七日目 雨ふる火曜日(6)

 さよなら。


 そう思って目をつむった。


 死後の世界はどんな場所だろう。姉さんはとてもあいまいって言っていたから、〝世界〟という概念でなはないのかもしれない。現世に漂って、夢崎のことを見守ることはできるのだろうか。


 ……そんなことをいろいろ考えて気づく。


 なぜかなかなか意識が飛ばない。


 それどころか腹の痛みが治まっていく。


 目を開けると……夢崎が手の平を光らせながら俺の腹を押さえていた。


 それは夢崎の〝能力〟だと想像がついた。


 すごい。回復系の〝能力〟なのか、と安堵した瞬間、こぽっと、夢崎が口から血を吐いた。


 じわじわと夢崎の腹から血がにじみ出す。


 まるで俺とまったく同じ場所を刺されたかのように。


 嫌な予感がした。


「夢崎……お前……」

「大丈夫だよ。この傷は私がもらうから」


 血の気が引いた。


 傷を――もらう。


 夢崎の〝能力〟――それは、傷を、自分が引き受ける力。肩代わりする力。そういう自己犠牲的な力。もしそうだとしたら、ただでさえ血が少ないのに、血の気が引いた。


「やめろって! 俺は望んでいない! 姉さんも止めろって!」


 姉さんは顔を横に振る。


『私は見守るだけなんだよ』


 姉さんは悲しそうに俺たちを見つめ、夢崎からはどんどん血が流れていく。


 うそだろ。うそだろ。うそだろ。うそだろ。うそだろ。


 夢崎が死んで俺が生きる。


 そんなの生きている意味がない。


「やめろって夢崎!」


 この状況を破る方法はひとつだけあった。


 しかしその方法は取り返しがつかなくなる最悪の方法だった。


 それは、つまり――夢崎とのつながりを切る。


 この七日間でつくったつながりをすべて断ち切って、俺たちは他人となる。


 波に乗る夢崎。家庭事情を話す夢崎。どこかに行きたいと言った夢崎。夜空に目を輝かせた夢崎。寝顔の夢崎。パンケーキを食べる夢崎。バッティングセンターではしゃぐ夢崎。キレる演技で得意げな夢崎。あのね、あのね、とはしゃぐ夢崎。




 ――私と中本くんにも、その赤い糸っていうのが伸びているのかな。




 そう、はにかんだ夢崎。


 いろんな夢崎がフラッシュバックして目頭が熱くなった。いや、泣いていた。嗚咽が止まらなかった。こんなハードな人生の中で見つけた希望を手放せと言われているようだった。


 夢崎がいない人生なんて死んでいると同じだ。


 永遠に色づかない。じわじわと死ぬだけの生き地獄。


 それにまた戻れってことだよな。


「せめて一度くらいは当たりを引かせてくれよ」


 ずっとハズレを引き続けてようやく手にした当たりもハズレで。


 本当、くそみたいな人生だ。


 けど。それでも。俺は、夢崎を失いたくない。


 にじむ世界で俺は、夢崎とのつながりを、


『切れろ!』


 断ち切った。


 夢崎は俺の傷から手を離した。


 そしてその場で意識を失う。


 これで夢崎が俺の傷を引き受けることはやめたはずだ。


 すぐに病院につれていかないと……。


 あたまではそう理解していてからだを起こそうとした。


 しかし、涙が止まらない俺は地面を叩いて叫んでいた。


「……切りたくなかった」


 鼻の奥が熱い。拭っても、拭っても、涙があふれてくる。


 こうするしかなかった。夢崎が死なないために、天秤にかけて願ったことは……夢崎の生。


 生きてほしかった。


 たとえ、俺とのつながりが無くなったとして、俺は忘れない。


 俺は夢崎のことを絶対に忘れない。絶対にだ!


 あたまでは理解する。


 しかし自制を失った俺は地面を何度もたたき、あたまを打ち付け、絞り出すようにむせび泣いていた。


「なんでだよちくしょう」

『おめでとう和也。ちゃんと全員とつながりが切れたね』


 姉さんの声がした。


 俺の惨状を見て、おめでとうと声を掛けられるのだろうか。


 姉さんを見上げると、姉さんはやさしい表情をして俺を見ていた。


 雨は上がって雲から光が差し始める。


『和也は生き延びることができました』


 その言葉を残した姉さんは……からだを輝かせながら消えていく。


「え。待って。姉さん。姉さん! なんで消えるの」

『だって最後はちゃんと和也の記憶にある一夏姉さんの姿で挨拶したかった』


 最後は笑顔を向けようとしているのだろう。泣きそうな姉さんは俺のことばかり口にする。


『和也が母さんと喧嘩ばかりしていなくてよかった』

『和也がちゃんと学校に行けていてよかった』

『和也がちゃんと授業を受けているようでよかった』

『和也が三食ちゃんと食べているようでよかった』

『和也がちゃんと眠れているようでよかった』

『和也に好きな子ができたみたいでよかった』

『和也が死ななくて、本当によかった』

『和也が……』


 そして姉さんは急に自分のことを口にした。


『死んでごめん』


 小さい声で言う姉さん。姉さんは両手の手首で両目から流れる涙を拭っていく。


 再会して、何度も姉さんは俺にごめんねと言っていた。けど、死んでごめん、は初めて口にする。きっとこれが、この言葉が、姉さんは一番言いたかった言葉なんだろう。


『先に死んでごめん。家をあんなにしてごめんね。そばにいてあげられなくて、ごめん』

「姉さん!」


 きっとそうじゃない。


 俺は姉さんに抱きつく。今生の別れに添える言葉は、そうじゃない。


「俺は、また会えてよかった! 謝らなくていい。謝るようなことを姉さんはしていないから。なにも謝らなくていいんだよ」

『私も……会えてよかった』


 姉さんは泣いていた。


 俺に手を回して、質量のないひんやりとしたからだで、芯まであたたまるような力強いハグを俺にくれる。


『最後にだいじなことを言うね』


 夕日をバックに、姉さんは俺から距離をとって、涙を流しながら微笑む。


『和也がこの世界を憎んでいることも知ってる。この世界を嫌う理由も知ってる。ハズレだって思ってていい』


 ――それなら、と姉さんは続けた。


『与えられなかったこの世界に、生きて、とびきりの強い感情で――復讐して』


 そう俺に言い残した姉さんは、ぱんとはじけて光の粒子になった。


 まるでクラッカーがはじけるように。


 まるでフィナーレだった。光の粒子が俺の世界を満たす。


 つうと頬が濡れて、同時、自分がまた泣いていることに気がついた。


 思えば、だれかに生きてと願われることなんてなかった。


「薫子さんと……同じ言葉を使うんだな」


 つぶやくと胸が苦しくなった。


 姉さんが残した生への呪い。


 復讐――そんな強い言葉で、姉さんは俺に呪いをかけた。


 生きて、幸せを掴め。


 その生き方を、復讐という言葉で再定義した。強い、強い呪いだ。


 そんな呪いを受け取ると、だんだんと景色は夕日の色が視認できはじめていた。


 それと同時、何か俺から抜け落ちていく気がした。


 俺から〝能力〟が消えていく感覚があった。


 念じてすぐそこの草を切ろうとするが〝能力〟は発動しない。


 そして、母親、クラスメイトたち、どんどん関わった記憶があいまいになっていく。


 輪郭がなくなっていく、が表現として正しい。思い出せるがとても遠い記憶のように感じる。


 砂時計の砂が落ちていくように、いままでの人との関わりが、するすると落ちていく。


 いままでは〝能力〟があったから糸を切っても記憶や興味は維持できていた。


 しかし〝能力〟がなくなった今、切ったつながりに影響されるようになる。


 そういうことなのかもしれない。


 つまり、夢崎との記憶がはっきりしなくなる。


 その事実に気づいたとき、俺は倒れている夢崎へ手を伸ばしていた。


「姉さん聞こえてる? どんな代償だって払う、色なんか一生見えなくてもいい。七日の命と引き換えに、また〝能力〟が目覚めてもいい! だから、もし聞こえていたら、そばにいたら、この記憶がなくならないように、手伝ってください」


 藁にも縋る思いだった。


 姉さんに頼んでどうにかなる問題とも思わない。


 しかし、これだけは、これだけは、失いたくなかった。


 夢崎の手をつなぎ強く願う。


 どうか、どうか、このつながりは、弱くてもいい、か細くてもいい、少しだけでも残ってください。


 ふと、


『前を向いて。和也』


 姉さんの声が聞こえた気がした。


 色づく世界に目を移すと空はオレンジに彩られ海は深い青を映していた。世界のキャンパスには茜空と海のグラデーションで背景が彩られ、緑の草や白い花、薄紫と黄のだるま菊が額縁いっぱいに描かれる。


 きれいだった。


 この世界はこんなに色づいているんだって思い知る。それほどカラフルだった。


「なあ、夢崎……この景色見てみろよ」


 そんな言葉が自然と漏れた。


 その言葉を自覚したとき、切れていないものを知った。


 鼻の奥がツンとして、目頭から涙が次々と漏れ出ていた。


 にじむ世界の色相は境目があいまいで、白黒の世界から戻ったばかりの俺にはあまりにも鮮烈だった。さまざまな色が混ざり合うこの雨上がりは、まさに極彩色だった。

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