五日目 長い日曜日(5)

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 そのまま警察は夢崎の家に俺たちを送り届けてくれた。


 俺は夢崎から借りていた夢崎(兄)の健康保険証を提示したため、俺は夢崎の兄ということになっていた。警察は夢崎の両親に軽く挨拶して帰っていく。


 俺はまわりの目を盗む形で、自分の家に向かった。


「帰るのだるいな……」


 母親を着信拒否していたから、母親の鬼電による着信履歴は残っていない。


 着信数が見えないからこそ、どれだけ荒れているか想像がつかない不安があった。


 もう寝ているかもしれないし、帰った瞬間、ものが飛んでくるかもしれない。


 感覚的には半々だった。


 そう思いながら、ガラガラと家のドアを開けた。


 電気はすべて落ちていて、家の中はしんとしていた。


 外から漏れる光だけに照らされた玄関でゆっくりと靴を脱ぎ、忍び足で家に入る。


 まっくらな廊下を進むがだれの気配もしない。


 寝ているか?


「ねえ――」


 姉さん、と呼ぼうとしたとき、ダン、と何かが倒れるような物音がした。


「…………」


 なんだ?


 大きな物音のあと、ギシギシと軋む音がしだす。


 そして、「ふん、ふん、ふー」と声にならない声がした。


 なにが起きている?


 ギシギシと軋む音が続いている。


 廊下を走って居間のふすまを開く……と、母親が首を吊っていた。


 欄間に掛けたロープに首をかけ、苦しさに耐えるように足をばたつかせていた。


「ふー、ふー!」


 外から入る弱い月の光が、死に近づく母を照らしている。


 そんな母さんを、スライムのからだをした姉さんは何をするでもなくただ見つめていた。


 あれ、このまま死ねば俺は楽になれるんじゃないだろうか。


 一瞬、そんなことがあたまをよぎった。


 けど、


『切れろ』


 母親の首にかかったロープを切るとドサッと母親は倒れてゲホゲホゲホとむせ返った。


「なんで首なんて吊ってんだよ!」


 大声を上げながら母親に近寄る。


「姉さんもなんで見ているだけなんだよ!」


 床で固まっているスライムに向かって声を上げると、そのスライムは声を震わせながら、『ごめんなさいごめんなさいごめんなさい』とまるで呪詛のようにぼそぼそと唱えていた。


 このまま死んでくれたらとも思うが、勝手に死ぬなんてとも思う。


 内蔵をかき回されたように、胸がつっかえ、吐き気がして、からだの芯が冷たい。


「和也」


 母親が俺の名を呼ぶ。


 それは俺を縛る声。


「どこ行っていたの、和也」

「どこって友達と」


 俺の前に立ち上がる。母親の腹のところの洋服に血がにじんでいるように見えた。


「どこ行ってたのって、聞いてるのよ!」

「ちょっと痛い。離してよ!」


 俺の肩を掴んで激しく揺らす母親。


「どこどこ、どこに、どこまで、どこ」

『かあさんね。和也を探していたの。警察はだめだからって、外を走っておじいちゃんにも相談して探していたの。けど見つからないから……さいしょはお腹を刺したんだけどね。自分じゃ死ねないって』

「あんたまで死んだら、もうダメなんだよ……」


 そう母親はつぶやいたかと思ったら、俺を押しのけて台所に走って行く。


 そして戻ってきたかと思ったら、手にしていたのは包丁だった。


『おかあさん!』


 姉さんの悲鳴が聞こえる。母親には届かないだろう。


 白黒の世界で、包丁が照返す光が、妙に光って見える。


 母親の目はマジだった。目を見開いて、包丁を両手で握って、ふう、ふう、と呼吸を荒くしている。


「約束して! どこにも行かないって!」

「どこにも行かないよ」

「学校もよ!」

「いや、さすがに学校は」

「なんでいうことを聞かないの!」


 母親は俺に向かって包丁を突き出してきた。


 それを間一髪のところで避ける。


 母親の腹にためらい傷を残した包丁だ。刺さったらただじゃすまないだろう。


『おかあさんやめてよ!』


 顔をぐちゃぐちゃにして泣く姉さん。スライムのからだで母親に体当たりしても母親を止めることなんてできない。


 じりじりと後ずさりして、気がつけば壁際まで追い詰められていた。


 ここまで母親を追い詰めたこと……それは姉さんの死。


 そして、姉さんはなぜ死んだのか、真相がわかないことも起因している。


「姉さん! せめて、あの日なにが起きたのか教えてよ!」

『言えないんだよ』

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ!」

『                               』


 姉さんは飛び跳ねながら叫んでいる。しかし姉さんの口からは何の音も発せられない。まるで口パクしているみたいだ。


『だから私じゃ言えないんだって!』

「一夏がいなくなって、あんたまで失ったら私はどうしたらいいの!」


 ――痛ッ!


 母親の突き出した包丁がついに俺の横腹の薄皮を割く。


 言っていることとやっていることが支離滅裂だ。


 まずいまずいまずい! このままだと殺される。


 殺される前に殺すか? それとも包丁を握る手を切断するか。


 超高速であたまが回転し、〝能力〟による回避を考えていたときだった。


「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 母親が突進してきたのだ。


 ドンと背中を壁に打ち付けた。母親の両手を掴み、突き出してくる包丁の押し合いをする。


 マジヤバい。マジヤバい。


 本当に殺す気だ、この人。


 姉さんが号泣しながら叫んでいる。ただ母親には届かない。


 ダメだ。


 本当にもうダメだ。


 もう、〝能力〟を使って、殺すしかない。


 ついに人を殺めると腹を決めたそのときだった。




 糸が見えた。




 モノクロームの世界で、鮮烈に赤い糸が、俺の胸のところからすっと伸び、空中を漂って、母親の胸に伸びている。


 なんだろうかこの糸は。


 もしかするとこれが。


 俺は母親を蹴ってはねのける。


 もしかするとこれが、〝能力〟の力?


 これが隠された力なのか!?


「なんで蹴るの!」


 一縷の望みを持って、俺はその赤い糸を、


『切れろ』


 〝能力〟を使って切った。


 糸はスパンと切れた。


 すると母親は、その場でそれこそ糸の切れた人形のように倒れ込み、意識を失った。


「母さん!?」


 駆け寄って呼吸を確認する。


 ……息はあった。


『糸が見えたの?』


 スライムの姉さんが俺をみてくる。首肯すると、姉さんは『和也』と俺をじっと見てきた。


 姉さんと母親との間にも、赤い糸がすっと伸びていた。


 切れというアイコンタクトだろうか。


 俺は、『切れろ』と念じ、その糸も断ち切る。


 すると姉さんは、


『ありがとう』


 ありがとう、何度もそう言って、ぼろぼろと泣き始めた。


 なんで泣いているの? そう聞いても姉さんはわんわんと泣くだけだった。


 きっとこれも、話せないのだろう。

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