エンディング

 朝、家を出る。


 七月の空は晴れている。赤いネクタイを締め直し、雲一つない空を見上げていると、右隣からドアの開く音がした。


「あ……」


 首を回すと、そこには四ツ谷の姿があった。長身痩躯に無精ひげ、長い前髪と黒縁眼鏡。ゆらりと暗い立ち姿に、僕は軽く頭を下げる。


「おはようございます」


「はよ……ざいます……」


 前よりさらに小さい声で、四ツ谷は辛うじて挨拶を返す。ちらりと僕を窺ってから、逃げ出すように顔を背けた。どういうわけか、最近の彼は妙によそよそしい。もとから特に仲良くはなかったので、別に気にすることでもないが。


 四ツ谷は会釈すると、そそくさと僕の隣を去った。ゴミ出しに行くところらしく、右手には膨らんだゴミ袋を提げている。袋の中で広がった紙に漫画のコマ割りのようなものが見え、僕は驚いた。何をしているのか分からない人だと思っていたが、四ツ谷、まさか漫画家だったのか?


 通り過ぎていく四ツ谷を見送り、僕も歩き出そうとする。と、ふと忘れ物が心配になった。通勤鞄をガサガサ漁ると、何やら硬い感触がある。カバンの底に、消しゴム大の何かが沈んでいるのだ。こんなものを入れた覚えはなく、ゴミかと思ってつまみあげると、出てきたのは小さな機械だった。


「なんだこれ?」


 上下左右、ぐるぐる回してにらめっこしたが、正体はまったく分からない。僕はだんだん怖くなってきて、それを足元に落とすと両目を瞑って踏みつけた。グシャ、という音とともに、機械は潰れてぺしゃんこになる。残骸をポケットに仕舞い、首を傾げながら、僕は今度こそ歩き出した。


 一日が始まる。いつも通り、しんどい仕事に向かう。





「ほんっと、カッコよかったなぁ、ヒーロー」


 カツ丼定食の味噌汁を、佐藤はぐるぐるかき混ぜる。昼の十二時十五分、サラリーマンばかりの定食屋に、僕らの姿は埋没している。


「いやマジでカッコよかった。見せたかったなぁ、お前にも。お前も俺と一緒に攫われりゃあよかったのになー!」


 箸を回し続ける佐藤。僕は白米に漬物を載せながら、目を泳がせることしかできないでいる。


 あの事件以降、佐藤はずっとこの調子だ。『現実戦隊フツージン』はすごい、ムカつくなんて言っていた俺がバカだった、聞いてくれよ、俺が突然変な男に攫われてさぁ……。そう語る佐藤の目はいつもの何倍も輝いて見え、あの淀んだ茶色には決して戻らなかった。


「レッドがさぁ、カラスに襲われながら叫ぶわけよ、『あの男に飛んでいけー!』って! そしたらマジでカラスが飛んでってさぁ! はぁー、カッコよかった」


「それ、もう何回も聞いたよ」


「あ、ごめん。でもさぁ、何回も言いたくなるんだって」


 佐藤はそう言って笑う。幸い、『レッド』が僕であることには気づいていないらしい。普段の僕はあんなに声を張らないから、聞き慣れた声だとは思わなかったんだろう。状況も状況で、彼も混乱していただろうし。


「はーあ。俺もヒーローになろうかなぁ」


 佐藤は定食屋の天井を見上げ、頭のうしろで手を組んだ。僕は密かに口角を上げる。


 佐藤の中では、『レッド』はカッコいいヒーロー。そして僕は変わらず、冴えない友人の『富士野』のままだ。レッドとしても、富士野としても、この結果は純粋にありがたい。


「……なぁ、佐藤」


 だけどひとつだけ、心に引っかかっていることがある。あの日、ワゴンの中での佐藤が言った言葉が、今でも僕の脳裏にはっきりと蘇る。


 ――明るく振舞ってみたり、目立つクラスメイトの真似してみたり、そうすれば、『特別』に近づけるのかなって。


 ――でも結局、どれも中途半端で。同じくらい地味な友達と一緒にいるのが、一番落ち着いたし。


「佐藤は、僕と友達でよかったと思う?」


 味噌汁の湯気の向こうから、佐藤がキョトンと僕を見る。僕は白米をつつきながら、「いや」と言い直した。


「佐藤は……僕といて楽しい?」


 口に出してから恥ずかしくなって、僕は白米と漬物を口にめいっぱい詰め込んだ。佐藤は味噌汁をかき混ぜながら、唇を尖らせる。


「な、何、急に。病み期ってやつ?」


「ち、違うよ。ただちょっと、気になっただけ」


「ふぅん。変な奴」


 佐藤はそう言ってから箸を止めて、僕の顔を真っ直ぐに見た。


「楽しくなきゃ、わざわざ一緒にメシなんか食わねぇよ」


「……そっか」


 僕はいよいよ耐えられなくなって、思いきり俯く。佐藤はそれに「あっ」と声を上げると、机に手をついて前のめりになった。


「ずるいぞお前、自分で訊いといて照れんなよ! こっち見ろおい! 俺だって死ぬほど恥ずかしくて……」


 あんまり佐藤がうるさいので、僕は顔を上げた。う、と声を止めた佐藤に向けて、言う。


「僕も、お前といると楽しいよ」


 存在感の薄い目を見開き、二秒ほど固まってから、佐藤はさっと俯いた。


「あっおい、俯くのは無しじゃないのかよ!」


「うるせー! こんなん耐えられるかよ、気色悪い!」


「き、気色悪いとか言うなよ!」


「うるせぇうるせぇ、何なんだよ今日の富士野!」


 佐藤と食べる飯は、美味い。





 帰り道は、いつも夕日に向かって歩くことになる。背の低い建物が集まる町の、幅の広い真っ直ぐな道を、西へ向かって辿っていくからだ。夕焼け空は今日も真っ赤で、僕はやっぱり俯いている。胸元の赤いネクタイが、オレンジの空気に溶け込んで見える。


 嫌味を言われた取引先は、僕の先輩の担当になった。上司にも先輩にも嫌味を言われ、僕はぺこぺこ頭を下げた。悔しくて、腹も立って、それで少しだけヤケクソになった。


 わざとらしいくらいハキハキしゃべってみるようにして、そうしたら今日は別の取引先に「明るくなったね」とにっこりされた。内面は暗いままなので、正直素直に喜べない。だけどそれなら、上っ面だけでも自然にハキハキできるようになろうと思った。


 現実は、僕らを覆う膜のようなものだ。総司令の言葉を、僕は頭で何度も繰り返している。現実は頑丈で、いつまでもまとわりついてきて、僕らは決して逃れられない。


 けれども膜を破ってみれば、僕らだってワクワクの非現実を眺めることができる。それはほんの束の間の時間。だけど、その束の間は、何度だって体験できる束の間だ。


 特別じゃなくたって、「ヒーロー」じゃなくたって、僕らは現実に非現実を実現することができる。何の取り柄もない、臆病な普通人の僕だって。


 カァ、とカラスの声がして、僕は思わず顔を上げる。赤い光に目を細めつつ、なんとなく、もう下は向かない。眼鏡の汚れが夕日に光って、僕は背広で眼鏡を拭いた。ぴかぴかの眼鏡をかけ直すと、町の小さな精肉店の、赤い庇が見えてくる。


「富士野さーん! 会議、そろそろ始まっちゃいますよー!」


 柔らかい声が僕を呼ぶ。「は、はーい!」と僕は走りだす。夕焼けに向けて走る自分に、漫画みたいだ、とふと思う。


 ――さあ、今日も作戦会議だ。


 現実戦隊フツージン。


 僕の非現実が、また実現する。

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現実戦隊フツージン!! 山郷ろしこ @yamago_

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