ザカリーの半径

上斗春

〇〇〇

 ザカリーが言っていたんだけど、私って少しおかしいみたい。おかしいって、何がおかしいのと聞いてみたら、真っ黒い髪をひっつめにしたザカリーは、彼女のお母さんとそっくりな銀縁メガネを薬指でクイッと持ち上げて、

「みんながそう言ってるの。アンリ、あなたおかしいわ」

 とキッパリ言い切った。皆、みんなって誰? 

 それって幽霊やUFOと同じで、ザカリーの嫌いな「根拠の無い噂」なんじゃないのと思ったのだけれど、ザカリーはお団子頭だけでなく脳ミソまでをワックスできっちり固めてしまったらしく、何も疑問に思っていないようだった。

 皆って誰? 私の疑問は宙に浮いたまま、授業の開始を告げるベルがけたたましく鳴って、皆が蜘蛛の子を散らすように席へ着くのをぼんやりと見ていたら、クラスに入ってきた先生にまた怒られた。

 ザカリーがこちらを向いて、まるでカエルの死体を見た時みたいに、うえー、という顔をして見せた。早く座んなさいよ、やっぱりアンタっておかしいわ。彼女の表情を見ていたらそんな台詞がありありと浮かんできて、脳内でザカリー学級委員長物語を上映していたら、いつの間にか国語の授業は終わっていた。あーあ、残念。ザカリーが図書委員のマーシュと恋に落ちて大人なキスをする寸前だったのに。終業のベルで全てがパチンとポップコーンのように弾けて消えた。

 ちなみに、マーシュは大人しい男の子で、分厚いメガネがいつも汗で曇っている「ナード」だ。ぶよぶよの腹肉がサスペンダーにくい込んでいるし、いつも唇の端にチョコソースをつけている。真っ白な頬に黄色く膿んだ出来物がびっしりとはびこっていて、本当に失礼だけど、うえーって感じ。

 そんなマーシュを恋人役にあてがってしまったのは、監督の私による采配ミスと言う他ない。もしくはおちゃめで誰も傷つけないひとり遊び。いやはや、大変申し訳ない。教室の前の方でひそひそ話をしているミス・ザカリーに、心の中でシルクハットをとって優雅に謝罪の礼をする。

 もしかしたら、ザカリーとその取り巻きたちは、こういうところが「おかしい」と思っているのかもしれないなと思った。退屈な授業を真面目に受けてないから、私がおかしく見えるのかな?

 そう考えると、やっぱりザカリーが可哀想に思えてくる。私はただ不真面目に先生の話を無視しているのではない。むしろ、信念にしたがって、つまらない授業をおもしろおかしくすることに真面目に向き合っている。情熱を持ってメガホンを取ったのだ。

 ザカリーは退屈で吐きそうな授業のあいだ、何をしているのだろうか。ノートを取ってる? 教科書を読んでる? それとも、先生の奥さんと犬が先生を置いてピクニックに行ったのだ、なんてオチもヤマもない小話を真面目に聞いているの?

 1度気になると止まらなくなってしまって、今日最後の授業はメガホンをいったん机に置いたままで、ザカリーの観察から始めることにした。

 つむじに針を付けられて天井から引っ張られているみたいに、ピンと伸びた背筋。脇を閉めてシャープペンシルを握っている。お手本みたいな姿勢で授業に取り組むザカリーは、たまに控えめに手を挙げて、先生にムツカシイ質問をしている。机に置かれた左手が、先生の雑談が切れた時を見計らって素早く上がる瞬間を、もう何遍も見たいと思ってしまった。

「先生、黒板が見えません」

 生真面目な報告。教卓に片腕をついて愛犬について語っていた先生が、ゼンマイ人形のようにピョンと跳ねのいて謝っている。

 ザカリーの右手はいつまでも板書を続けている。どれだけ見ていても飽きなかった。そうだ、ザカリーが先生になれば良いのだ。そうしたら、もう少しくらい話を聞いていられるかもしれない。

 私たち、今何歳だっけ。

 白紙のノートに指を這わせて、透明なインクで筆算を始める。2桁の、繰り下がりのある引き算だ。残念ながら、ザカリーが猛スピードで教師になるとしても、あと十数年はかかる計算だった。

 この学校って、いつまで居残っていいのかしら。

 ザカリーが右手にチョークを持って、左手で出席簿を抱える姿を想像してみる。驚く程鮮明に、その姿が脳内で浮かび上がる。

「廊下は走らない!」

 ザカリー先生に言われたら、きっと悪ガキのピーターだって止まるだろう。


 


 もう何年も前のことだけれど、ザカリーとは以前も同じクラスになったことがある。この学校に進学して初めてのクラスで、名前順に座った時、ちょうど通路を挟んで隣だったのだ。あの小さな机ばかりが並ぶ大きな教室で、初めて喋ったのはザカリーだったかもしれない。

 それからすぐ席替えがあって、私とザカリーは遠く離れてしまったのだけれど、昼休みになると必ず2人でくっついてお弁当を食べていた。

 ザカリーのお弁当は黒色の正方形で、私はアニメキャラクターが書かれたショッキングピンクの楕円だった。幼稚舎の頃から使っている私のお弁当箱は、蓋にプリントされたキャラクターの顔がハゲかけていたけれど、ザカリーはそれを羨ましそうに見つめていた。パステルブルーの水筒や、クリーム色に苺が散らばったタオル地のハンカチも、いいなあ、と黒曜石のように輝く瞳で、焦れったそうに見つめていたんだ。

 ママの愛情たっぷり昼ごはんを食べ終えたあと、私たちはザカリーの自由帳に色んな絵を書いた。机を挟み、向かい合って座っていたから、真っ白なノートには上下があべこべな絵が入り乱れた。小さなリボン。真っ赤な苺。弁当箱に描かれていたはずの、とっくに忘れた魔法少女の顔をいっしょうけんめい思い出して、なんとか書き上げた大きな女の子の絵。腕の間接や指を書くのは難しかったから、ドレスのパフスリーブを大きく膨らませ誤魔化して、肘から先は全部体の後ろに隠してしまった。ハートやお花をそこらじゅうに書いて、レインボーに塗りあげたら、完成。

 ザカリーの持ち物は全部黒くて直線的なものに支配されていたけれど、そのノートだけは、色彩を失っていなかった。目が痛いくらいのキラキラが、後ろのページに写ってしまうような強い筆圧でグリグリと描かれていたのを思い出す。

 私はアニメの女の子を書くのが好きだった。ザカリーはいつもその横に、上下逆さの王子様を付け足すのだった。

 黄色の王冠を被った、輝く青い瞳の王子様。もちろんマーシュなんて比べ物にならないような、スレンダーで高身長の、ハンサムな好青年。それはザカリーが夢の世界で育んで、鉛筆の先で生み出した無垢な妄想の形だった。

 幼い私たちはお互いをからかうことなんてせずに、ただ自分の好きなものを描いていた。よく減る色鉛筆はピンクと黄色と水色。ふわふわで、キラキラで、可愛らしい色彩たち。私たちを彩るもの。

 6年生になったいまも、ザカリーのペンケースやシャープペンシルは、機能的で直線的な、黒色の物ばかりだった。消しゴムも黒。定規も黒。下敷きは半透明の赤色。暗記する時に使うやつだ。

 先生の声がする。ヘイキンの話をしていた。全部を足して、全部の数で割った時の、数が、ヘイキン。——いったいどういうこと?

 理解には時間がかかった。ザカリーから一瞬目を離して、慌てて教科書を捲る。今やっているのは、64ページの練習2番だ。例題の文章と解き方を確認して、ようやくヘイキンを呑み込めた。

 ヘイキン。平均。数の集合の、中間的な値のこと。


 例文)ザカリーの言う「皆おかしいと思ってる」は、全国民の感情の正確な——ではない


 ああ、そっか。「みんな」という言葉は、ザカリーの半径2席くらいのお友達の事を指している。そこの集まりで私について色々意見を交換してみた結果、私の事をおかしいと貶す人が多かった、というだけの話なのだ。

 なあんだ、と溜息をついた。それと同時に、面白くなかった。どこまでも的なザカリーが、2席分のお友達の意見を集約して乱暴に多数決をとって、私に伝えるなんて間違っている。それは悪口だから、弱いものいじめだから、間違っている訳ではなくて、数学の公式を誤用して答えがメチャクチャになってしまうように、物事の根底から歪んでいる。

 ザカリーが曲線を描くのは、あのノートの中だけなのだ。

 真面目なザカリーは、私のことも、先生の無駄話も嫌いでいいのだ。けれど。何かが。

 何が違うんだろう。誰かに教えて欲しかった。体の真ん中がむず痒くて、落ち着かない。教室中をキョロキョロ見渡すと、丸いボツボツだらけのマーシュと目が合った。うえー、と思った。

 悪い気持ちは素直な私の顔にハッキリ出ていたらしく、目ざとくそれを見つけたマーシュが、いきなり自席を蹴っ飛ばして立ち上がった。

「おまえ!」

 マーシュがドスドスと床を踏む足音が、どんどん近づいてくる。隣の女の子が息を飲む。けれど私は、まるで他人事のようにぼうっとしていた。

 いつも白くてプルプルしている頬の肉が、今日は真っ赤に染ってブルブル震えていた。教室の真ん中で、ザカリーは半径2席分の友達と笑っている。

 頬に重い衝撃を受けて、視界がぐるんと回って倒れ込み、床にごちんと頭をぶつけた。

 クラスメイトの唖然とした顔が、星の軌道写真のように、北極星のマーシュを中心として色とりどりの残像を残し回転する。

「アンリ!」

 誰かが叫んだ。この思い切り真っ直ぐな声が、ザカリーだったらいいのにな。

 マーシュは赤。私はショッキングピンク。

 みんなカラフルで、おかしければいいのにと思った。全部を合わせたら黒になる。それはザカリーの色だった。

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