乱を起こしてフリーズに至るというわけです。妄想が強いと、まれに副作用でニキビができることさえあります」

 そこで孝二と大東が、同じ結論に達したようだ。二人の視線が妄想の主、鳴子に集まる。

「オレじゃないっすよ」

 鳴子はあわてて手を振るが、やがて俯く。

「……オレっす」

 蚊の鳴くような声でつぶやいた。


「いまご覧になったとおり、人間の欲望がシステム内部に擾乱を起こします」

 革張りのソファに掛けなおした八城孝二が、大東を真顔で見つめる。

「大東さん、ひとつお願いがあります。あなたは広報を書けますか? つまり記事で、人々に欲望を抑えるよう『広く知らしめて』ほしいのです」

「それは難しい……。なぜなら広報はマスコミの務めですが、我々、スクープ誌の使命ミッションとは異なります」

「であれば記事にしていただく意味がありませんな。人々がビッグバンエンジンの存在を知り、無用な興味・関心が向くだけなら、擾乱が増す一方です。記事を差し控えて欲しいと言ったら、聞いていただけますか」

「無理ですね」

 大東は即答する。彼の脳内では記者プロとしての思念が、そして一個人としての欲望が激しく渦巻き始めていた。


――これは特大のスクープ。しかも情報社会の存亡にかかわるスクープではないか。すぐにでも発表すべきだ。そもそも週刊誌なんて小さな枠に留めおく話ではない。新聞、テレビ、インターネット。あらゆる媒体で取り上げるべきだ。しかも世界中でだ。ピューリッツァー賞も夢ではない。いや確実だ。俺が記者を続けて来たのは、今日このときのためだった!


 大東の職業意識から生じた想念は爆発的に膨張し、空を覆う暗雲のごとき名声欲へと変じた。


 カツッ。乾いた音がして、応接テーブルに黒い何かが落ちた。パーカーの万年筆だ。パーカーはテーブルをカラカラと音を立てながら転がっていく。テーブルの向こうでソファに座ったまま、八城孝二が体を硬直させていた。ダルマのような太い眉を吊り上げ、ギョロ目を見開いたまま。


――孝二がフリーズ? そうか彼もアンドロイドか!


「逃げるぞ」

 我に返った大東は、鳴子の上着をつかんだ。袖を強く引かれ、鳴子は悲鳴をあげる。


「君たち待ちなさい!」

 フリーズから回復した八城孝二が両手を上げ、人間離れした素早い身のこなしで二人の前に立ち塞がった。

 孝二の眉間に向かって、もう一度、大東が強烈な想念パンチを見舞う。


 制御が切れたアンドロイドは、すなわち糸の切れた操り人形。音もなく膝から崩れた八城孝二は、前のめりに倒れ込む。手でかばうこともない。磨き上げられた硬い床に、ダルマ顔が無防備に激突した。ボーリング球を叩きつけたような鈍い音がして、大東の心がキュッと痛む。が、すぐに思い直した。

 心配ない。これは人形アンドロイドだ。


「鳴子! 秘書を押し倒せ!」

 大東の意図を理解した鳴子が、すぐさま穂波に飛び掛かった。彼女がガクリと首をうなだれたのは、鳴子の手が穂波の体に触れるより前だった。恐るべき鳴子の妄念。


 うなだれた案山子のように直立フリーズする穂波を、さらに鳴子は押し倒そうとする。

「もういい、充分だ!」

 大東は鳴子の襟をつかみ、応接を飛び出す。


 大東と鳴子は全力で逃げた。逃げながらも、大東は考えた。


――八城兄弟はビッグバンエンジンの改修デバッグを試みているのだ。生身の兄弟はもちろん、自分たちの能力をコピーしたアンドロイドを使って、日夜奮闘しているのではないか。情報擾乱から社会インフラを守っているのではないか。でも何のために? ビッグバンエンジンを生んだ者としての責任感からか?

 いくら考えても八城兄弟以外に答えを出せる者はいない。


 ビッグバンの森を抜け、国道でタクシーを拾ったことだけは大東も覚えている。だが、研究所から森を抜けるまでの記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

 何も障害はなかったはずだ、大東は思う。ただ、最後まで姿を見せなかった兄の八城紘一の存在が気になった。はたして紘一は、逃げる彼らをなす術なくただ見送っただけなのだろうか。そもそも生身の孝二にすら会っていないことを思い出し、大東は考えることを諦めた。


 ◇


「先輩、ビッグバンの記事書かないんすか?」

 ハーミット研究所を訪問したあの日から一週間後、週刊誌編集部でのことだ。大東のデスク横で、鳴子が手にした紙カップの珈琲をすすった。ほろ苦い香りが大東の鼻をくすぐる。くだけた姿勢でだらしなく立つ後輩に向き直ると、大東の椅子の背もたれがギィと鳴いた。

「書くよ。そのうちな」

 大東は悪いなとつぶやき、鳴子の手から紙カップを奪い取ると、コーヒーをがぶりと飲んだ。


 ビッグバンの森で知り得たことは軽々けいけいに扱うべきではない。そう大東は考える。


 人の邪念エネルギーが、高度に発達した電子機器の内部で擾乱を生む。

 どこかの国で巨大企業が破綻したとき。日本のいずこかでメガバンクのシステム障害が起きるとき。それは限度を超えて、人間の欲望が膨れ上がった証なのである。


 そのからくりを報道すること自体はよい。だが、問題はそのあとだ。


 強い欲望をたぎらせるだけで、社会インフラを機能不全に陥らせることができると知ったとき、人はどうするだろう。一致団結のもと、みずからの欲望を抑えることに努めるだろうか。あるいは利己的な目的のため、システム破壊を目論むだろうか。


 人は性善なる存在か、はたまた性悪なるものか。


 八城兄弟が突き付けた問に、大東はいまだ答えが出せずにいる。


 この問題を考えはじめると、決まって頭の中にもやが白く浮かび、思考そのものが靄とともに暗い樹々の中へと吸い込まれてしまうからだ。


 まだ大東は気づいていなかった。

 暗い樹々の形が、鬱蒼と生い繁る『ビッグバンの森』に良く似ていることに。


  終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ビッグバンの森 柴田 恭太朗 @sofia_2020

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ