二日目 潮の香りと木曜日(4)

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 祖父から焼き魚を受け取って帰宅する。きょうは甘鯛だった。


 夕日は灰色に世界を染めていて、ゆっくりと世界を夜にする。


 帰ると、母親は姉さんの写真の前で熱心に手を合わせていた。電気もつけず、テレビだけついた部屋で、まるで熱心な宗教家のように姉さんの写真を拝んでいた。耳が遠いのか、母親はテレビの音量をすごく大きくする。


 母親のうしろにスライムがいた。俺の母親をモンスターらしく襲うことはせず、じっと母親のそばで見つめていた。アホっぽいにやけ口のスライムだが、心なしか母親を心配しているような表情に見えた。


「ただいま」


 ひとりと一匹に声をかける。


 母親は振り返らない。かわりに泣きそうな顔したスライムがなにも言わないまま、俺の腹に突進してきた。とっさのことで俺は突進してきたスライムを腹のところで抱える。


「冷たっ」

『ごめんね』


 スライムが姉さんの声を出す。


 このスライムが姉さんだとして、この「ごめんね」は、冷たくてごめんなさいという意味か、私が死んだせいで家がこんなふうになってごめんという意味か、どちらなんだろう。このスライムが本当に姉さんだとしたら、たぶん後者の意味なんだろう。


 質量のないスライムを抱えたまま、俺は自分の部屋に向かった。部屋のドアを閉め、スライムをベッドに乗せて距離を取る。


「念のために確認するけど、君は姉さんなの?」

『え。見えない?』

「全然」

『じゃあ、なんに見えるの?』

「スライム」

『スライムか~』


 スライムは顔の横からからだの一部を手のように伸ばし目を覆った。


『こっちじゃあそう見えるんだな』


 ひとりごちるスライムである。


「なにか、姉さんである証明をしてよ」

『証明?』

「ふたりしか知らない話とかでもいいから」

『和也が十歳になるまで私といっしょにお風呂入っていたとか』

「九歳だし」

『私の好物は?』

「あじフライ」

『正解!』

「なんで俺が答える側になってるんだよ」

『まあ、そんな話はいらないよ』


 そう口にしたスライムはピカッと光った。すると、俺の知っている姉さんの姿になっていく。


 姉さんだった。死んだはずの中本一夏、その姉さんがいた。腕には犬にやられた傷があって、目が大きくてキリッとした眉で、にぱあと笑ってくれる。


「姉さん?」

『ちょっと、これ無理かも……すぐ飛ばされる』


 姉さんの姿からすぐスライムの形に戻る姉さん。


 姉さんの話によると、スライムの形をしているわけではなく、あえて魂を形作るなら、あのフォルムになるそうだ。姉さんいわく、魂を視認しやすいようにスライム型に見ているのは俺の方で、人型になるには俺の意識に干渉するとかしないとか。ようは人型になることもできるらしいけど、スライム型の方が安定しているらしい。安定しないと別座標に飛ばされてしまうそうだ。姉さんの話は半分以上よくわからない話だった。便宜上姉さんの魂をスライムと呼ぶこととする。


「ちなみに姉さんって俺にしか見えないの?」


 確信があった。もしスライム型姉さんが俺以外にも見えているなら、母親は発狂しているはずだ。


『そう言うと語弊があるかな』


 姉さんはベッドから床に降りてきて、俺を見つめた。俺はつられて正座した。ちいさいころから、ふたりで真剣な話をするときはふたりで正座をしあったのだ。


『私のような存在は、螟ὗ⌧オ の影響を受ける人しか認知できない』


 姉さんの言葉に理解できない音が混じる。首を傾げると、姉さんは再びその音を発音した。


『 螟ὗ⌧オ 』

「ごめん、わからない」

『そうだよね。なんて言うのかな……⌕セ荳 で言うところの、敗者復活というか。こっちじゃ〝能力〟っていうのかな』

「彩失症候群って都市伝説になっているよ」

『彩失症候群? へー。はじめて聞いた。言い得て妙だね』


 姉さんは感心したような声を出した。言い得て妙なところは理解できなかったが話を進める。


「つまり、〝能力〟が使える人間に姉さんは見えるってこと?」

『まあ、そう言った方が近いかも』


 生前、歯に衣着せない物言いだった姉さんがこんなにはっきりしない話し方をする姿ははじめてだった。


「姉さんは死神なの?」

『え?』

「俺の命を奪いに来たというか」

『違うよ。私は ≵懷勧⌘ 』


 また理解できない音を発する姉さん。


『 ≵懷勧⌘ 』

「ごめん、わからない」

『……そうだよね。なんていうのかな』

「それは、なんの言葉なの? 幽霊語?」

『私、幽霊じゃないよ、 ≵懷勧⌘ なだけ』

「姉さん、少し明るくなった?」

『和也こそ大きくなったね。もう高校一年? 私、追いつかれちゃった』

「まあ、あれから四年だからね。そっちでも楽しく暮らしている?」

『そっちって?』

「なんというか、死後の世界?」

『なんで天国って言ってくれないのよ』


 姉さんが少しむくれる。スライムが頬を膨らませてひとまわり大きくなる。


「やっぱり姉さん、死んでるんだ」


 思わずそんな言葉が口から漏れた。


 それは、どこかでまだ生きていることを願う言葉だ。


 姉さんは見つかっていないだけで、どこかでのほほんと暮らしている。


 そうあってくれと、心の奥底で願う俺がいた。


 しかし、現実は残酷だった。


『ごめんね』


 とだけ言って、姉さんは困ったように微笑む。


「いや、謝られても」


 なんて答えていいかわからなくなった。


「そういえば姉さん、聞いていい?」

『ん?』

「姉さんは、どうして海で溺れたの? じいちゃん呼びにいっただけなのに」


 これを知れば、少しはあの母親がまともになるかもしれない。


 そう思った。


 しかし、


『話せない』


 とぴしゃり。


『そういうルールなんだよ』


 と姉さんは悲しそうな顔をした。


 じゃあ本題に入ろうと、姉さんは俺をまっすぐ見て、話し始めた。なるべく俺にわかるよう、あっちの言葉を使わず説明してくれた。


 要約すると、姉さんは死後の世界から俺を探してやってきたらしい。死後の世界は時間軸も座標軸も概念が違い、なかなか俺を探せなかったと言っていた。幸運だったとも言っていたし、私だからたどり着けたとも言っていた。たぶん家の外に出ると、また迷うと説明してくれたけど、どこか要領を得ない。


「姉さんは、なにをしに来たの?」

『こっちの言葉で言うなら、私は〝見届人〟。本当は替わってあげたいけど、和也が〝能力〟をどう使うのか、私にできるのは見届けるだけ』


 俺が〝能力〟をどう使うのか、見届けて、帰るだけ。見届けなくてもいいし、見届けてもいい。そんな曖昧な役割らしい。だれからの任命なのか聞いてみたところ、概念すら理解ができなかった。


『言うとね、和也』

「ん?」

『和也は、あと六日で死ぬ。これは私の口から言える』

「この七日ってどういう意味なのさ」

『意味とは?』

「なにか意味があるんじゃないの? 七日間で区切られている意味とか」

『意味とかないよ。一週間が月火水木金土日と七日で区切られているくらい意味がない』

「じゃあ、なにか使命とか」

『ルールはあるけど、使命とかない。そういうものだよ』

「姉さんは俺が死なないように助けに来てくれたの?」

『いや』


 姉さんは言い切った。


『私は見届けるだけ』

「見届ける? 監視して、神とやらに報告でもするの?」


 姉さんは首を横に振る。


『神様とかいないよ。ただ、行きたかったら行ってもいいけど、たどり着けるかわからないよ、ここにいないと輪廻に戻れないけどご自由に、そう言われただけ』

「言われたってだれにさ」

『んーん。だれかに言われたって感じじゃないんだよね。言われたというか、知っているというか。なんて言えばいいんだろ』

「つまり姉さんは自分の意思で俺のところに来たってこと?」

『んー。そんな感じ』

「曖昧だな」

『そうだよ。死んだらわかるけど、世界ってすごく曖昧。だから、意志がいる』

「経験者は語るってやつですか」

『こっちくる?』

「かあさんがいるから、俺まで死ねないよ」


 突然、家の中から金切り声が聞こえてきた。

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