第36話 And Human Become Gods.
柏木は楽園の外でひとり、目を覚ました。殴られた箇所がズキズキと痛む。手を当てようとして、両腕が固定されていることに気が付いた。両腕だけではない。両足も、胴体も、体中がベッドにベルトで縛りしけられていた。自由に動かせるのは首だけだ。
「起きたかい?」
白い部屋の隅、そこだけ黒いスピーカーから声が聞こえて、柏木は視線を左右に振る。
「初めまして。そしてようこそ」
右側の壁は半分ほどがガラスになっていて、こちらを見据える白衣の男が良く見えた。金色の髪に、切れ長の青い目。初めて会う人でありながら、その顔はよく見知ったものだった。七夕と同じ顔面がにっこりと笑った。
「今日から僕が、君の所有者です」
スピーカー越しに聞こえてくる声まで、七夕にそっくりだから吐き気がした。
「……
資料の中で知った名前を口にすれば、男はわざとらしく顔を輝かせた。
「これは驚いた。まさか自己紹介が要らないなんて。嬉しいなぁ、君も僕に興味があったのかな? ふふ、相思相愛ってやつだね」
「寝言ならせめて目を瞑ってからにしてください」
にこりと笑って返せば、体のあちこちに繋がれているらしいコードから、ピリピリと何かが流れ込んでくる。
「寝言だなんて酷いなぁ。僕は本心で喋っているのに」
香田はむーっと、子供のように唇を尖らせた。柔らかな物腰に五歳児のような仕草。けれども、彼の足元に無数の死体が転がっていることを柏木は知っている。死体を山のように積み上げて、神へと手を伸ばした愚かな男。
AHBG社社長──香田夏也。
別名、不老不死を求めた男。
妖を使ってサメを誘拐し、その体を解き明かそうとした不届き者。
「いやあでも、本当に嬉しいなぁ。僕はね、ずっと君が欲しかったんだ。だって、特級だよ? どろどろになるまで解体したって、まだ使い道がある。こんなに面白い素材は他にない。いや、最近目を覚ましたサメもなかなか面白いから欲しかったんだけど、君が手に入ればそれも要らないかなって思えるくらいには、君が欲しかったんだよ、僕は」
七夕と同じ低さの声が、七夕とは違う柔らかい言葉を吐く。
「でも、七夕がだめだって言うから手が出せなくてね? 七夕は酷いんだよ? 君に手を出したら、死ぬなんて言うんだから」
七夕と同じ顔が、七夕とは違うにっこりとした笑みを浮かべる。
「死なれたら僕が困るって、知ってるくせにさぁ」
続きなんて聞きたくないと思っても、耳を塞ぐための両手は自由にならない。
「僕のスペアの癖に、生意気だよねぇ」
ぶん殴ろうと振りかぶった拳はあっけなくベルトに阻まれて、怒気がそのまま形になった霊力の塊はなんのひねりもなくガラスの手前に落下した。男は瞬きすらせずに、にこにこ笑ったまま柏木を見る。吐き気がした。顔がぐちゃぐちゃになるまで殴って、もう二度と笑えないようにしてやりたかった。
「こわいなぁ。そんなにアレが大事かい?」
薄笑いを浮かべて、男は言葉を吐く。
「君にも、ひとつ作ってあげようか?」
「ははっ、妄想も過ぎれば毒ですよ。彼以外に成功例なんか居ないくせに」
鼻で笑いながら言葉を投げれば、男の顔から表情が消えた。体を流れる電流のような何かが、ぐっと大きくなって痛みが増す。唇を思い切り噛んで悲鳴を飲み込む。口の中に血の味がした。
「あぁ、ごめんね。手が滑った」
男はもう一度にっこりと笑顔を張り付けて、手元のつまみをさっきとは反対方向に回した。痛みが薄まって、細く息を吐く。
「いやあ、君は本当に物知りだねぇ。図書室の資料を読破したって噂はもしかして本当なのかな?」
「失敗のとこだけ聞かせてあげましょうか?」
にっこり笑ってみせれば、男は顎に手を当てて、わざとらしく考え込むポーズを取った。
「うーん。こんな狂犬だったとはなぁ。飼い主に噛みつく犬には躾が必要だよねぇ。ね? 君もそう思うだろう?」
犬になったつもりも、飼われたつもりもない、と反論しようとして、けれども、男が口を開く方が一瞬早かった。
「航平くんの肉でも、目の前で削いであげようか?」
薄く目を細めて、顎を引いて、男はうっそりと微笑む。反射で殴りかかろうとした両手を理性で押しとどめて、柏木は静かに男を睨んだ。七夕と同じ綺麗な青の瞳に暗く影が落ちて、水底のような濃い青に変わる。
「嫌だろう? 君は、自分のせいで誰かが死ぬことにも、傷つくことにも耐えられない。まったく吐き気がするほど可哀想で、傲慢な命だよ、君は。どう足掻いたって、他人を傷だらけにすることしか出来ない存在だと、自覚しているだろうに」
体に流れ込む痛みに耐えながら、柏木は強く唇を噛む。濃い青色の瞳が歪んで、柏木を睨みつける。自分が妖に向けるのはこんな顔だろうか。憎悪ほどの愛情はなく、嫌悪で片付けるには重すぎる感情。
「まあでも、そんなつまらなくて矮小な命でも、僕の役に立つことは出来る。痛みと罰を所望する君には、本望ってところだろ?」
男は言葉を吐きながら、わざとらしくにっこりと笑った。柏木はどうにか右側の口角だけあげて、男を見返した。
「あんたからの痛みが、罰になるはずないでしょう」
男はガラスの向こうで微笑む。それは確かに微笑であるのに、そこには親愛も友好も優しさもなく、ただ嫌悪だけが瞳の奥で光る。
「そんなものが罰になるなら、俺はとっくに腹を切って死んでる」
どんなに苦しんだって奪った命は戻らないし、犯した罪は無くならない。痛みなんかでは、到底罰には足りない。だから、これは罰じゃない。こんなもので許されたと思ってはいけない。これは、ただの自分勝手な暴走だ。彼らが傷つく事に耐えられないのは、彼らではなく、柏木の方で。柏木が汚れた両手で抱きしめているのは、航平やサメじゃなく、自分の体だ。
身勝手で、醜い、ただのわがまま。
彼らの一番深くて柔らかいところに傷をつけながら、ずっと傷つかないでくれと願っている。切り刻むことしか出来ない汚れた両手を伸ばしながら、もう泣かないでくれと祈っている。
矛盾した思考が熱をもって擦り切れていく。増した痛みで視界が黒く染まっていく。強引に手を引かれて、闇の中へと落ちていく。
「気持ち悪い在り方だねぇ、君」
香田の言葉に、気持ち悪いのはお互い様だと言い返したかったけれど、声になる前に意識は闇に沈んだ。何もかもが手の中から消えていく刹那、指先を掠めたのは雪の感触とまだ冷たくなりきっていない死体の温度だった。
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