六日目 チョークの匂いと月曜日(2)
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それから浜辺で夢崎といったん別れた。夢崎は自宅でシャワーを浴びるという。
俺は浜辺で時間を潰し、登校時間になったころ学校に向かった。
『夢崎さん、和也と運命の赤い糸だって』
俺のあたまの上で鎮座する姉さんが茶化してくる。
「やめてくれよ。俺と夢崎じゃ、陰と陽というか」
『陰と陽?』
「クラスの陰キャとカーストトップだと釣り合わないってこと」
『ロミオとジュリエットだって立場の違いを乗り越えて愛しあったじゃない』
「最後にはふたりとも自殺したけどな」
姉さんは『たしかに陰キャだ』と笑う。
『立場とか、立ち位置とか、そういうのは自分たちが決める話なんだよ』
「俺たまに思うんだよね」
『どうしたの?』
「夢崎って人あたりがいいから俺に同情しているだけじゃないかって」
『それは絶対ないと思うよ。むしろ愛を感じるね』
「恋愛とか、そういうのする前に死んだくせに」
意図せず漏れた言葉に、姉さんは首元に来て、からだから伸ばした触覚をまわした。
質量のない触覚に首を絞める力なんて存在しない。
ひんやりと冷たい感触が強くなったから、きっとそうなんだろう。
『ごめん』
姉さんは短く言う。
「俺も、ごめん」
姉さんにそっと自分の手を添えた。
教室に入ると、なぜかクラス中から見られていた。
好奇の目というか、なんというか、にやにやと俺を見ている。
そのときだ。
窓辺のカーテンが揺れたとき、ふとチョークの匂いがした。
そのチョークの匂いに導かれるようにして黒板へ目が行く。
そして。
黒板を見てぞっとした。
やってしまったとか、どうしてだとか、そういう後悔が脳裏をよぎって、これから起こる最悪のケースを想像しては、首筋がこわばって、血の気が引いた。
黒板にはこう書かれていた。
【中本 →♡? 友里花 陰キャストーカー マジ怖】
「まじかよ」
そうつぶやいた瞬間、青木が俺のところにやってきた。
「中本さー、お前、友里花のこと狙ってるってマジ? キモいんだけど」
「そんな」
こめかみに血管を浮かべた青木は俺の胸元を思いっきり押してきた。俺は衝撃でよろめく。青木の取り巻きの清村がニヤニヤしながら言ってきた。
「浜辺で夢崎ちゃんをじっと見ていたって情報があんだよ」
「あとは、お前が友里花んちの近くで見かけたってやつも結構いるしよ。マジ、ストーカーやってんなら殺すぞ」
青木の顔は本気だった。本気でおキレになられている。
「俺が殺されるくらいなら」
――マシだな。
つぶやきかけて青木を見ると、青木はなにか気持ち悪いものを見るような顔をした。
「なに小声で言ってんだよ」
突き飛ばされて尻もちをついた。「まじダっせ」と清村が笑う。
黒板を見た瞬間、浮かんだ考えがある。
夢崎に飛び火させたらダメだ。絶対に。犠牲者は俺だけでいい。
俺と仲良くしているという誤解で夢崎も迫害の対象になる。それだけは絶対に避けたかった。夢崎だけは守らないと。
だから俺が悪者になって、夢崎は俺の犠牲者。そういう構図が理想だ。
友里花は俺のもんだろうがよ!
そんな感じで叫んでやろうか。うわっ、めちゃめちゃキモいな俺。
しかし、やるしかない、と意を決して立ち上がろうとすると、夢崎が教室に入ってきた。
「これ、どういう意味?」
夢崎はクラスの惨状を見て固まっている。黒板に、倒れ込む俺。クラスメイトたちは青木と清村に視線を集中させている。これでだいたいの察しはつくだろう。
「まず、私は中本くんをべつに陰キャとか思っていないよ」
クラスの中心で夢崎は宣言する。
やめろ。
俺を庇うんじゃねえ。
夢崎はダンダンと足音を鳴らしながら黒板へ向かい、乱暴に黒板消しで文字を消し始めた。
「こういうことは好きじゃないかな。ね? 青木くん」
にこっと振り返った夢崎に、青木は何も言えないでいた。
しんと静まり返った。
夢崎の逆鱗に触れたことを知り、気まずい空気がクラスに漂っていた。
そのときだ。
清村の方がニヤニヤ笑い出した。
「あっれ~それって夢崎ちゃんさ」
クラスがあえて触れなかった部分を清村が空気を読まず触れようとする。
それ以上は、言っちゃだめだ。
それ以上の言葉は……夢崎の立場を決定的なものにする。
どうする? 首でも撥ねるか?
いや、クラスを血の海にしてどうする。
クラスに口実を与えたらまずい。
それを俺は身をもって経験している。
「もしかして夢崎ちゃん」
やばい、マジ口を閉じろ。マジで空気読め。
クラスはだれかを攻撃したくてたまらない。それは落差があるほど盛り上がる。
きのうまで自分より上だった人間を攻撃できる。下と思っていた自分が上だと思える。そういう優越感がたまらない。それはもう狂気だ。その狂気が自分に向かないことを祈りながら心の奥底で第一歩をだれか踏み出してくれないか、そう願っている。ギロチンショーの時代から、切り捨て御免の時代から、民族虐殺の時代から、本質は何も変わらない。
共通の敵にみんなで石をぶつけるのが楽しくて仕方ないんだ。
俺と夢崎の仲を勘ぐられて、夢崎が俺と同じ立場に落ちたらマジで殺す。首を切って殺す。
だまれ。だまれ。だまれ。だまれ。だまれ。だまれ。だまれ。
殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。殺す。
憎悪と殺意がぐるぐると俺を支配する。
そのときだ。
糸が見えた。
清村を中心として、クラスの人たちに糸が伸びていた。
赤い糸がふわっと漂って清村へ伸びている。
俺はその糸を、
『切れろ』
すべて断ち切った。
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