第2話 寂寞の伍課
和洋入り乱れる現代の東京の街並み、それも官僚街なる霞が関の一角ともなれば誰を意識しているかはっきりと浮彫となるデザインの建築物が一帯として並ぶ。
赤褐色のレンガの牙城、ここが『畑』の本拠地である。
もっとも、私のような末端の現場職員に与えられる部屋などないのだが。
向かう場所は伍課の事務所。そこはレンガを越え、煤けたコンクリと鉄筋の建築物。外観は一度ボヤ騒ぎが合って以来汚れたままだ。
「……ん。軋むぞ、この床」
そんな建物に内装を凝る余地など無い。私が生粋の保守的日本人であれば、これを詫び錆びと評せただろうか。いや、千利休でも唾を吐くに決まっている。
「……はぁ。埃を溜めておくぐらいなら予算を別に回してもらえないものか」
なんなら維持費を戦闘費の方の予算に回してもらえるよう打診するか。ここらを一式、新興企業にでも売りつけりゃ小遣い稼ぎぐらいにはなんだろ。
どうせ毎回死に掛ける命だ。金を惜しんで、なんて最後はまっぴら御免被る。
そうして、私はドアノブを捻る。
「……お、課長、お帰りなさい。聞きましたよー、お手柄のようで!!」
「……お見事壱課を出し抜いて『胚芽』を駆除された、と。ふんっ、しかし日下部を撃ったそうではありませんか。駆除方法は些か感心しかねますな」
入室するや否や、二人分の男性職員の声がした。
聴き慣れた声だった。一人は筋肉質な巨大男、井之頭。そしてもう一人、西欧製の片眼鏡をこれ見よがしに掛ける木下。一瞬、言葉を失った。
「……は?……なんでいんだ、お前等」
「こらーっ、男共。課長は今すっごいお疲れなんですよ。きっとまた死に掛けたに違いありません。もっと労ってあげるべきです」
「はははっ、死に掛けているのは間違いねぇな」
そしてまた二人分の声。
こちらも聴き慣れた声。一人はムッとした顔の女性職員、西野。もう一人はポリポリと似合いもしない顎鬚を弄り傍観する近藤。
近藤は「賑やかってのはいいなぁ」と苦笑しつつ、私の方へ振り返る。
「おい、一ノ瀬。暇潰しだろうが事務所使ってんだ。札、立てておけよ」
「……あ、あぁ」
札とは、事務所のドアすぐ横に立て掛けてある木製の出席確認板に吊るされている自分の苗字が書かれた札のことだ。六枚ある。
私の姓、『一ノ瀬』、
そして他に並ぶ『近藤』、『木下』、『井之頭』、『西野』、『日下部』。
「……なんで」
「あれれ、課長、どうかされましたかー?」
「どうせ課長の事です。自己の体調管理が疎かなのでしょうな、まったく」
「え、だったら大変じゃない。課長、今からでも病院に行かれては……」
口々に私に投げかけられる、声の数々。
井之頭は私の不調を機敏に察していて、
木下はそれらを私への小言へと変え、
西野はそんな私を慮った言葉を掛ける。
そうだ。あぁ、そんなんだったな。これが、伍課だった。
「……いいや、なんでもない。気にすんな」
「……そうか。そりゃ良かったってもんだ」
近藤は珍しく、私を労わる言葉を掛けてくる。こいつは大体口を開けば軽口か大言壮語な夢物語だった。浪漫ってもんが好きな奴だった。
「……ははっ、うっせぇ奴等。
……伍課課長、一ノ瀬織葉、ただいま戻ったぞ」
私は、後ろにあった『一ノ瀬』の札を立て掛けた。
***
銃身に汚れが残らないよう丁寧に手入れを行う。
ただダラダラと時間を浪費する。それがこの事務所内でのやることのすべてだった。埃っぽく、日差しの当たらないこの部屋でのすべてだった。
「……なぁ、腹、減らないか」
「あら課長、もう空腹ですか」
西野はふふっ、と微笑みながら書き溜めていたノートをパタリと閉じる。生真面目な性格の奴だ。日誌でも付けていたのだろう。
思えば事務所で事務作業なるものに従事していたのは西野だけだったか。
「おぉ、いいですねぇ。うひょー、課長の奢りだー!!」
「……誰も奢るなんて言ってねぇだろ。で、腹は?」
「減っています、減っています!!何食べます??」
食い意地が張り出した井之頭を止める手立てが無いことはもう既に知っている。だが、そうか、腹は減ったのか。だったらどうしたものかな。
「……じゃあ、社しょ――――――」
「――――――まさか社食だなんて、課長、ケチなことは言わないでしょうな。僕もそれなりに腹の虫が鳴いているのです。まさか、まさか……」
「……いいよ。お前等に任せる」
ていうか、もう奢られる前提なのか。木下はふんっと鼻を鳴らし、外食の支度を始める。遠慮ってもんが見えない所作に、さっさと腹を括るが吉だと悟る。
「……財布の中身は……無いことは無い、か」
「おー、いいね。だったらすき焼きに一票ね」
「……お前まで私に奢らせる気か」
「いや、だって俺今金持ってなし」
そして、特に悪びれる様子も無く私に集る近藤。
……あぁ、さいですか。こいつ等にレディーファーストなる西欧の価値観を高説してやりたいが、時代に取り残された遺物なる私の言葉じゃ響かないだろう。
あれもこれも時代が悪い。そんでもって私に財布を持たせる資本主義が悪い。
「……やっぱ、金払う私が決める。カレーな」
異論反論意見具申すべて認めない。独裁こそが古き時代の政治体制の象徴だ。
***
伍課設立の所以、
それは『胚芽』出現に対処するにあたる使い捨て部隊の需要からであった。
未知の存在『胚芽』。その出生起源、特異な現象を起こす性質、対処策等、すべての分野において研究がまるで進んでいない。進みようがないのかもしれない。
すべてが謎で、すべてが論理の外にある、『胚芽』なる存在。
その様はまるで、定義付けされることを忌避するが如く、であった。
顕在する『胚芽』のほぼすべてが個別具体的な性格の化け物である。
これに対し、『胚芽』からの干渉を現場にて処分することを職務とする部隊が呼称『実行部』、そして私がその伍課の二代目課長だ。通常百人越え単位での規模となるのが課の運営であるが、新設伍課はその数が圧倒的に少ない。
それは、他の課の担っている業務の大半を免除される反面、
ただ一点、対処しきれない『胚芽』駆除関連を一手に担う。
基本、『胚芽』と対峙した時点において我々人間の命など無いに等しい。待つのは凄惨な死か、惨たらしいまでの狂気か。故に『胚芽』駆除には入念な調査の元で最小限度の被害を以てして、実行に移る。
我々の命なんてものは市場原理における金銭とそう変わらない。
ただ、悪運強い馬鹿もまま居るものだ。幾度となく死地を踏み越えたものもいる。それが井之頭であり、木下であり、西野であり、近藤であり、日下部だ。
『畑』がそういった悪運を利用し始めたのが十年前、それが伍課創設起源だ。
最低限の被害に抑え込んでいるものの、その最低限をより安定化、そして減少を図れるのではないか、一人の命で百人の生存が担保出来るのではないか。
私は志願してこの課に入った。だから言葉を選ぶべきなのだろうが、
すなわち、我々伍課ってのは、殉職数増加のストッパー要員として「死ね」と、そう言われていると解釈して語弊はないだろう。
***
どうせ豚と牛の肉の違いも噛分けられない連中だ。だから安く、そんでもって量の多いカレーライス店を選んだつもりだったのだが。
「……奢るとは言ったが、お前等、馬鹿なんじゃねぇの?」
内装も特段凝った造りではない、そんな民家にそのまま暖簾を掛けたような店にて出されたカレーライス。西洋を橋渡しにして流入した料理であったが、米と相性抜群なのは奇跡であると思う。と、食レポもさることながら。
「おぉ、若いってのは良いなぁ、一ノ瀬」
「……私を年寄り扱いするな、馬鹿近藤」
これは、見ているだけで満腹感を覚える食いっぷりだ。物の味をわかってんのかとツッコみたくなる井之頭をはじめ、美味しそうに頬張る西野、ふてぶてしく「おかわり」と宣言する木下。カレーライス、恐ろしや。
「……そういや、お前等と飯行くとこうなるってこと、忘れていたわ」
「いやいや。一ノ瀬も昔はガツガツ食ってたじゃん。俺の金でカレー」
「……だから、私が年食ったかのような物言いをするなよ」
「いやぁ、一ノ瀬もだいぶ……いいや、やっぱ気にするな」
そう言い残し食べ掛けのカレーライスにスプーンを通す近藤。この野郎、私の金で飯食っておいてその言い草か。はぁ、いい度胸だ、馬鹿野郎。
「……私、まだ三十路だし。全然若手だし。カレーとか余裕だし」
「……あのー、課長、無理されない方が」
「……んだコラ西野、文句でもあんのか」
西野の身分不相応な忠言など気にしていられない。飯を食わねば、私は社会的に死に一歩近づくってわけだ。それは絶対に阻止せねばならない。
「あぁ、もう、後でどうなっても知りませんよー」
「……ふっ、ご老体をご自愛くださいませ、課長」
西野の心配と木下の嘲笑を尻目に、私は食を進める。なお、先ほどから会話に入ってこなかった井之頭は今もなお黙々とスプーンを動かしている。若いのに負けてはいられない。若いのには、絶対に……。
……うぷっ。
***
生きてりゃ年だった取るんだよ。何故、それを卑下せねばならないのか。
「……甚だ、遺憾だ」
「はははっ、ばーか」
くっそ、この吐き気を催すレベルの満腹感さえなければ目の前にいる近藤をぶん殴れるのだが。全部、全部、年と時代が悪い。クソ。
「だから言ったのに」
「ふっ、まさしく馬鹿ですな」
呆れる西野と嘲る木下。木下この野郎、お前も後で覚えておけよ。
しかし、これは本当にマズいかもしれない。特に満たされているはずの腹を摩りながらまだ屋台の方へ涎を垂らす井之頭を見ていると、余計に。
「……お前、まだ食えんのか」
「え、いやぁ。食いもんには糸目が付けられない質でして……。えへへ」
そんなこと知っている。大食漢やら健啖家やら大食いに関する語彙はあるものの、それらすべてがお前を表しきれない程度の馬鹿な胃袋持ちってことくらい。
「……お金、やるから買ってこい」
「いやぁ、悪いですよー。カレー奢ってもらったばっかなのにー」
「……どうせお前等金持ってねぇだろ。いいよ、課長の面子を立てろ」
……ったく、察しが悪い部下を持つと面倒だ。全部言わせる気か。
といってもコイツに財布ごと握らせるのは全部食品に変わってそうで怖い。適当な額を握らせてやる。そういや、よくこいつにパシらせてたな、この辺で特に。
「おー、課長太っ腹!ありがとうございます、課長の分も買ってきますね!」
「……要らねぇよ、殺す気か。……で、他の阿保三人組は?」
「あー、じゃあ甘い奴。どうせ俺の金じゃないし高い奴ねー」
「ふっ、僕はもう腹が一杯ですぞ」
「私はやめておきます。太りそう……」
「……だ、そうだ。ほら井之頭、走れ」
***
食べ歩きもさることながら、一応、名目上の警邏を装ったりもする。
真っ昼間から『畑』の職員が怠惰にも焼きそば屋台でたむろしていると喧伝されては上司からお咎めを受け兼ねない。別にそれ自体は悪いことではないのだが。
だがカモフラージュも適当に街中を練り歩く。
満腹感も落ち着き小腹が減って来た頃合いには井之頭の手持ちからちょっとずつ奪う。街並みは和洋が入り乱れ、古きは淘汰され、ともすればひっそりと落ち延びて。
「……にしても、街の様相は随分と変わりましたな」
「……変わったねー。俺達の時代は、こう……一ノ瀬、語彙」
知るか。お前等の時代間ギャップを憂う会話に私を巻き込もうとするな。それにここらの道は最近もよく通る街道だ。違いなんてピンと来ない。
「おっほぉ。また美味しそうな飯処が」
「……まだ食うのかお前。腹、壊すぞ」
「あー、課長、あそこにあった呉服店、潰れたんですか?」
「……ん。あぁ、だいぶ前に。でも移転したとも聞いた気がするな」
もはや満腹中枢が働いていないのか胃袋に穴が開いているのかわからない井之頭に対し冷ややかな視線を送った後、服好きの西野の会話に付き合う。
ふと込み上げてくる懐かしさ、
そしてふと迫りくる焦燥感を、
私は見て見ぬふりをしながら惰性にて続く時間を過ごした。わかっている、ずっと前から、気付いている。これも、もう、終わらせないといけないってことも。
……あぁ、ほんと、クソみたいな世界で、
……私はやはり、呪われているみたいだ。
***
日当りのいい湖畔にまで足を運んだ。
ここはいつだって人影一つ見当たらない。
「ふっ、課長も物好きですな。未だにこんな辺鄙な場所がお気に入りで」
「ほんと、ここっていつも人っ子一人いませんでしたものね。秘境です」
「……あぁ、そう、だったな」
いい場所であるとは思うのだが、如何せん、その良さをわかってくれる人物ってのにはそうそう出会えないものだ。とはいえ繁盛してもらっても困るが。
特に、今日のような日には。
季節は夏を外れ、秋を覗かせる納涼の時期。紅葉浮かぶ水面はまるで反射鏡のようで、湖を囲う林で彩られていた。ここはいつ来たって、別の顔をしている。
こういった思いっきり手を広げることを憚られない場所ってのは貴重だ。
江戸の頃からせせこましい街であるとは聞いていたが、東京という街、ひいては人の居る街はすぐに手狭になるものだから、私にとってこういう場所は何にも代えがたい財産のように思える。ほんと、時代に置いて行かれるわけだ。
「……昔、ほんの偶然だったんだ。この場所を知ったのは」
風が荒び、木の葉が掠れる。だが、ひと時の静寂は確かにあった。
「……今じゃ胸元ほどもない背丈の頃だったか、私は孤児ってもんで養ってくれる家族が居なかった。だから自分の足で立つしかない、だなんて生意気なこと考えて『畑』の職員として雇ってもらった。流石に現場には出られなかったがな」
明日の飯代の事のみを考えていた頃。
思えばこの頃が一番気楽だったのかもしれない。
「……だけど『畑』の荷物番ばかりだと首を切られ兼ねない。だから現場に出て、そこで、初めて『胚芽』と遭遇した……そんで、初めて、人を殺した。大人の職員だった。眼の焦点が合っていない血迷った職員の頭を、私は、撃った。」
涎を垂らし、低い唸り声と共に、私に覆いかぶさった職員。
怖かった。この職員に殺されるってことよりも、この職員のようになってしまうってことが無性に怖かった。だから、撃った。何発も、何発も、撃った。
そして、ずるり、と力が入らなくなった身体が私に圧し掛かった頃、
その身体が動かなくなったことを確認して、はじめて、殺したと実感した。
「……その日だったかな、私は『畑』から逃げた」
明日の事すら考えられなくなった。大人を、職員を、人を殺した感触がまだ身体中に残っていた。噴出した血潮の温もりや、へばりついた流血の跡も肌伝いにすべて残っていた。だから全部置き去りにしたくって、私は逃げたんだ。
何度も転んで、擦り傷を作って、それでも逃げて、逃げて、逃げて……。
「……そんで、ここに行きついた。なーんも無い場所だった」
そうして感情の抑えが効かなくなって、私は思いっきり泣きじゃくった。
一日中、なんなら日を跨いで、私は泣き暮れた。若かった日の思い出だ。あの頃はまだ、人間って生き物はなんだかんだ死なないものとばかり思っていた頃だ。
それでも結局、年上の先輩に力尽くで連れ戻されたっけか。
その先輩は賢明な判断だった。私のこの呪い体質はあの頃から既にわかっていたのだから、さっさと連れ戻すって判断は私の為でもあったのだろう。もっともこの先輩ってのが今の壱課の課長、あのおっさんな訳だが。
それからの私は、何度も死に掛け、その分沢山殺して、そうして今に至る。
「……それ以降な、明日の事すら考えられなくなった日々の中で、偶にこうやって、ここに逃げてくるんだ。なんもないってわかっているのに、性懲りも無く、何かを求めてここまで逃げ惑う自分が居るんだ」
馬鹿みたいだろ、そう私は不細工ながら笑みを浮かべるよう努力しつつ、
「……なぁ」と何もない場所で問いかけるのだ。
それは、朧気ながら、
それは、儚げながら、
それは、そう、血迷いながら、
私は一人、問いかける。
「……なぁ、私は、逃げてもいいと思うか?」
「はははははっ、御冗談を!!課長は逃げませんよ」
「えぇ、貴方は生粋の阿呆ですからな。逃げ方もご存じではないでしょう」
「ふふっ、私の課長なら逃げたって戻って来ちゃいます」
「……だ、そうだ。逃げられるもんなら逃げてもいいぞ」
……あぁ、そうか。やっぱりお前等はお前等だ。ずっと、ずっと変わらない。
「……だろうな。あぁ、私はまた、ここに何かを求めちまっていたらしい」
お前等がそう言うんだ。ならば、私も変わるべきではないな。
私は、私を遂行しよう。お前等の中にずっと生きている私、そして今の部下の思う私を、遂行しよう。たとえここが地獄であったとしても、
私は、変われないのだから。
「……投降しろ。『胚芽』風情が、私の大事なモンを騙るな」
***
そうか、もう、十年も前の話か。伍課が創設されたのは。
「……はぁ、何故、よりにもよって伍課なんだ」
「……私には適した職かと」
「……死に急ぐことが、ってか」
まだ私が壱課配属の頃、この当時から壱課課長で前線を張っていたおっさん、十文字是清のデスクの前に転属願を提出した。確か先輩もこの頃はまだ二十代だ。
増えた白髪を掻きむしり、「考え直せ」と転属願を放り返された。
「……てめぇみたいなペーペーはまだ壱課の見習いでもしてろ」
「……歴で言えば先輩とそう変わらないでしょ。……それに伍課、人員不足だって上からの通達もあったってこと、知ってますから」
「……だからって、お前を送る気は――――――」
「――――――他の職員ではてさて、何か月持ちますか?」
「…………」
「……先輩、適材適所です。殺すんなら私で妥協しておいてください」
別に、死にたかった訳じゃなかった。いや、死にたい、とは連呼していたか。
だが、これと言って生きたい理由が無かったから志願したと言った方が、誤謬がない。思えば空っぽな人生、酒も煙草も賭けもない人生、摩耗される人生。
私は再び、転職願をデスクに置いた。
「……人事曰く、判を押すだけでいいそうです」
***
転属の手続きはほとんど恙なく執り行われた。やはり生きたまま墓標を立てられる気はない、と伍課への転属願を出す馬鹿は少なかったらしく、
自らの意志で進んで応募した人員はたったの二名、
私ともう一人、近藤という男のみであった。
出席確認の木製ボードには『一ノ瀬』の木板、そしてもう一枚、『近藤』の木板である。私よりも木板が新しそうに見える辺り、職員歴自体も浅いのだろう。
「ふっふっふ、後輩、俺が新設伍課の長、近藤武蔵様だ」
「……ども、一ノ瀬織葉です」
これには少し意表を突かれた。ついつい自分の事を棚に上げた偏見で、こんな課に行きたがる奴はよっぽどの死にたがりの根暗野郎だ、とばかり思っていたものだから、こういった人物像をまるで想像していなかったからだ。
もしかすると本物の馬鹿なのかもしれない。ならば教えてあげるべきか。
「そうかー、俺にも後輩かー、なに命令しちゃおっかなー」
「…………」
どうしよう、真実味を帯びてきた。私、何か騙されてここに転属になってはないだろうか。それか何かを試されているのか。
「…………」
「まぁ、冗談はさて置いて。……ところでさ、一ノ瀬さん」
「……あ、はい」
なんだろう、この分だと、靴でも磨け、と仰せつかりそうな勢いだが。そういう部下的な忖度はあの先輩から学んでいないから困るのだが。
しかし、ピリッと、空気が変わる。
近藤の表情から薄い笑みは消えていた。変わって出てくる神妙な面持ち。私は目線を近藤に向ける。聞く姿勢、これは生死にも直結する故、叩き込まれてきた。
「……一ノ瀬さんってさ、死にたかったりして、この課に来たの?」
「……いえ、特には」
「……そっかー。なら心置きなく上司命令」
近藤という男のキザっぼさはこの頃からだった。腕を腰に当て上から覗き込むような態勢。それは何処か威張っているようで、チャラけているようで、なんとなし馬鹿っぽいようで。そんな男を、今なお、私は忘れたことは無い。
「上司命令ね、死んでも死ぬな、これ鉄則で」
「……はぁ」
「俺、この課の存在自体が許せねぇからさ。だから、君が俺の部下である以上、これを絶対に守り通す。そんでもって、いつか沢山の部下を囲って飯を食う」
***
そして一年の月日が伍課にて過ぎた。
「……あのさ、敵前逃亡って、流石に伍課である意味を問われるだろ」
何度も死地を乗り越え、そっから何度も引っ張り上げられた仲とあって、私は既に敬語を捨てていた。場所は廃村と公道を繋ぐトンネル前。
この時、トンネルを潜って『胚芽』の脅威から逃げ延びたところだった。
「……いや、あれ、無理だろ」
「……条件は大体想像が付く。あとは効果を見誤りさえしなけりゃ殺せる」
「……あー、馬鹿言え。その言葉を何回鵜吞みにして何回お前死に掛けた姿みているか数教えてやろうか。ここ一年で軽く二桁だ。いい加減にしろ」
ぜぇ、ぜぇ、と息の切れた近藤相手に、いい加減にしろ、なんて言われたものだからこの頃の私少しはムッと頭に来たのを覚えている。
「……それが職務だ」
「……職務である前に、俺達は人間じゃ、ボケ」
無駄打ちした分の弾を拳銃に補充する近藤。言い返したい気分でもあったが職務と銘打った手前、駄弁を弄することも憚られ黙って私も補充作業に係った。
「……一ノ瀬、俺な、知らなかったことがあるんだ」
「……なに?」
「……部下ってさ、無条件にくっそ可愛いもんだな」
「……阿保か」
「……いやー、それがさ、本当なんだよ。一ノ瀬ってさ、顔だけ見れば別嬪さんの部類だと思うけど、口とか態度いちいち悪いじゃん。それに寝起きの機嫌の悪さときたらまんま悪魔だし。だから一見すれば不良債権みたいな女だけどさ……」
拳銃に球を補充しながら話に聞き耳を立てる。
不良債権みたいな女と評される自分とはいったいどんな奴なのだろうと気になりはしたが、上司の高説だ、拝聴しておくに損はないだろう、と黙ることにした。
「……まぁ、その本質、実は寂しがり屋なところが見えてきたりさ」
「……え、は?」
いや、黙っていられなかった。
「……お気に入りの湖畔に浮かぶ亀に餌やるのに至上の悦びを見出したり、
恋愛小説を熟読してたり、でも自分には縁がないってしょぼくれたり……」
「……なんで?」
「……なにが?」
「……いや、私に気でもあるの?」
ありがたい言葉でも出てくるのかと思いきや、自分の赤裸々な秘密の暴露大会だったのだから、私だって混乱の一つや二つしてしまう。
反動でつい変なことを聞いてしまった。
「……ここで愛しているぞ、って言えばお前結婚してくれる?」
「……結婚後も口煩そうだし、断るけど」
「……だろ。俺もお前みたいな不良債権、結婚相手には無理だよ。そんなんじゃなくてだな、お前は俺の初めての部下だ。そんで、初めての相棒だ」
近藤は一足先に補充をし終わり、拳銃を腰のホルダーに戻した。
「……だから、なんだ。死んでも死なせたくねぇんだよ。しかも伍課設立当時よりもこの思いが膨らんでいる。部下って以上にお前を死なせたくないんじゃい」
「…………」
「……こんなこと、言わせんなよ、クソー」
ここで冗談を一つ、そんなこと言ってもかっこよくねぇぞ、とでも言い返してやりゃ良かったのだろうが。私はその道のセンスは壊滅的だ。
「……わかった。考え直す」
だから今思い出したって小っ恥ずかしい態度で応答してしまった。
この後すぐ、職務の話に戻した。いたたまれなかった。私は改めて当該『胚芽』の条件・制約・効果の推測を行った後、作戦を具申、再度、実行に移した。
よって当初の予定より、一か月の遅れが生じ、
無事、二人で『胚芽』の駆除に成功した
ずっと前から、世界は狂っていた。
ずっと前から、私は呪われていた。
それでも、私は、少なからずの支えがあった頃もあったらしい。
あの日、のちに『豊穣祭』と呼ばれる災禍が訪れる、その日までは。
***
設立から二年目。日本の土に突如として災禍が舞い降りた。
のちの『豊穣祭』と呼ばれる災禍は、
『胚芽』の同時多発的な出現によって幕を開いた。
今から八年も前ともなるこの災禍の死者・負傷者数は現在でも公表されていない。だが確かな事としてその中の一人、私にとって失いたくない人間を失った。
実行部伍課課長、近藤武蔵は、殉死した。
「……あぁ……あああぁぁぁ!!」
こべり付いた血潮。芳醇で、濃厚な、鮮血の薫り。
狂っている世界が最も狂った日。私の呪い体質なんてものを掻き消さんばかりの禍災、厄災、天災。すべての歯車が、往々にして、噛み合わなくなった日。
「……一ノ瀬」
「喋んなっ!」
「……一ノ瀬、居るか?」
「あぁ、居る。居るから」
嚙み切った布で抉れた脇腹の止血を試みる。だがしかし、眼に見えていた。この損傷、この出血量、助ける道理なんてものがある訳なかった。
「……一ノ瀬」
「……なんだ」
「……悪いな」
「……なにが」
「……これからは、一緒に飯食ってやれない」
この時、この瞬間、私は何をしてやることが正解だったのだろう。何を与えてやるべきだったのだろう。今になっても、私は明瞭な解を得られていない。
だがこの時は、私は、近藤を抱き締めた。
約二年の月日は、私にとって、重過ぎた。
「……今、楽にしてやる」
***
設立三年目。『豊穣祭』の一か月後から二代目の伍課課長となり、木下という部下を持った。あの災害を後にして、木下は伍課へ志願したらしい。
「……おい、木下」
「……なんですか」
事務所で二人、何をするでもなく時間を潰していた時間。ふと気になったことがあり木下に話を振った。木下はゴキブリでも出たかのような嫌な顔で応対する。
「……お前ってさ、もしかして私の事嫌いか?」
「嫌いに決まっているでしょう。ズボラで、礼儀知らずで、すぐ死に掛ける上司だなんて悪夢を見ていると言われた方が若干ばかり気が楽になりますぞ」
「……そっか、そっか。悪いなぁ、面倒掛けて」
ふんっ、と鼻を鳴らし眼鏡を磨き始める木下。
なるほど、可愛くねぇな。私も相当な部下だった気がするが、こういった手前を可愛いと評したアイツはどういった心境にあったのだろう。
……わからない。それもまったく、だ。
上司ってのは、どうも、私に向いていない気がする。
***
四年の月日が経過した。夕陽の明るさに眼が焦げ付きそうな黄昏時。
妙な温かさと制汗剤の薫りに目を覚ます。肩に羽織るは男物のスーツ。目先にあるのは見知った男の後頭部。揺れる地面に意識は徐々に冴えていく。
あぁ、私、木下におぶられているのか。
なんだったか、あぁ、そうだ。近畿圏に現れた『胚芽』の駆除に遠征にでた帰り道だ。しかし辺りは見慣れた街並み。もう近所まで帰ってきていたとは。
「……おはよう」
「やっと起きましたな。ふんっ、寝起きだからと暴れないでくださいね。貴方の寝起きの悪さは尋常ではないのですから、冗談じゃ済みませんぞ」
「……暴れねぇよ」
にしても、まったくといっていい程、記憶が無い。なんなら向こうの駅まで行きついた覚えすらない。折角の遠征だ、あのおっさんにでも土産を買って帰ろうかと思っていたのだが、思いっきり寝こけていたらしい。
うわぁ、やったな、私。
「……わるいな」
「本当に悪いと欠片でも思われるのであれば垂らした涎を拭いてはもらえませんかな。汚いったらありゃしませんぞ、まったく。ズボラが抜けませんな」
まぁ、言い返しはせんさ……。
と、ふと腹が鳴った気がした。
「……腹減った」
「…………」
「……木下、飯」
「課長、お言葉ですが僕の事を小間使いか何かと勘違いされているのではないのではないのですかな。日常の節々からそう感じざるを得ませんぞ」
「……だって、部下だし」
「部下とは職務関係上に限られるのであって、起床の手伝いやら、部屋の片付けやら、風呂を沸かす担当でないことをご査収くださいませ、課長殿」
ふんっ、と鼻を鳴らす木下。
なるほど、そういや近藤やおっさんの元ではそんな扱われ方はしてなかったと記憶している。木下には本当に悪いことをしているのかもしれない。
今後の清く正しい職務関係上、ここは謝った方がいいのだろう。
「……まぁ、なんだ、これも昨今欧米から取り入れられた新しい価値観の一つだ。上司のパフォーマンスを部下が維持する。これも立派な職務だ」
だが、そんな面倒な真似事など御免だ。そんな私に黙りこくる木下。
しかし私は知っている。この木下の態度、これは別にテキトウな法螺を吹く私への憤りなどではなく、なるほど、と会得がいっているだけなのだ。
あれだ。阿保の間は私に上手く使われておけばいいのだ。
「……なぁ、木下」
「……むっ。なんですかな、課長」
「……これからも、色々と頼むわ」
「……はぁ。やはり、僕は貴方が嫌いですぞ」
そうかい。だけど、まぁ、
私は上司として、なんとなくお前の可愛さには気付いてきたぞ。
***
そして六年が経った。あれは土砂降りな雨の日、ガス灯の光が雨水に流されてしまいそうな激しい嵐の日。私はまた一つ、決別を迫られた。
「……課長、僕はやはり、貴方の事が世界で一番嫌いですぞ」
「……そうか」
暗澹とした夜闇は月の光さえ許さなかった。汽車の轟音の介入する暇すらなかった。世界は雨と風と、そして私と木下で出来ていた。
そこは、互いに拳銃の銃口を向け合う二人だけの世界であった。
「……課長、僕は貴方と出会って以来、狂いっぱなしの人生でしてな。馬鹿の一つ覚えのように『胚芽』に突進する貴方へ幾ら殺意を持ったか測れません」
……そうか。それは、悪かったな。
「……職務が終わって帰宅すれば、靴はバラバラ、服は脱ぎっぱなし、掃除も半年に一度やるかやらないか、まるで大きな赤子を見せられている気分でしたぞ」
……だけど文句を言いつつやってくれていたのはお前だったな。
「……なんど呆れたことやら。なんど小言を言わされたものやら」
……さて、何度だったかな。
はははっ、と懐かしむように笑う木下。こいつとタッグを組んで四年だ。四年の月日、この馬鹿と死闘を共にした。比べるもんじゃないが、近藤の二倍だ。
伍課所属、木下万十郎、私の初めての部下。
そいつが今、『血迷っている』。我々職員が血迷う行動をとる理由なんて、それはもう火を見るよりも明らかな事柄だろう。
これは、まごうこと無き『胚芽』の影響だ。
私はこの時、木下からの襲撃に合っていた。
何の皮肉か、元上司と同じ脇腹を撃たれて。
どくどくどく、と雨に交じり血流が舗装された道路を打つ。身体が燃えるように熱くもあり、また凍えるような寒さもあった。死ぬ、その言葉が重みを持った。
もう時間がない。もう、残せるものもない。
もしも、私が当該『胚芽』の条件を解明出来ていれば。
もしも、私が当該『胚芽』の制約を看破出来ていれば。
もしも、私が当該『胚芽』の効果を打破出来ていれば。
「……課長、これが最後です。告白を、聞いてはくれませんかな」
私は、この『もしも、』を、ずっと、考え続けている。
「……課長、僕はね、そんな貴方を世界で最も愛しておりました」
「……そうか」
その夜、鳴り響いた轟音は一発のみであった。
***
八年が経過した。喪服ってのも、何時しか着慣れてしまっていた。
「……はぁ」と、煙を吐く。曇天模様な空は鬱々とした私の心情そのもののようで不愉快さが増した。いっそのこと大雨にでも見舞われれば、なんて思った。
「……これは、一ノ瀬さん」
そう聞き覚えのある凛とした声音が背後から聞こえた。振り返った先、そこには色白で細身、しかし芯の強そうな雰囲気のある女性が佇んでいた。
「……ご無沙汰しております」
「……いえ、こちらこそ。主人が、その……」
「…………」
そりゃ私相手に、世話になった、とは世辞でも言いたかないか。奇遇だったかな。私もこの人からそんな薄ら寒い言葉なんて聞きたかなかった。
「……あの、煙草」
「……あぁ、失礼」
これは悪い病気だ。上司と部下を一人ずつ失ったあの日から、煙に巻かれて、消えてしまえないか、そんな風を物思いながら何気なしに吸っている自分が居る。
携帯灰皿に、汚れた灰を落とす。
「……あ、いえ。諫めるつもりは無かったのですが」
「……いいえ、私もそろそろ身体に悪いと思っていましたから」
そんなもん当然、嘘だ。きっと死んだって拳銃と煙草は手放しやしないだろう。悟った言い方はしたくないが、私の最後は鉄と煙の味のように思う。
「……本日は足をお運び頂いて、ありがとうございます」
「……いえ。もっと早くに来られればよかったのですが」
「……そんなことは、ありません」
何が、そんなことはない、のだろう。伏せられる事実の多い『畑』の情報でも此度の惨事は彼女にも概ねは伝わっているだろう。ならば、わかるはずだ。
私だけだった。井之頭五十六を、救ってやれたのは。
「……あの一ノ瀬さん」
「……なんでしょうか」
「……少し、お話よろしいですか」
***
そうして通されたのは応接間。広い敷地に、広い応接間。それはまるで井之頭の家の権力を象徴するようであった。事実、井之頭は名家の銘だ。
ししおどしがカツンと、音を立てる。
「……名誉の殉死だと、そう、義父は仰いました」
「……そうですか」
そうか、あの政治家は息子の死をそう語れるのか。
語感の善いように嘘を挟めるほど器用な人物には見えない。きっと本心を以て、死んだ井之頭へ誉れを感じたのだろう。
そうか、私にはそう、感じることは出来なかったが。
「……一ノ瀬さん、憶えていらっしゃいますか。主人が私を一ノ瀬さんに紹介したいと無理を言ってここにお越しくださった、あの日のこと」
「……えぇ。お前には勿体ない女性だ、そう私は言いましたね」
「……そうですね。そうでした。もう、あれから約一年ですか」
あの日、私は彼女とはじめて出会った。井之頭の惚気でそれなりに人物像は把握しているつもりであったが、ほんと、聞きしに勝る美人で驚いたものだった。
ついつい、こんな間抜け面の何処に惚れたのか、そんなことを聞いた。
そしたら、この間抜け面に惚れました、そう彼女は即答してみせた。
「……正直、結婚式の日まで疑いを捨てきれていませんでした」
「……ふふっ。だから一ノ瀬さん結婚式の日、眼を丸くされていたのですね」
そうだった。そんで、幸せそうな部下の顔を見て、あぁ、と思い出しもした。
もう二度と、私は、幸せになる資格などないのだと。
もう二度と、私は、幸せを望むべくではないのだと。
「……申し訳、ありませんでした」
綿で編まれたカーペットの上で、私は額を擦り付けていた。
もう思い出せやしない心情がこの時の私には巡り巡っていた。許されたかったのか、呵責に苛まれたのか、いたたまれなかったのか。もう、わかりやしない。
それはきっと、自己満足のような何かであったと思う。
だが、私の陳謝をあまり興味がなさそうに「ねぇ」と、
「……主人は最後、何か言い残しはしませんでしたか?」と、私に問いかけてくる声。この時以上に、眩暈を覚えるような空虚を味わった事は無かった。
「……私が最後聞いた言葉は、牛丼を食べたい、と」
「……そうですか。なら、もっと沢山食べさせておくべきでしたね」
彼女の声音は後悔の念というより、少し寂しそうでありながら、ひどく他人事のようにも聞こえた。わからなかった。何故、そんな風なのか。
だから私は床から彼女を見上げた。
そして、そこにあったのは、はっきりとした後悔であったように思う。
「……主人の遺灰です。すごく、軽いのですよ」
「……あ、あの」
「……一ノ瀬さん、主人に、貴方のそのような姿勢をお見せにならないでくださいませんか。主人が敬った貴方は、そうじゃないでしょう」
彼女の瞳に映る私は、灰色にくすんで見えた。
今更、私が謝った理由なんてものを追及するつもりは無い。許されたかったのか、呵責に苛まれたのか、いたたまれなかったのか、もう、どうだっていい。
ただこの時、私は、逃げられないのだと、それだけがわかった。
……わかって、しまった。
「……一ノ瀬さん、煙草を一本頂いてもよろしいですか?」
「……構いませんが、お吸いになられなかったのでは」
「……貴方と同じ理由ですよ。私も少し、疲れましたから」
私は何とも言えなくなった。ただ一本の煙草を潤んだ唇に咥え、マッチの火で煙を焚いた。ふぅ、と吐かれる白い煙は、巻き付くように部屋を埋めた。
「……案外、おいしくないものね」
それ以降、彼女が何かを話すことは無かった。
***
設立から九年、
私はあらん限りの力で西野の身体を抱き寄せていた。
「……痛いです」
「……我慢しろ」
西野の頭も一緒に胸元に寄せる。乱れ切った髪、香る硝煙、あと腰元を流れる生温かな流血。それをただ、ただ、忘れさせんが如く西野を撫で続けた。
気分を、紛らわせてやりたかった。
現実を、伏せさせてやりたかった。
流星彩る夜天井、砂を捌ける鉄の轍。永遠に思える線路の上で、静寂と腹にまで響く汽笛を横に、私と西野は最後を迎えていた。
「……課長、おかしいんですよ。腰から下、感覚ないんです」
そうか。それは、良かった。
磨り潰された下半身に痛覚が通ってりゃ、悶絶じゃ済まないだろうからな。
「……あはは。なんか課長、今日はとても優しくないですか」
「……気のせいだ」
「……ふふっ。課長、ずっと、こうしてもらっていいですか」
「……あぁ、いいぞ」
それは機関車の形状を模した『胚芽』であった。薪を焚き、血走るように振り撒かれる火の粉。立ち昇る水蒸気。それはまるで、鉄臭い巨大な蛇だった。
ただ、そいつが、『胚芽』たらしめる異常性を保持したまま、
私の部下一人を、西野結城を、文字通り轢き殺した。
条件は、おそらく、あの名の無い駅で降りたせいだ。
制約は、わからない。ただ、多分、時間が関係する。
効果は、線路を超えた走行・暴走が無尽蔵に可能となる。
「……今日は、なんだか、静かですね」
静かな訳、あるか。
あの悪魔じみた汽笛の音は、途絶えちゃいないのだから。
「……あぁ、そうだな。今日は静かだ」
「……あー、課長とても酷い顔ですよ」
「……うっさいな」
「……そういう顔してくれるんですね」
「……阿保か」
うふふ、あはは、西野はただ力なく、ただ愉快そうに笑っていた。あまり笑うって印象のない西野の笑い声に、何故か、悟ったものがあった。
私はこいつを、西野を、見てやれていただろうか、と。
「……やっぱりそんな顔、しないでくださいよ」
「……っ」
「……大丈夫ですよ。課長は、最強で無敵です」
私はずっと、ずっと、考えている。考え続けている。この時、この瞬間、何と声を掛けてやるべきだったのだろうと。何をしてやるのが正解だったのだろうと。
しかし選んでしまった沈黙の解は、悔恨ばかりを残した。
「……課長、その、最後に一つ、お願いしてもいいですか?」
ずっと、考えているんだ。
「……課長、私を、殺してください」
私は、どう、応えてやるべきだったのだろうと。
***
そういや、もう、十年か。伍課の設立から、十年か。
「……お前等は死んだ。全員、私が殺した」
引き金に指を掛ける。狙うは元同僚の背丈・顔だちをした化け物の眉間。
鉛の重さには慣れたと思っていた。血潮の飛び散る跡は洗えば落ちると思っていた。匂いはいつか、過去のものになると思っていた。
私はすべてを、間違えていたらしい。
条件は、きっと、私がこの手で殺したことだ。
制約は、わからない。ただ、飯を食えたことから実体はあるらしい。
効果は、お前達を殺した私の前に、恨みったらしく化けて出ること。
湖畔に佇むは人影が一人分、そして化け物の四匹分。
私がここで撃てば、終わる。また、私が、終わらす。
「……何が目的だ。……って、化け物に合理性を求めるもんじゃねぇな」
あぁ、そうだ。私なら、お前等の知る一ノ瀬織葉でならば、そんな馬鹿みたいな問答はしない。ただ落ちているタスクを拾うだけ。それだけだ。
それが、一ノ瀬織葉のはずだ。はず、なのに……。
「……クソ化け物風情が。なぁ、楽しかったか。飯は美味かったか。私と久しぶりに歩く浅草の屋台は懐かしかったか。……なぁ、滑稽だったろ」
お前等が、『胚芽』であることは事務所の入室時点で察していた。
全員、私が殺した同僚だ。上司も、部下も、私の引き金によって絶命した。未来を奪い、過去を引き摺り続けた。訣別すべきだった。
……だが、私は、お前等との過去に耽った。
お前等と食った飯の味を、思い出したかった。
お前等と巡回した警邏の道を、辿りたかった。
お前等とまたこの静かな湖畔を眺めたかった。
それがたとえ本物ではなくたって、たとえ『胚芽』と称される化け物であったって、私はただ、お前等との時間を捨て去りたくなかった。
あぁ、悪いな、お前等。
そっと、私は拳銃の標準を外す。
「……やっぱ、お前等のこと、もう殺せねぇよ」
――――――――――――バンッ。
そうして静謐な森の奥にて、数発、銃声が鳴り響いた。
***
「……悪かったな、先輩」
湖畔を仕切る柵に凭れ、水面とは別の青い空を眺める。雲とは違った、白い、白い煙を口から吐きながら、赤黒くなった灰を土に落とした。
「……お前、未だにこんな湖畔でしみったれてたんだな」
「……まぁおかげで、ちゃんと見つけてくれたじゃんか」
「……馬鹿言え。ペーペーの頃からお前のお守を任されていた身だぞ。後輩の後始末を引き受けるだなんて、社会人としての当然の義務だろうが」
下手くそな照れ隠しに太い葉巻を咥える先輩、壱課課長十文字。
目先に居た『胚芽』だったそれらは、今や遺灰の如く砂塵と化していた。
本来、私がこいつ等を撃つべきだった。しかし、実際に発砲をしたのは私ではない。拳銃を握り、硝煙を巻き散らした人物は、私ではなく、このおっさんだ。
結局、私は何もしてやれなかった。
「……実体があることは飯が食える時点で目星が付いていた。警邏中、誰にもこの異変を示唆されなかったことからも、私のみている現実と客観的な視認情報はそう相違はないのだろうと推定出来た」
「……他から見て、お前の同僚とはまったく別人の可能性もあったろ」
「……その時は、その時だ。わかりやすい効果だ。どうにでもなった」
そんな私の様子を見て、はぁ、と煙と共に溜息を漏らすおっさん。
「……事実として、お前、撃てなかったろうが」
「…………」
「……あとお前、わざと拓けた大通りに出て俺ら壱課の情報網に入って俺に察知させただろ。最悪『胚芽』の姿が同僚でなくたって、この場所の意味をわかっている俺なら引っ張り出せる。……先に言うぞ、この大馬鹿野郎が」
あぁ、その通りだ。そのまんまだ。
私は先輩を保険に使った。私が撃てなかった時の、その保険。
「……悪いとは思って……ます」
「……だったら不満げに言うな」
あと、それに……。そう先輩は続ける。
「……お前が馬鹿野郎な理由、別に俺を保険に使った事じゃねぇよ。それは俺の腹の虫の居所を悪くしただけだ。……お前、また適当な推察で『胚芽』に対峙しやがって。やめろって何回も言っただろうが。近藤の元で何学んだんだボケ」
「……あれ、先輩、近藤と面識あったんですか?」
「……まぁ、な。馬鹿な後輩を送ったから面倒見てやってくれって。……そんなこと、どうだっていいんだよ。猛省しろ。お前が同僚を撃てないのと同様に、俺も……なんだ、お前なんか、撃ちたかねぇんだよ」
……あぁ、そっか。私と同じなんだ。先輩も、同じ。
そっか、そりゃ、私もなかなか死ねないってもんだ。
「……ねぇ先輩、元上司目線、私は可愛いくて仕方ないとかある?」
「……はぁ。なんだお前、婚期逃したこと根にでも持ってんのか?」
「……ちげぇよ。あと、照れ隠しに適当なこと言ってけむに巻く癖やめた方がいいっすよ。壱課でも笑い種なんで、せんぱーい」
……まぁ、なんだ、これは私の照れ隠しだ。
そんで先輩の拳骨を貰うってとこまでが、私の照れ隠し。
***
「あー、先輩、何処行ってたんっすか!?」
事務所に帰ったや否や五月蠅い奴に捕まった。むーっと頬を膨らませる姿は血生臭いこの界隈でなくとも愛嬌ってもんを感じられるのだろう、日下部だった。
「……悪い、色々あってな。で、容態は?」
「あ、それは全然っす。ほら、この通り!」
そういうと元気よく患部であった肩をぶんぶん回す日下部。
「……おい、撃った私が言えたもんじゃないが、怪我してんだ、やめろ」
「えー、本当、大丈夫なのに。……あー、そういえばっすね先輩、これ」
疲れた身体を椅子に預けようと深く座ったところで、日下部がゴソゴソとデスクを漁る。事務仕事なんて絶対柄じゃないこいつが一体何に興味を持ったのか。
あー、あった、あった、と日下部はおもむろに一冊のノートを提示した。
「……なんだ、それ」
それは古っぽいシミのついた大学ノートであった。和紙が洋紙に乗っ取られて久しいが、まだ安いもんじゃないだろう。それが何故ここにあるのか。
……いや違う、憶えがある。これは、確か……。
「えー、先輩も知らないんっすか。さっき私のデスクの上に置いてあったんですけど誰のなんでしょうかね……。『未来の後輩諸君へ、あと課長へ』?」
そしてノートを捲り、日下部は黙々と読み進めた。
だがふと、パタリ、と勢いよく閉じたかと思えば、「……これ、たぶん、まず私じゃなくて先輩が見るべきだったかもっす。すみません」と。
押し付けるように私へ寄こしてきたノートは、
そのはずみで、一ページ、独りでにゆっくりと開いた。
「…………」
「……あの、これって」
あぁ、思い出した。このノートは西野のだ。西野愛用の大学ノートだ。
私が、捨てられもせずに事務所の片隅へ眠らせていた、古っぽけたノートだ。
「……日下部、私な、昔は煙草嫌いだったんだよ」
「……初耳っす。先輩って幼少期からヤニ吸ってたわけじゃないんっすね」
「……なわけあるか。なんなら今も本当は好きじゃない。でもな、煙草って楽でいいんだ。なんか、色々忘れられて。煙に巻かれて、私は血迷わずに済む」
何を語っているのだろう。こんなこと、後輩に聞かせる話じゃない。
だけど、精算したい過去は、言葉じゃないとどうしようも出来なかった。
「……でもな、忘れられねぇから、煙吸ってんだとも思う。あいつ等の事、葬式の帰り道に寄った煙草屋で置いた銭と一緒に置き去りにした、そのはずなのに」
「……それって、忘れないといけないんっすか?」
……いいや、ただ、思い出すと辛くなるばかりだったから。だから思い出してやることもできず、忘れてやることもできず、私は放浪するように生きてきたんだと思う。
だから、近藤の死後、煙草を手に取った。
そして、木下の死後、煙草漬けになった。
その後、井之頭の死後、私は煙に酔った。
西野の死後、私は、煙草に憑りつかれた。
結果、私は逃げられもせずに、そして立ち向かうことさえ出来なかった。
「……日下部、私は……いいんだろうか」
「……なにがっすか、先輩。聞きますよ」
「……私は、偶にだったら、逃げてもいいんだろうか」
ノートには、こう書かれていた。
『私達は思い出となりましょう。だから、貴方は明日になってください』と。
「……きっと、誰も逃げちゃダメなんて言ったことないっすよ」
「……そうか。……あぁ、そうか」
「……あー、なんっすか、先輩。もしかしてぇ、泣いてます?」
日下部の頭に拳骨を食らわす。存外、こいつもそんな気分だったのかもしれない。ただ、この時、私は部下の顔をはっきりとは見てやれなかった。
私は、まぁしばらく、過去から逃げながら過ごしたいと思う。
……そんで煙草もそろそろ、止めよかと思っている。
煙に巻かれて 草臥 箔処 @Kutabirehakkushon
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