ユーゲントシュティール

多田いづみ

ユーゲントシュティール

 夜中にふと目がさめる、最近そういうことが多い。眠りはどちらかといえば深い方だったのにどうしてこうなったのか、あまりまじめに考えたことはなかった。というのも、昼に寝不足でうとうとすることもなかったし、たとえ目がさめてもたいていの場合、それほど時間をかけずにまた眠りに戻ることができたからだ。

 でも今夜に限っては、いつもと様子がちがった。妙に頭が冴えてしまって、かんたんには眠りにつけそうになかった。


 まだ夜が明けていないので、部屋のなかは薄暗かった。目の前には、ぼんやりと彼女の丸まった背中が見える。背中はじんわりと熱を発していた。朝方近い部屋の空気はひんやりとしていて、深く息をすると肺には霜が降りそうだった。


 こうして真横にいても、彼女の寝息はきこえないくらい静かだった。ぼくは彼女の丸い背中を見つめながらなんとか眠りにつこうとしたけれど、頭はますます冴えるばかりだった。

 こうなってしまってはもう仕方がない。台所に行ってなにか温かいものでも作ろうと、ベッドのわきに置いた照明のスイッチを入れようとしたとき、


「ユーゲントシュティール」


 とつぜん彼女がそうつぶやいた。

 ぼくが驚いたのは、つぶやいたことに対してではない。以前から彼女はおそろしく鮮明な寝言を言うことがあった。あんまりはっきりとしゃべるものだから寝ているのに気がつかずに、しばらく会話のようなやりとりをしたこともあったくらいだ。


 でも、ユーゲントシュティールだって?

 間違って自分のように西洋美術史など履修しなければ、それはめったに耳にすることのない言葉だ。彼女が近代美術に興味を持っているなんてことは、ぼくの知るかぎりないはずだった。


 たまたま彼女の買っている雑誌や、見ている情報番組に出てきたのだろうか? あるいは意味不明な寝言を、自分の聞きおぼえのある言葉に置きかえてしまった、ただそれだけのことかもしれなかった。


 まあ、あまり気にしても仕方がない。どのみち世界は謎だらけなのだ。

 そのあとしばらく、第二次大戦で失われた絵画について――とりわけクリムトの幻想的な三つの天井画についてあれこれ考えていると、頭の奥から柔らかくて温かいものがやってくるのを感じた。それは眠りに戻るのに大切な何かに違いなかった。


 姿勢をかえて彼女の背中にぴったりと体を寄せる。石けんと汗の入りまじった髪の匂いがして、それに引きよせられるように、ぼくは夢のなかに潜り込んでいった。

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