第37話 肌の内側を差す優しさに殺されながら救われていた
雪が降っている。
真夜中過ぎから降り出した雪はあっという間に辺りを白く染めてしまった。いろんな音が雪に飲み込まれて消えても、地面が漂白されても、柏木慎の視界は変わらず極彩色だった。
ふよふよと雪の間をぬって飛んでいる妖精のような羽を持った小人を握りつぶして、深く息を吐き出す。白く染まった吐息が世界に溶けていくことすら、不愉快だった。
手のひらにべったりと付着した幽霊の残骸は、赤黒くてまるで血液みたいだった。もう思い出すことも叶わない母親の顔を、その空白を、頭の中でそっとなぞる。
この手でその心臓を貫くことと、守る術があるのに放置することは、一体どれほどの差があるだろう。蒸発して消えていく残骸をぼんやりと眺める。
こびりついた母の血は決して消えないのに、誰かの生きたいなんて願いは簡単にすり潰されて消えていく。体の輪郭がぼんやりとして、崩れていくようで、柏木はその場にしゃがみ込んだ。
肩の上に雪が積もって、襟元から首に入ってくるのが冷たかった。人肌に触れたらもう存在していられない雪の結晶が水になって服に浸み込む。
寮の外に出てきてから既に一時間ほど。体は芯まで冷え切って、末端の感覚は既にない。このまま雪の上に寝転がっていたら、朝になる前に死ねるだろうか?
死体を朝日が照らす様はどんなだろう。綺麗な死に様なんて相応しくないから、やっぱり死ぬのは夏の日の方がいいだろうか。夏の日なら、腐って、ドロドロになって、誰も抱き上げたくないような、おぞましい何かとして死ねるだろうか。
そうやって死んだら、母も少しは許してくれるだろうか。馬鹿な事を考えている、と思う。死人は何も許さないし、何にも怒らない。柏木を断罪する人はどこにも居ない。七夕なんて、お願いだから死なないでくれと抱きしめてくる始末だ。優しさが棘みたいに浸み込んで、肌の内側をごりごりと擦る。
もし柏木が死んだら、七夕は泣くだろうか。
それは、困るな、とぼんやり思う。あの人は、特級が死ぬことに怯えているから。田中菜月の死を七夕が乗り越えるまでは、同じ特級の柏木が死ぬわけにはいかない。
「はは、馬鹿みたい」
膝をぎゅっと抱きしめて、額を膝にこすりつける。あの日も、こうやって自分だけ守っていた。
「泣いて欲しいだけで、死にたくないだけだろ」
泣きたくなんてないのに、涙が勝手に滲んで膝が濡れた。体中どこもかしこも冷たいのに、涙だけは馬鹿みたいに熱くて。これが心の温度なら、内側から溶けて死んでしまえるのにと思った。体に刃を突き立てるのは怖くて、かと言って、その辺を殺人が趣味の人間が歩いている訳もなく。この期に及んで、優しく死にたいなんて思っている思考に吐き気がした。
「母さんは、やさしく死ねなかったのに」
「お前が生きてんのが、それだけが、あの人にとっての救いだろ」
自分のそれより少し低くて、ざらついた声が上から降ってくる。誰が近づいてきているかなんて、声を聞く前から分かっていたから、顔も上げないまま唸る。そんな、やさしい言葉で許して欲しいわけじゃない。
「慎」
傘でも差してくれているのか、雪が肌に触れなくなった。パラパラとプラスチックと雪がぶつかる音がする。
「まこと」
柔らかく、やさしい声が、柏木を呼ぶ。そんな風に、まるで宝物みたいに呼ばないで欲しかった。耳から優しさが浸み込んで、心臓で牙をむいて、苦しくて仕方がない。そのくせ、その声を手放す勇気はないから。
「慎」
呼ばれるたびに、自分が醜くて、おぞましい生き物だと、突きつけられる。涙でぐしょぐしょの顔で見上げれば、眉を寄せて痛そうな顔をした七夕と目が合う。
「おれが、殺したんだよ」
頬を伝う雫が熱くて、肌が焼けるようだった。いっそ爛れてくれれば、七夕もあまりの醜さに距離を置いてくれるだろうか。そんな訳はないと知っているのに、頭はいつだって馬鹿なことばかり考えている。
「それでいいよ。お前が、納得できるまで、俺が何回だって違うって言ってやるから」
青い目がゆるく滲んでいるのが、海みたいだと思う。
「壊れちまうくらいなら、今は、それでいいよ」
温かくて、真綿のような優しさに、首を絞められながら、守られている。
「帰るぞ、お前、頬まで真っ赤じゃねえか。すぐ風邪引くんだから、無茶すんな」
もう何年も風邪なんか引いてないとか、七夕の方がずっと薄着だとか、このまま雪に埋まって死にたいんだとか。言いたい事は山のようにあったけれど、引き上げるように触れられた手が、あまりに熱くて優しいから、何一つ声にならなかった。堤防が崩れた川みたいに、涙が溢れて止まらなかった。
嗚咽が零れて、言葉が吐けない。喉の手前につっかえた言葉は、みんな解けて、形も分からなくなって、ただ、痛みだけがそこに残った。
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