第35話 そのやさしさに救われて、そのやさしさに傷をつけられた

「コウくん!!」

 助けを求めて走り回っていたひび希はようやく航平を見つけて、大きく息を吐いた。顔を上げた航平はほろほろと涙を流していて、伸ばしかけた手をぎゅっと握りこむ。

 あぁ、どうしよう。

 助けて欲しいのに、目の前の航平はどう見たって誰かを助けられるような状況じゃない。声をかけるべきじゃなかったと唇を噛んでももう遅い。

「どうした?」

 ほら、やっぱり。

 自分の頬を流れ落ちる涙を拭いもせずに、航平は立ち上がってひび希の瞳を覗き込む。やっぱりなんでもないと背を向けて、一人でどうにかするのが、優しさだと知っていた。手のひらに爪を立てながら、ひび希は唇を舐める。優しさが何かを知りながら、実行しないのはどれほどの罪だろう、と考える。

 どうか、自分ひとりで償える重さでありますように。

 鋭く息を吸って、ひび希は優しさを投げ捨てた。

「つづが、居なくなった」

 君のためにと言いながら、自分のために優しさを捨てる醜さが、どうか、君に、君のこれからに、影を落としませんように。

「いっしょに探して。コウくん」

 何かに悩んでいたであろう航平は、目を見開いて、それから拳でごしごしと涙を拭った。乱暴に擦るものだから、目元が赤くなってしまって。

 けれど、それを咎める人は、ここには居ない。

「居なくなったって、どこで? 目が覚めたときは居た?」

「居た。目が覚めて、つづとの間にいつもある糸みたいなのが見えなくて、ここには、霊力がないんだって分かって」

 航平は目を見開いて、手のひらを空に向けた。どうやら今初めて、霊力がないことに気が付いたらしい。ぎゅっと眉を寄せたのは、柏木が霊力を否定したことが許せなかったからだろうか。

 そういう、つよくて、やさしい人だと知っている。

「どうやって出ようって、コウくんたち探してる間にはぐれた」

 航平はぱちくりと瞬きを繰り返す。サメの方はぐにぐにと両手を押し付け合っていた。誰も何も話していないのに、全部気が付いていそうな所が、腹立たしくて泣きそうだった。そういう聡いところは、柏木によく似ている。

「……楽園、なんだね」

 短く呟かれた言葉にサメをきつく睨みつける。言葉を飲み込まないところは、柏木とは正反対だと思う。航平だけは意味が分からないって顔をしていた。

「楽園なわけないでしょ」

 声が湿っているのが嫌だった。

「霊力なんて、あってもなくても、僕らはなんにも変わらないんだから」

 変わらないと思うのは、ひび希が見える側だからだろうか。サメはぎゅっと手を握りしめて、ひび希とまっすぐに目を合わせた。刺繍の目のくせに強い視線を感じるのが気に食わない。八つ当たりをしていると自覚する。余裕がないのが嫌だった。

「同じであってほしいのに、同じじゃないのは、きっと他人が想像するよりずっと痛いことだよ」

 その言葉が、予想していたよりずっと重くて強いから、ひび希は濡れた声で言葉を吐いた。

「同じじゃなくても大好きなのは、変わんないのに?」

 例えば、双子じゃなくても。

 例えば、顔の作りが全然違ったって。

 重ねた時間の分だけ、交わした言葉の分だけ、ひび希はつづ希を大切に思うだろう。たった一人の肉親として、愛していくだろう。

 ひび希のそれより一回り大きな航平の手が、ゆっくりと頭を撫でていく。緩んだ涙腺から水滴が落ちて、地面にポタポタとシミを作った。

「つづもひびの事が大好きなんじゃねえかな」

 せめて嗚咽は零れないようにと唇を噛んでいたから、返事は出来なかった。

「大好きだから、同じもの欲しくなるんだよ。同じもの持ってたら、相手のこと全部分かるような気がするんだ」

 分かってあげられるような気がしちゃうんだよ、と言葉が続いて、これは航平の話だと気が付く。顔をあげたら、目を細めて笑う航平と目が合って、その黒い瞳が涙で滲んでいたから、ひび希は言葉を飲み込んだ。

「ぜんぶ分かったら、重たいものも辛いことも、代わりに背負ってやれるような気がするんだよ」

 節くれだった指がひび希の目の下をそっと撫でる。その仕草が、柏木にひどく似ていることにふと気が付く。柏木を真似たのは、彼の姉を少しでも理解するためだろうか。

「迎えに行こう、ひび。つづはきっと、どっかでひとりで泣いている」

 他人に触れるときばかり優しくなるその手が、ひび希にはとても寂しいものに思えた。自分が泣いていたことなんて忘れてしまったみたいにいつも通り笑って、航平はひび希の手を引く。

「泣いているとき、つづ希ちゃんはどこに行くんです?」

 航平が居るのとは反対の隣をぴょんぴょんと飛びながら、サメがあちこちを指さす。航平に言いたいことがあって、でもうまく言葉が見つからないから、ひび希は唾を飲み込んで、サメの質問に答えた。

「公園」

 短く答えるとバッと両手を広げて、少し高く飛んだ。公園という響きに興奮するらしい。花火のときと言い、時たま五歳児みたいになるのは何なんだろう? 寮を出て、通りを南に進む。誰も晴れ渡った気分じゃないのに、空は綺麗に青くて、皮肉みたいだと思った。

「いつもだいたい遊具の中で丸くなってる」

 唇を尖らせて、涙を目にいっぱい溜めて、怒って飛び出したくせにひび希を見つけると緊張の糸が解けて大声をあげて泣くのだ。かわいくて、つよがりな、たった一人の片割れ。

「猫みたいだな」

 ふ、と笑う航平の横顔を見上げて、それが不意に思い出と重なる。青空の色まで同じな気がした。

 あぁ、そうだ。

「まえのときは」

 ここには居ない、やさしい人を思い出す。

「マコくんがいっしょにさがしてくれたんだ」

 自分は要らない物だと、存在ごと消してしまった酷い人を思う。ぎゅ、と航平がひび希の手を強く握った。

「慎は迷子見つけるの上手そうだな」

 ひきつった顔で、航平はそれでも笑ってみせる。無理をさせる自分が不甲斐なくて、歯がゆくて、けれどなんて言ったらいいのか分からないから、手をぎゅっと握り返す。

「上手だったよ。なんで分かるのって聞いたら、エスパーだから、とか適当なこと言うんだ」

 地面をじっと見つめたまま、言葉を続ける。

「それで、七先生になんでって聞いたら、昔、マコくんもしょっちゅう脱走してたんだって」

 サメがふふ、と笑う。

「だから、子供がひとりで居られる場所がよく分かるんだろうって、言ってた」

 横目で見上げた航平は目を細めて、地面を見ていた。笑って欲しかったけれど、今の話にそれだけの力は無かったらしい。言葉の余韻が宙に浮いて、沈黙に変わる。じっと顔を見つめても、言いたいことがまとまるわけじゃない。

「やさしいひとだよ」

 纏まらないけど、黙ったままでも居られなかった。

「マコくんは、いつも絶対、やさしいよ」

 触れる指先も、吐き出される言葉も、くすぐったいくらい優しくて柔らかい。そういう人だと、ひび希は知っている。ずっとそういう優しさに守られてきたから、知っている。

「だから、きっと、凪珊ちゃんを殺したのは、マコくんじゃない」

 航平は前を向いたまま、僅かに目元を強張らせて、足を止めた。振り返ってひび希を見た航平は、眉を寄せて、目を細めて、口元だけ笑った。

「……しってる」

 吐き出された声が震えているのが、泣き出す寸前みたいで、息が詰まった。何かを間違えたらしいと気が付いて、サメを見ても、彼女は航平を見上げるばかりで答えをくれない。

「しってたのになぁ」

 歩き出そうとして、でも涙が零れる方が早かったから航平が足を止めた。あ、と声が漏れそうになって、慌てて唇を噛む。知っていたのに、信じられなかったから。知っていたはずなのに、責め立ててしまったから。

 だから、航平はこんなに泣いているのだと気が付く。

「やさしいわけないです」

 黙ってぴょんぴょん飛び跳ねていたサメがひび希と航平の真正面に立って、言葉を吐きだす。

「やさしくないです。これっぽっちも、やさしくないです」

 ひび希は驚いて口をあけたまま、瞬きを繰り返した。

「こんな世界を本気でサメたちが楽園だと思うと信じていて、自分が居なきゃ誰もが幸せになれるなんて、思い上がっているひとが、やさしいわけないです」

 どうやら、このサメは怒っているらしいと分かる。

「自分を抱きしめられない両腕で、誰かを守ろうだなんておこがましいって、サメは一発殴ってやるつもりですから」

 ひびくんたちは殴らなくていいんですか? とサメが短い腕を組みながらフン、と息を吐く。サメの感情に名前を付けたら、きっと怒りになるのに、それは酷く優しい色をしているものだから、ひび希は思わず笑った。喉の奥に刺さっていた棘がするりと抜けた気分だった。

「殴る」

 握った拳を前に突き出したひび希を航平が驚いたように見やる。

「殴る。僕たちは、あんたが居ないと幸せじゃないよって、言う」

 笑って航平を見上げると、つられたように彼の顔にも笑みが浮かんで、ひび希はもっと笑顔になる。

「きっと、びっくりするな」

 ひび希たちにとっては当たり前のことを、きっと柏木は知らないから。

「うん。早くつづ迎えに行って、帰って、マコくんぶん殴ろう」

 おー、と叫びながらサメが短い両腕を突き上げる。この世界に来てから初めて、ひび希はなんのつかえもなく笑った。

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