第41話 離れていかないでと縋るのは気持ち悪くてやめにした
香田はただ静かに、痛みに震える柏木を見ていた。ガラス越しの視線に温度はなく、その胸中にも特別な感情はない。香田にとって、柏木はその他大勢の他人と同じで、これまで踏みつけてきた被検体と何も変わらない。
「でも、コレを殺したら、お前は怒るんだろうね」
意識はないくせに唇を噛んで悲鳴をこらえる柏木に視線を向けながら、香田が考えているのは七夕のことだった。そっと、指先だけで目の前のガラスをなぞる。
人間の器の中に、妖を流し込んだ半妖。
人の寿命を超えて生き続ける人ではない何か。
けれども、香田の理想には遠く及ばない生き物。香田と同じように考えて、香田と同じように生きていくように設計した、香田夏也の二号機──で、あるはずのモノ。
(やっぱり、僕はお前を外に出すべきじゃなかったんだろうね)
スペアとして使うつもりなら、余計な接触も一個人としての成長も与えるべきじゃなかった。なかったはずなのに、あの日、外に出たいと言った七夕の願いを拒否出来なかったのは──。
「先生、影法師の消滅が確認されました。被検体と共にB研究棟までご移動をお願いいたします」
音もなく、腹心が香田の背後に立つ。静かに伝える言葉は疑問形ではなく、香田はそれが、彼女の我儘だと理解した。動いてくれ、と普段、滅多に自分の意見を言わない彼女が、言外に求めている。香田は首だけで振り返って、腹心を見た。名前、は一体何だっただろう?
「子供に怒られるのも、たまには面白いと思わないかい?」
にっこりと笑ってみせれば、腹心は静かに瞼を伏せた。
俯いた視線が何か言いたげに彷徨っているのが見える。
ぎゅっと握りしめられた両手は、彼女の良心の塊だった。
目の前の腹心は言葉を必死に抑え込んでいるのに、香田には、彼女の言葉が分かってしまう。分かってしまうから、気持ち悪くて黙っていられなかった。
「これまで散々殺してきたんだから、目標に向かって、まっすぐ進むべきだ。僕らには殺してきた命に、その重さに報いる責任がある」
わざとらしく重みのある口調で彼女の思考をなぞってあげれば、腹心は勢いよく顔をあげた。驚き、焦り、それから恐怖。顔に考えていることが全部書いてある。そんな分かりやすさを買って腹心にしたのだと、香田はようやく思い出した。
「死体に成果を誇って、一体誰が喜ぶって言うんだろうね?」
殺人鬼に切り刻まれるのも、香田に解体されるのも、殺される側にとったら、大した違いじゃないだろう。
「悪人に成れないなら、僕の部下なんて、さっさと辞めてしまえばいいのに」
あぁ、ほんとうに。
「気持ち悪いねぇ、君。悪人と呼ばれるのは怖い。でも、不老不死は欲しい。あぁいや、成功者になってちやほやされたいのかな?」
腹心の顔が羞恥に歪む。図星を突かれて恥ずかしがるくらいなら、いっそ本音なんて殺してしまえばいいのに。ぐらぐら。ぐらぐら。腹の底で何かが煮えている。気持ちが悪い。腹心の顔が引きつった。ヒッ、と小さな悲鳴が落ちた。ずっと放置していたナイフの柄は、エアコンのせいで冷たかった。
「ごめ、ごめんなさい」
泣きながら、腹心は何かを呟く。謝る前に、反撃したらいいのに。いったいどうして、甘んじて刺されようとしているのだろう。
「もうそんなこと考えませんから」
一歩、腹心と距離を詰める。彼女みたいに分かりやすくて、嘘を見抜くのが容易な研究者をまた見つけるのは面倒だなぁ、と思う。
「ちゃんと先生の思想に染まりますから」
ずるずると後ずさりながら、腹心は涙を流す。ぐらぐら。ぐらぐら。この期に及んで、目の前の香田を責め立てることもしない在り方が気に食わない。
「だから、命だけは……ごめんなさい」
「死にたくないなら、僕を殺せばいいのに」
最後まで同じ土俵にも立たず、一方的な弱者のような顔をしているのが気持ち悪かった。同じ、人を殺せる両手を持っているくせに。
ナイフを掲げる。ガラス越しの照明を反射して、きらりと光ったのが綺麗だった。ぐらぐら。ぐらぐら。腹の奥で何かが燃えている。
「……なーんてね」
香田は振りかぶったナイフで空を切って、にっこりと笑みを浮かべた。
「君はもう、来なくていいよ」
大きく目を見開いた後で、腹心は顔を伏せて唇を強く噛んだ。そんな風に噛んだら血が出るよ、と言おうとして、面倒になって飲み込む。「失礼します」捨て台詞まで生真面目な腹心が扉を開いて出ていく。
「そういえば、君の名前、なんだっけ?」
自動扉が静かに閉まるほんの少し前に吐き出した毒は、きっとナイフのような鋭さで腹心の心を抉ったことだろう。
「意趣返しなんて、これで充分さ」
香田が静かに呟いた言葉は誰にも聞かれることなく、散らばった床の上に浸み込んで消えた。香田はガラスの向こう、未だに眠ったままの柏木に視線を向けた。
「先生」
香田の背に、静かに拳銃が突きつけられる。随分懐かしい呼び方だと思った。
「七夕」
名前を呼びながら首だけで振り返れば、自分とそっくり同じ顔が痛そうに歪んでいた。あぁ、この子供はいつからこんなに、他人の痛みに敏感になったんだろう。香田にはまだ、感覚としては分からないのに。
「慎には手を出さないって約束だろ」
後ろには子供もサメも居なかった。どうやら、彼らにこの研究室は見られたくないらしい。
「僕が手を出したんじゃない。彼の方から差し出されたんだよ、七夕」
にっこり笑えば、鋭く睨みつけられる。彼が怒っている理由には見当がついた。香田が七夕の願いを拒否出来なかったのと同じ理由だ。どうやら自分はひとつに固執する性格らしい、とどうでも良いのに自己分析を深める。
「差し出されたからって、受け取らなきゃいい話だろ」
睨みつけられているはずなのに、泣いているみたいに見えて困った。
「僕が受け取らなきゃ、彼は罰に飢えて狂っていたかもしれないよ?」
泣いて欲しくない、なんて自分の中にあるには随分可愛らしくて不釣り合いな感情だ。
「狂っても、あんたには関係ないだろ」
心臓に棘が刺さるように痛かった。拒絶が苦しいなんて、自分も意外と人間の仲間らしいと思う。思考の外側で会話が回転している。
「関係ないさ。僕は他人がどうなろうとどうでもいいからね」
肩をすくめて、七夕から距離を取る。大事なはずなのに、ねじれた言葉のせいできっと一割も伝わってはいないだろう。
「お前は、そうじゃないみたいだね」
スイッチ押して柏木の拘束を解除しながら、香田は七夕を見た。自分と瓜二つの顔が目の前にある。けれど、それは鏡を見ているのとは少し感覚が違った。七夕が眉を寄せて、唇の端だけで笑う。痛そうな顔をしているから、頬を撫でようとして。そんな事を思った自分が気持ち悪くて、手を握りこんだ。
「俺は、あんたじゃねえからな」
あ、と声が落ちたのは、一体何故だったのか。分かったのは、そのセリフで心のどこか、まだほんの少しだけ残っていたやわい所に傷がついたことだけだった。
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