一日目 モノクロームな水曜日(5)

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 海沿いの道を歩いて帰路につく。道の両サイドには木や雑草が生い茂っているような田舎道である。だるま菊と呼ばれるこのあたりにしか咲かない菊がそろそろ咲きそうだった。


 日のあるうちに外を歩くと、基本的に近所の大人と遭遇する。「こんばんは」とか「魚、持っていく?」とか聞かれるけど、「じいちゃんにもらうから」と言うと、気まずそうな顔をされる。他人に家庭環境が筒抜けな証拠だ。


 途中、「つのしま食堂」という食堂に立ち寄った。外観はボロボロの海の家のような風貌で、店先では干しイカを作る装置でたくさんのイカをくるくると回していた。遠心力で広がるイカたちはまるで傘のようにも見えた。


 祖父の店だ。


 家族でもよく通った店だった。父親と母親と姉さんでこの店に来て、「自分で作れよ」と祖父から悪態をつかれながら家族で祖父の料理を囲んだ。親たちは酒を飲んで、姉さんと俺は好きな物を好きなだけ食べさせてもらう。そういえば姉さんとはあじフライには醤油かソースか、どっちをかけるかで喧嘩したこともある。俺は醤油だって言っているのに、「まあまあ、おいしいから」とソースを勝手にかける姉さんだった。怒る俺を見て、ゲラゲラと笑う姉さんだった。


 そんな姉さんは、もう、いない。


 古ぼけた暖簾をくぐり、祖父に声をかける。


「もらいにきたよ」

「おう、和也」


 板場で魚をさばいている祖父は俺を一瞥して、また魚の方へ目線を落とした。


 祖父は漁師だった。祖母が他界してからは漁師を引退して、もともと夫婦で切り盛りしていた食堂をひとりで続けている。ザ・海の男のように日焼けして顔には深い皺がある。


「京子は元気か?」

「心配なら見にくればいいのに」


 会いにくる、ではなく、見にくる。意識的にその言葉を選んだ。


「そこまで気になっているわけじゃない」


 平然とうそをつく祖父は、「ふたり分」とふたりで食べるには多すぎる刺身の盛り合わせを俺に託した。


 母親が料理することができないので、俺は毎日こうして祖父に料理をもらいにきている。俺が祖父から配給を受け、米を炊いて、母親と食べる。我が家はもう何年もそういうサイクルになっている。


 舟盛りを渡すとき、祖父は「悪いな」とつぶやいた。母親を押しつけて悪いな、という意味だろうか。そうなら心底腹がたつ。わかっているなら替わってくれ。口にしてやりたかった。


 刺身の舟盛りを持って歩いて帰宅。さすがに舟盛りを持って歩くことは恥ずかしかった。


「ただいま」


 返事はない。


「かあさん?」


 舟盛りを冷蔵庫にしまって母親を呼ぶ。やはり返事がなかった。


 居間に行って様子をうかがうと、母親はぼーっとして洗濯物を畳んでいた。


 テレビが大音量で流れていて、見てもいないだろうから、チャンネルを手にして消した。


「夕飯にしよっか」


 食卓に料理を並べ、居間へ母親を呼びに行った。


 母親は洗濯物を畳みながらまだ呆けている。


「かあさん。夕飯」


 声をかけても反応がない。死んでいるんじゃないかって、肩を揺さぶった。


「かあさん?」

「ああ、ああ。和也」

「夕飯にしようか。きょうはじいちゃんがくれた刺身だよ」


 ようやくうつつに戻ってきた母親は立ち上がろうとする。が、上手く立てないようだった。


「手を貸してちょうだい」


 うしろから脇の下に腕を回して、せーの、とタイミングをとって立ち上がらせる。


 ずっしりと重く、まるで砂袋を持ち上げるような感覚だった。


 一発で立ち上がらせることができなくて、俺まで尻餅をついた。尾てい骨が折れたかと思った。


 食卓につくと母親は刺身の盛り合わせから端切れをもそもそと食べ始めた。昔から端切れとか、形が崩れたものとか、そういうものばかりを食べようとする。病んでボケても母親としての習性なんだろう。


「ああ」


 母親はうなり声を出して食器棚から小皿を取り出して、刺身を三切れほど取り分けて、居間に戻った。居間には姉さんの写真があった。写真の中の姉さんは、目が大きくてキリッとした表情をしていた。あたまがよくて、闊達で、にぱっと笑う、島の人気者。人気者で、人のことがほっとけない人だった。


 その姉さんは死んでいる。死んだことになっている。


 母親は仏壇代わりの姉さんの写真に刺身を供え、その場で座り込む。


「一夏、あんた刺身が好きだったわね」


 違う。姉さんはあじフライが好きだった。


 姉さんの好物さえ忘れた母親は、写真をじっと見て語りかける。そして次第に嗚咽が聞こえはじめた。懺悔のための嗚咽。そこに自己陶酔がどれほど入っているかわからない。知りたくもない。


 あーあ、こうなったら長い、と俺は先に食べてしまおうとひとりで食卓に戻った。


 俺には姉さんがいた。四つ歳上の姉さんだ。俺とは似ても似つかぬ愛らしい姉さんだった。


 その姉さんは四年前に死んだ。


 ある日、姉さんは母親のお使いで祖父を呼びに行った。そして、そのまま帰ってこなかった。


 祖父が帰っても帰宅しない姉さんを近隣で手分けして探した。しかし、見つかったものは海に浮かんだ靴だけ。海の中を探しても、遺体は見つからなかった。


 そして姉さんは水難に遭ったのだろうと、そういう結論になった。


 泳ぎが得意な姉さんだった。姉さんが溺れたと聞いて、なにかの間違いだろうと思った。


 けど、現実は変わらなかった。ただただ、姉さんにはもう会えない。


 姉さんは死んだことになった。


 俺は死んだときの姉さんと同い年になってしまった。


 それからというもの、母親は情緒不安定になり、父親は耐えかねて家を出た。


 もう祖父の店で食卓を囲んだ家族はない。


 残されたのは、情緒不安定な母親とそれを押しつけられた俺だけ。


 なぜ俺はこんなドきついハズレを掴まされてしまったのか。


 姉さんが生きていれば……そう思ったことがないと言えばうそになる。もう、さすがに姉さんが生きているとは思っていないが、死体が見つからなかったから、一応、葬式はしていなかった。葬式をしていないから仏壇もない。家にあるものは笑った姉さんの写真のみ。その写真の前に小皿に乗った刺身が供えられている。


 母親はその写真の前でぶつぶつ言っている。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 姉さんがなぜ海に入って溺れたのかはわかっていない。警察も事故だと処理した。


 死んだ理由がわからない以上、母親は自分のせいだと思い込んで、自責の念に毎日押しつぶされている。思い込むのは勝手だが、心まで壊れちゃ、こっちはいい迷惑だ。


「私のせい……だよね、ごめんなさい」


 ああなると長いから、俺は半分も食べられていない刺身をタッパーに入れて醤油に浸した。醤油漬けなら数日はもつ。


 やはり世界は白黒で、白黒の刺身は消しゴムみたいな味だった。


「刺身、冷蔵庫のタッパーに入ってるから」


 母親に伝え、二階に上がる。ちらっと見た母親は、額を畳にこすりつけるように丸まって、ずっと姉さんに謝っていた。


 部屋に入って、ベッドに倒れ込む。


「俺まで死んだら、ヤバいよな……」


 きっと母親は耐えられない。きっと自ら命を絶つだろう。


 夢崎の言葉を思い出す。




 ――〝能力〟が使えるようになった人間は、七日で死んじゃうんだって。




 うわさが正しいとなると、俺の寿命はあと七日。いま夜だから、実質あと六日と少し。 

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