第40話 瞳が綺麗だなんて理由で、きみを生かすんじゃなかった

 泣きじゃくって、しゃがみ込んで、手を取りあって涙を拭いて歩き出す姿を、影法師はじっと見ていた。暗い部屋の壁にはいくつもの鏡が掛けられ、いくつもの幸福な夢が映し出されている。

 例えば、忙しい母親と遊園地に行く夢。

 例えば、テストで三十点をとっても怒られない夢。

 例えば、年上の好きな人とクラスメイトになる夢。

 小さくて、でも叶わない夢ばかりが所狭しと並ぶ。夢の主はみんな、これが夢だと知りながら背を向けることも目覚めることも出来ずに、毒に変わった幸福に溺れている。この光景を見て、最初に悪趣味だと言ったのは、一体誰だったか。

 言葉でついた傷は鮮明に今も指先にあるのに、声も顔も、宙ぶらりんで空っぽなままだ。

「きみは、やっぱりどうしよもうない馬鹿だな、柏木」

 ひと際大きな鏡を見据えて、影法師はひっそりと呟いた。大がかりな夢だ。現実とそっくり同じ風景を作り出すのも、影法師が勝手に回収していた魂の欠片で汐野凪珊を再現するのも、どちらもすごく難しくて面倒なのに、この世界はあと数分も経たずに消え去るだろう。

「まったく、割に合わない」

 長い袖を引きずって、影法師は椅子から立ち上がり、鏡を長い爪でなぞった。柏木慎に出会わなくても、霊力がなくても、汐野凪珊は救われず、救われないから柏木が傷だらけになっても隠したかった真実は明るみに出て。

「結局、航平は選ばれなかったことに気が付いて、自分で殺したときみと同じ傷を背負いこんだ」

 あまりに愚かだ。

「きみは、なにも守れなかった」

 こんな結末になるなら、初めから嘘なんて吐かなければ良かったのに。

「きみの嘘は、なにも救わなかった」

 あまりに無残な結末だ。

 縦に割くように鏡をなぞれば、着物が擦れてさらさらと音がした。この衣擦れの音が好きだと言ったのは一体誰であったのか。朧気になって消えていく記憶は、確かに大事なものだったはずなのに、もうどうして大事にしていたのかも分からない。吐き出した吐息はため息にもよく似た自嘲が滲んだ。

「傷だらけになっただけ損だって、思うか?」

 突然聞こえた声に、影法師は驚くこともなく静かに振り返った。頭をガリガリとかきながら、男が歩いてくる。背後には彼を閉じ込めていたはずの鏡が割れて地面に散らばっていた。

「七夕殿……これはまた、お早い到着で」

 ふふ、と笑いながら袖口で微笑みを隠した。答えの代わりに、影法師も問いを投げかける。

「某の夢、楽しんでいただけましたかな?」

 七夕は動きを止めて、髪をかき混ぜていた手をだらりと下ろした。力の抜けたその動きで、答えには充分だった。

「楽しかったって言やぁ、あいつは救われんのか?」

 影法師を見据える青い両目には力がなく、彼の心にどうやら深い傷がついたらしいと分かる。否、そんなものを見る前から、影法師には分かっていた。

 七夕のためだけに、柏木が考えた楽園。

 田中菜月は死なず、七夕は彼女と結ばれ、柏木慎は特級の座を継がず、それゆえに彼の両親も健在で、汐野姉弟は扇野からは遠く離れた土地で元気に生きている。

 大事なものが、何ひとつ欠けることなく存在している、まごう事なき楽園。この世界に初めから全員放り込んでいれば、彼らだってもう少しは夢の中で微睡んでいただろうに、と思えるような。

 本当に綺麗で、穏やかで、当たり前の幸福が当たり前に存在している世界。

 柏木慎が、本当に描きたかった世界。

「あなたを閉じ込める檻としては、最適でしょう?」

 笑えない口元を隠すように、影法師は袖口を引いた。

「誰一人、何一つ、大切なものは失われない。誰もが願った通りの結末を迎えられる世界」

 夢のように甘く。

 砂糖菓子のように幸福で。

 だからこそ、現実の苦さを鮮烈に描き出す夢。

「夢は、夢でしかねえよ」

 呟きは小さかった。影法師は口元を隠したまま、目だけ笑って、言葉を吐きだす。それが七夕に向けた言葉なのか、己の内側に向けたものなのか、影法師にも分からなかった。

「夢では、なにが叶っても無意味だと?」

 鏡の中に満ちる数多の幸福は、ただ夢であるというだけで意味などないと。

「夢には、なにも救えぬと?」

 共に悩むことも、苦難を乗り越えることも出来ない妖では、輝く星は救えないと。

「そう、仰いますか」

 視線に険がこもったのが自分で分かった。若人ごときにムキになるなんて馬鹿らしいと思いながら、それでも微笑を浮かべることは出来なかった。

「救えねえよ。救われるわけねえだろ」

 袖口の奥で影法師は意味もなく唇を噛んだ。

「どんだけ笑ってても、母親とくだらねえことで喧嘩してても、触れた手ぇ見てはにかんでても、俺以外全部、嘘なんだから」

 もしも、の夢は残酷だ。

 もし、あの日母親が死ななければ、彼はこんな風に両親に甘えたのかと。

 もし、あの日七夕が菜月の嘘を暴かなければ、彼女はこんな風に頬を染めたのかと。

 もし、何もかもがここに在ったら、こんなにも満ち足りていたのかと。

 ただぼんやりと思い描くだけだった『もしも』は、眼前で鮮明に形を得た瞬間、自分を後悔で突き刺すだけの毒に変わる。ただの毒で、長く触れるほど指先から死んでいくと、理解しているのに、それでも人は、その毒に触れずにはいられない。その毒を愛さずにはいられない。

 そういうものだと、影法師はよく知っている。そうやって、毒が回り切って死んだ人間を食べてきたから知っている。知っていたのに、一体、何を期待していたのだろう。自分の中にあったはずの穴すら見失って、影法師はきゅ、と奥歯を噛みしめた。もう何年も真面な食事をしていないせいで、思考がバラバラと解けて纏まらない。

「まあ、でも」

 ブレる視界の中、七夕がゆるく口角をあげているのが見えた。傷だらけの心で、人間はいつもそうして無理をする。それが可哀想だと感じたのは、一体いつが最初だったのか。

「覚めたくないと思うくらいには、良い世界だったよ」

 それが、影法師への、柏木の我儘に振り回された大人への、ささやかな激励だと知っていたから、影法師はひっそりと笑った。

「ええ、ええ。そうでしょうとも」

 視界がブレて、滲んで、体の輪郭がぼやけていく。あぁ、と思う。こんな事になるなら、やはり、あの日――。


 最期の後悔すら霞のなかに飲み込まれて、影法師は彼岸の底へと引きずり込まれた。彼が作り出した甘やかな楽園は解け、夢に囚われていた者はみな、それぞれの現実へと帰っていく。彼岸に取り込まれながら、影法師はそれを見て、ひとり、笑った。

「楽園はこれにてお仕舞い」

 視界が永劫の闇に沈んでいく。自我を手放す刹那、影法師はただ願った。

「どうか、その身に、数多の幸福があらんことを」

 呼んだ名前は、気泡に変わって、誰にも届くことは無かった。

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