二日目 潮の香りと木曜日(1)

 俺が小学校に上がったばかりのころ、近所の犬が脱走した。気性が荒いから気をつけろと大人たちが島を上げて捜索していて、俺は運悪く、その犬に襲われてしまった。


 自分より大きい雑種の犬。


 足がすくみ逃げられずにいた俺に、犬は目をむいて吠え、牙を剥く。


 そして、その犬は、いよいよ俺にかみつこうとした、そのときだった。


 姉さんが、俺と犬とのあいだに入ってきた。


『姉さん!』


 犬が姉さんの腕に噛みついて、首を左右に激しく振る。焦った俺は無我夢中で犬の横腹を蹴り上げると、犬は口を離して逃げていった。


 姉さんの腕からは血がぽたぽたと滴っていた。


『大丈夫、姉さん!』

『和也に助けられちゃったねえ』


 姉さんは、困ったように眉間を寄せ、口をいっぱいに広げにぱっと笑っていた。




 なぜだろう。姉さんの夢を見た。


 犬から俺を助けてくれた姉さん。あれから姉さんの腕には傷跡が残っていた。


 困っていたら間に入らないと気が済まない、お人好しの姉さん。


 そんな姉さんは、俺が数日後に死ぬと聞いたら、どうするんだろう。


 そんなことを考えながら薄目を開けると、カーテンの隙間から朝日が漏れていた。時計が示すは朝六時。二度寝をしようと夏布団にくるまると妙な寒気がした。風邪のひきはじめのような嫌な寒気だ。この寒気に心当たりがあった。きのうは九月にしては冷えたのだ。だんだん夏から秋に変わっていくのだろう。どこか窓が開いているのだろうか。


 布団から顔を出して寒気の正体を探す。と、布団の上にスライムがいた。


「うわッ!」


 思わず声が漏れた。


 スライムがいた。スライム……スライム!?


 二度見。二度見した。


 ゲームとか漫画で出てくるみんな大好きマスコットキャラクター、そのスライムである。


 つぶらな瞳と締まりのない口元。スライムはだらしなく笑っている。ちなみにあたまは尖っていないようだ。


 そうか夢か。夢だよな。


 わけがわからない。


 ふたたび目をつむり夏布団に潜る。妙な寒気はとれなくて、手足をこすりながら暖をとる。


『和也?』


 急に姉さんの声がした。


 心臓が止まりそうだった。


 スライムが見えて、姉さんの声が聞こえて。


 生きているはずのない姉さん。


 布団の中にも関わらず、冷気に包まれたような感覚がする。


 幻聴なのだろうか。スライムも幻覚なのだろうか。


 スライム……スライムだったよな。


 本当にわけがわからない。混乱する。


『無視しないでよ。ようやく和也のところまで飛べたんだから』


 やっぱり姉さんの声だ。この声で「和也」なんて俺を呼ぶ声の主は姉さんしかいないわけで。おそるおそる顔を出す……と、布団の上にいるスライムは、ぽよんぽよんと布団の上で俺を起こそうと飛び跳ねている。ふしぎなことにそのスライムには質量がなく、ぽよんぽよんと飛び跳ねても俺に衝撃が届くことはなかった。ただただスライムが起きて、起きてと駄々をこねているように見える。


『あ、ようやく出てきた。和也、おはよう』


 にぱあと笑ったスライムの笑顔は、俺の姉さん――中本一夏の笑顔にどこか似ていた。

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