二日目 潮の香りと木曜日(2)

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「ありえない」


 朝、目を覚ますと、スライムがいた。


 しかもそのスライムは死んだはずの姉だと言う。


 そのスライムに乗られても重みがなかった。触れるとひんやりして、まるで氷を触っているような感覚だった。目の前の光景が信じられなくて、なにか話しかけてくるスライムを無視して、逃げるように家を出た。


 走ったから、まだ心臓がばくばく鳴っている。


 汗も尋常じゃない。手の甲やシャツでいくら拭っても汗が出てくる。


 ひとり、海にいた。


 ざあざあと波の音といっしょに冷たい風が吹いた。幾分かからだを冷やしてくれた。


「あれは……幽霊なのだろうか」


 姉さんだと言い張るあのスライムはなんだろうか。たとえばあの形の幽霊だとして、よくある火の玉のような球体状の霊体だったりするのだろうか……いや、ないな。飛躍しすぎだ。


 それにしてもスライムって……なんなんだ。


「あれが姉さんか」


 ある日、突然死んだ姉さん。それから家族はぐちゃぐちゃになった。恨まない気持ちがゼロかとそう聞かれると自信がない。しかし、あれが姉さんなのなら、あのにやけた表情は少し腹立たしい。腹立たしいけど……やっぱり会えてうれしいという気持ちもある。プラスの感情とマイナスの感情。そのふたつが同居して、自分の気持ちがわからなくなる。


「……ちくしょう」


 石を取って海に投げる。ぽちゃんとグレーの水しぶきを立てて石は沈んでいった。


 俺は今、家と高校の中間地点にある浜辺で、小石を探しては海に投げ入れていた。こういう考えがまとまらないときにやる手癖みたいなやつ……なんて言うんだっけ。思い出せない。


 島ではどこに行っても海にたどり着く。島といっても、本土と二キロほどの橋に繋がれたちいさな島。孤島のような島ではない。


 目の前では波が寄せては返していて、波の音がして、潮の香りがする。


 モノクロームの海は真っ黒でまるで重油のようだった。重そうで、奥に行くほどキラキラと光っている。光る水面をぶううと音を立てながら近づいてくるものがあった。


 それはサーフボードに乗る人の姿……夢崎だ。


 夢崎はサーフボードでターンをしないし、ジャンプもしなかった。ただただサーフボードに乗って海面を回遊しているだけのように見える。


 何をやってんだ?


 そう思って見ていると、夢崎が俺に気づいて手をふってきた。


 モーターの推進力だろうか、落ちついた水面をそのままボードに乗ってこちらにやってくる。


「おはよう、中本くん」

「おはよう。どうしたの、こんな朝早く」

「んー? 探しもの? かな」

「なんだよそりゃ」


 夢崎は両肩の出たウエットスーツを着ていて、ボディーラインがはっきりと見えた。


 見過ぎてもまずいと思って目をそらす。


 そんな俺の心情を察したのか、夢崎はいじわるそうに笑った。


「目をそらしてどうしたの?」

「いや、なんでもない」

「中本くんって、こういうの恥ずかしがるんだ」

「こういうのってなんだよ」

「じつはこのウエットスーツ少しちいさいんだよ。いつもよりスタイル良く見えるでしょ」


 夢崎は腰に手を添えポージングする。どちらかというと痩せ型の夢崎に、スタイル良くと言われても、どう返答するのがいいのか返答に困る。そもそも見ることすら気恥ずかしい。


 さすがクラスの人気者だ。こんな話題をさらっと放り込んでくるとは。俺はどう対処していいのかわからず、脳がフリーズしてしまう。だから夢崎が持つ見慣れぬサーフボードに話題を移すことにした。


「それは?」

「これ? パワーサーフ」


 フィンのところになにやら噴出口のようなものがあった。


「パワーサーフ?」

「うん。パワーサーフ。知らない?」

「知らないけど、まあ、知らないままでもいいかな」

「え~、自慢させてよパワーサーフ」

「じゃあ一応、教えてもらっていい?」

「どうしよっかな~」

「……気になるから教えてください」

「なにその棒読み」


 夢崎があははと笑うと、水滴が舞って、俺の頬についた。ふっと潮の香りがして夢崎が笑うと青い海を思い出した。すでに記憶の中にしかない青い海。


「あのね、ここの入水口から海水を排出してね」


 まあ見ての通り、推進力を得たサーフボードらしい。高校進学に合わせて買ってもらったと上機嫌な声を出している。


「なにがいいって、自分でパドリングしなくていいから、めっちゃ楽なんだよ! ぜんぜん疲れないから永遠に乗れるっていうか。波がなくても水面をすいーっていけてね」


 自分の好きなことを熱弁する夢崎である。俺の合いの手なしに、次々に語っていく。俺の視線に気づいたのか、固まって、次第にバツの悪そうな表情をする。


「なに?」

「いや」

「いいから」


 色が見えていたら、赤面しているのだろうか。色味がわからないけど、夢崎はどう見ても動揺していた。


「夢崎って、そんな楽しそうに話すんだな」

「えー、クラスでも友達と楽しく話しているよ?」

「夢崎って、知り合い止まりにするタイプかと思った。距離を置いて、深入りしない」


 どこか、夢崎は俺に似ている部分があると思っていた。


 俺と同じ、他人と線を引くタイプと思っていた。


 しかしパワーサーフを語る夢崎は、なんというか、新鮮だった。


 好きなものを持つと、人間は変われるのだろうか。


「少しだけ、うらやましいな」


 思わず口がすべってしまった。珍しく思ったことが口から漏れてしまったのだ。


 夢崎に感化されてしまったのかもしれない。


 夢崎は少し目を見開き、やさしく微笑んでから、「そんなことないよ」と口にする。


 どうにもその言葉は信じられなくて、俺は適当に相づちを打った。


「そういえば、中本くんはなにしているの?」


 その問いに、ふっと我に返る。


 姉さんと言い張るスライムがいたこと。慌てふためいて、ここまで走ってきたこと。


「夢崎さ、もう会えないって人が目の前に現れたらどうする?」


 思わず聞いていた。聞いて、しまったと思う。なに聞いているんだって。


 すると夢崎はきょとんとして応えた。


「そんなの、うれしいに決まってるじゃん」


 シンプルに、心のままを口にしたのだろう。


「そんな、単純な話じゃ」


 ――ないんだよ。


 そう言おうとしてやめる。もしかすると夢崎の言うとおりでいいのかもしれない。シンプルな話なのかもしれない。


 そう思うと、すっと心が軽くなった。


「ありがとう」


 一応感謝すると、「?」と夢崎から不思議な顔をされた。




 ――〝能力〟が使えるようになった人間は、七日で死んじゃうんだって。




 夢崎がうわさについて語っていたときを思い出した。


「ねえ」


 自分の方からうわさの話をして、夢崎に能力のことを勘ぐられることが嫌だった。しかし、今朝の姉さんのことが気になった。


「〝能力〟が使えるようになったら七日で死ぬってうわさ。それってさ、能力に目覚めたら幽霊が見えるとかあるの?」

「幽霊?」

「そう。もしくはスライム」


 スライムう? と夢崎は小首を傾げる。スライムって雑魚モンスターの? と夢崎が聞いてきたので首肯した。


「そんなことは聞いたことないよ」

「そっか」

「スライム、見たの?」


 俺の荒唐無稽な虚言とでもとったのか夢崎は俺をいじるようにニヤニヤしていた。ほら、こうなるから嫌だった。


「見るわけないだろ」

「えーいいじゃん。私はまだ疑っているよ? 中本くんが〝能力〟に目覚めた説」

「天動説といっしょに反証されたよ、そんな説」

「あはは、中本くんも面白いこと言うんだ」


 なんだろう。俺、冗談のひとつも言わないキャラなんだろうか。


 そうそう、と夢崎は笑い涙を拭きながら口にした。


 急な言葉に心の準備ができていなかった。


 ざばんと波がひときわ大きな音を立てた。


「けど、死神に遭うって聞いたことはあるよ」

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