第42話 その嘘こそが

 柔らかな手に額を撫でられている感覚で、柏木は目を覚ました。温かい布団と清潔なシーツの匂い。瞼を開ける前に、帰ってきたのだと気が付いた。ふにふにと額を小さな手が押す。くすぐったくて、ゆっくりと目を開いた。

「おはようございます」

 思っていたよりずっと近くにサメの顔があって、少しだけ驚く。

「人殺しにそんな風に触ってていいの?」

 問いかけはただの強がりだった。嘘はきっともう全部バレていて、解かれた事実はきっと多くの傷をつけただろう。

「次、そういう事言ったら、グーパンチですから」

 そう言ってサメは柏木の額をぐにぐにと押した。痛みはない。優しいだけの触れ合いだった。手放したはずの優しさがまだ手の中にあることが嬉しくて。嬉しいと感じる醜さが心臓に突き刺さるように痛かった。

「サメは怒ってるんですから」

 腕を組んだサメがベッドの端に上って柏木を見下ろす。いつの間にそんな風に高くジャンプできるようになったんだろう。

「怒ってるんですよ、柏木さん」

 言葉ではそう言いながら、柏木の頬を撫でる手は優しかった。

「嘘ばっかりで」

 ぬいぐるみの手で器用に頬を摘ままれる。今度は少しだけ痛かった。

「自分勝手で」

 両頬を摘ままれて、さぞ可笑しな顔になっているだろうな、と思う。

「ぜんっぜん、自分のこと大事にしないから」

 大事にする価値なんてどこにも無いと言おうとして、でも、サメの言葉の方が早かった。

「サメだけじゃないです。航平くんも、つづ希ちゃんも、ひび希くんも、七夕さんは言わずもがな」

 サメは柏木の頬を離して、腕を組んでから言った。

「みんな、あなたが居なきゃ幸せじゃないんです」

 投げられた言葉が刺さるから、息が出来なかった。

 泣いて欲しくなかった。誰にも傷つけられない場所で笑って居て欲しかった。傷つける事しか出来ないから、柏木の手が絶対に届かない場所で、幸せになって欲しかった。

 それなのに、柏木が居ないと、幸せになれないと、サメは言う。

 目指している方向がそもそも間違っていたらしいと気が付いて、柏木は目を伏せた。

「おれが居たら、」

「でも」

 ぜんぶ傷つけておしまいだよ、と続くはずだった言葉はサメの声に飲み込まれた。

「でも、柏木さんの、その優しさに、サメは確かに救われたんです」

 頬を撫でる手が柔らかくて、暖かかった。

「サメ、痛いのも怖いのも嫌いですから。怖いひとにバラバラにされなくて良かったです」

 浸み込むみたいにサメの言葉が耳から入ってくる。

「柏木さんが、サメが目覚めた日に知らないって嘘を吐いてくれなかったら、サメはきっと航平くんと仲良くなれなかった」

 視界が勝手に滲んでいく。

「あの日、柏木さんが窓から投げ捨てられそうなサメを助けてくれなかったら、サメはきっとあのままゴミ箱に入れられて死んでた」

 サメの顔が見えないくらい涙で視界がぐちゃぐちゃだった。

「柏木さんの、嘘つきで自分勝手で、全然優しくない優しさに、サメは確かに救われたんです」

 泣いちゃダメだと思うのに、勝手に溢れて止まらなかった。なにも守れなかったのに。汐野を殺したのに。サメを歪な生き物にしたのは柏木なのに。嘘ばかりだったのに。

「だから、ありがとう、柏木さん」

 救われてはいけないと思うのに、サメの声がまるく、やさしく、心の奥底に触るから、どうしたって掬いあげられてしまった。

「きみは、やさしすぎるよ」

 震えた声で呟けば、サメが柏木さんに言われたくないです、と小さく笑った。


***


「柏木さん!」

 自由のサメ号に乗ったサメが廊下を駆け抜けて柏木のもとへとやって来る。外をふきすさぶ風はもう冷たさを孕み、季節は秋へと移り変わろうとしていた。

「見てください、これ! サメ号、また進化したんですよ!」

「どこが変わったのか分かんないけど良かったね」

 サメが目を覚ました劇的な夏は終わり、汐野凪珊が死んだ冬が眼前に迫る。

「筒! 筒のとこに可愛い絵が増えてるじゃないですか!」

「あぁ、ほんとだ」

 失ったものは何一つ戻らないし、柏木の罪は消えないし、罰は今のところ与えられていない。でも、思っていたよりずっと心は穏やかだった。

「ぜんっぜん見てない!」

「見てるみてる」

 ブンブンと両手を振り回して、サメは不満を表している。大げさな動きが可笑しくて、柏木は小さく笑った。

「サメ、うるさい」

 傍を通り過ぎながらつづ希がサメの頭を撫でていく。

「サメ、うるさい」

 つづ希の半歩後ろをついていきながら、ひび希がサメの頭を軽く叩く。サメは何かを叫びながら二人を追いかけて。

「慎、うれしそう」

 ひょこり、と航平が後ろから顔を出した。

「そんな顔してる?」

「してる。鏡見せてやろっか?」

「いい、いいよ。見たくない」

 鏡を取り出そうとする航平を制して、柏木は目を細めながらサメを見た。誰かが開けたまま放置していた窓から、早々と黄色に染まった葉が廊下に舞い込んでくる。

(ねえ、汐野)

 それを拾い上げて、航平は楽しそうに笑った。その笑みを見て、良かったなと思う。それを見られて嬉しいと思う。

(俺、いつからこんなに優しい場所に居たんだろう)

 窓から差し込む光に葉を照らして、航平が綺麗だよと微笑む。

(汐野、俺、今度はちゃんと守れるかな)

 この優しいひとたちが、もう泣かないように。柏木が居ないと幸せじゃないと言うのなら、一緒に居ても傷つけないように。

(俺、今度はちゃんと、守ってみせるよ)

 そんな事で、汐野を傷つけた罪は消えないけれど。

 そんな事で、母を守れなかった弱さは帳消しになりやしないけど。

(それでも、きっと、君はそう在ろうと頑張っている俺の方が好きだと思うから)

 輪郭すら曖昧に変わってしまった汐野を瞼の裏に描いて、柏木は歩き出した航平の後を追った。

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