第34話 願わくば、その明日に、今日と変わらず、

 時は少し遡り、サメや航平が影の中へと落ちていく頃。それを見送った柏木は血に染まったピアスを握りしめて小さく息を吐いた。ポストの部分が掌に刺さって少しだけ痛い。殴られた頬も熱をもってひりひりと痛い。赤く腫れているだろう場所を指先で撫でて、もっと強く殴ってくれても良かったのになぁ、と思う。周りに優しい人が多すぎて、罪と罰の天秤はいつだって釣り合わない。

「はは、馬鹿みたい」

 罰が軽いからと許された気分になる自分も、こんな人間を軽々しく許す彼らも、信じられないくらい愚かだ。ピアスを心臓に押し当てながらゆっくりとその場にしゃがみこんだ。視界が勝手に滲んで嫌だった。

「泣くなよ、気持ち悪い」

 自分のせいで訪れた結末なのに、もう彼らと一緒に笑う日々がこの手の中に無いと思うと、心臓が張り裂けるように痛かった。愛していたのだ、と自覚する。ひとりぼっちだと泣きながら、それでも、失い難い日々を手に入れていたのだと気が付く。

(おれが)

 膝に額をこすりつける柏木の背後にひっそりと男が迫る。

(おれがもっと、ちゃんと綺麗だったら)

 待ちわびた罰の気配に、柏木はそっと目を閉じた。

(だれも、死なずに済んだのになぁ)

 蹲る柏木の頭に黒い鈍器が振り下ろされる。鈍い音がして、全身に響くような痛みが走った。視界が端からじわじわと黒く染まって、意識が遠のいていく。手放す直前に思い出したのは、自分を優しいと断言した、サメの柔らかな声だった。


***


 帰ることを決意したらしい航平の後ろをぴょんぴょん跳ねて追いかけながら、サメは問いかける。

「帰るってどうやって? というかここどこ?」

 サメがパニック状態なことにそこで初めて気が付いたらしい航平はやっと足を止めた。ついでのようにサメを抱き上げて、また歩き出す。説明は歩きながらになるらしい。サメは疲れ切った尻尾をそっと撫でて労わりながら、航平に体重を預けた。

「ここは夢の中……つっても、普通の夢じゃなくて、妖が作り出した現実みたいな夢」

 普通の夢じゃなくて、妖の作り出した現実みたいな夢。

 言われた事をそのまま頭の中で並べてみても、いまいち意味が分からなかった。思いが顔に──出るわけはないのだけれど、航平はサメの思考を読んだみたいに小さく笑った。

「まあ、分かんなくてもいいよ」

 そういう笑い方とか、言い方が柏木に似ていて。サメはふにふにと頬をつついた。

「柏木さんと仲良しなんだね」

 知らないうちに仕草が似るくらいに。

 航平は立ち止まって、泣きそうな顔で眉を下げた。笑い損ねた顔は、泣きじゃくる顔よりずっと痛々しい。

「ぎゅーっと抱きしめてみる?」

 サメはどうにか笑って欲しくて、両手を広げておどけた。けれども航平の口角は少しも上がらなくて、今度は頬を撫でてみる。は、と開いた口から、何度か声にならない痛みが吐き出されて、ついには両目から涙が零れ落ちる。縋りつくように腹に顔を埋められて、幽霊の体には熱すぎる涙が直接肌を焼いた。苦しいのは痛みのせいじゃなくて、彼の涙を止められないせいだった。

「おれ、まことのこと、すっげえきずつけちゃった」

 くぐもった小さな声だった。

「ずっと、おれのこと守ってくれてたのに、ありがとうって、言わなきゃいけなかったのに」

 泣きじゃくる子供の丸い頭をゆっくりと撫でる。

「柏木さんの優しさは分かりにくいから」

 例えば、サメの居ないところで、サメを切り刻まないように七夕に頼むとか。

 花火の終わりを寂しがっているどこかのサメに昔話を聞かせるところとか。

 分かりにくいくせに、一度気づいたら目を逸らせなくなる。さりげなく優しくて、まるで自分の事を特別よく見ていてくれるような気分になって。でも、彼は誰にでもそうだから、うっかり嫉妬なんて感情を抱きそうになる。

 優しいのに。

 優しいから、残酷なひと。

「おれ、謝んなきゃって思って」

「うん」

 脱線しかけた思考の手綱をぎゅっと握って、サメは航平の言葉に頷いた。

「でも、ごめん、なんて一言で許されちゃいけないことした」

「うん」

「言ったら、慎はきっと許してくれちゃうんだよ。俺がつけた傷は、そんな言葉じゃ治んないのに、あいつ、いいよって言うんだよ」

 傷だらけの体で、痛みなんてなにも知らないって顔をして、一人だけ暗闇の中で、柔らかく笑う柏木は、容易に想像がついた。

「許されちゃ、いけないのに」

 割れてガタガタの爪を航平は自分の肌に突き立てる。その様が、あの優しい海で見た柏木のようで。綺麗な心に刃を突き立てた、汐野凪珊のようで。サメは航平をぎゅっと抱きしめた。

「許されちゃいけない人なんて、居ない」

 柏木が航平を許すのは、きっと傍に居て欲しいからだ。

「そんな人、居ないんだよ、航平くん」

 怒りをぶつけて、相手が離れていくのが怖いから。

「ねえ、航平くん」

 サメは航平と額を合わせて、その黒い目を覗き込んだ。涙で濡れた瞳はきらきらと輝いていて。場違いにも、綺麗だと思った。サメの刺繍の目とは違う、なんだって見られて、なんだって伝えられる目。

 生きている人の目。

「今の、ぜんぶ、柏木さんに話したらいいよ。傷つけたから謝りたい。でも、貴方が嫌なら許さなくていい。このごめんねは、貴方の準備が出来たら、友達に戻りたいですってごめんねだからって」

 こんな時でも、上手く微笑めない体が憎かった。

「一言じゃうまく伝えられないなら、たくさん言葉を並べたらいい。急がなくていい。下手くそでもいい。伝わるまで、言葉を重ねたらいい」

 あの優しくて綺麗な二人の間に、もしも、あと少しだけ多くの言葉があったなら。

 きっとサメは目覚めなくて。

 もっと素敵な結末か、ありふれた恋の終わりが、きっと普通に訪れたはずで。

 それは、サメが目覚める夏休みほど刺激的ではないかもしれないけれど、もっとずっと優しくて、幸せな未来だったはずだ。

「航平くんは人間で、柏木さんも人間だもの。二人の間にある壁も、溝も、言葉を隔てるほどの物じゃない。手を伸ばしてみたら、案外、幻かもしれないしね」

 航平の目元を優しく撫でた。

「どんなに時間がかかっても、柏木さんはきっと待ってくれるよ。だって、優しいひとだもん」

 サメが知っている通りに。

 航平が追いかけてきたとおりに。

「だから、だいじょうぶだよ。航平くん」

 名前を呼んで、頬を撫でて。彼の姉にはどうしたって成れないけれど、彼女の細い腕では守り切れなかった強い人が、どうかそのままでありますようにと願う。たった十五才の少年が、多くを背負いすぎませんようにと祈る。

 願って、祈って、背名を押すことくらいしか、サメには出来ないから。明日も成長も無くした死者では、きっと何者も救えない。いつか、彼らに置いていかれる体では、心の拠り所にはなれない。なってはいけない。

 笑えない口元で、微笑みを作ろうとしながら、サメは自分の中で芽生えようとする何かが口から出ないように唾を飲み込んだ。

(神様は残酷だ)

 こんなにも、大切になってしまったのに。

 こんなにも、近くに居るのに。

 サメは幽霊で。

 彼らは、明日に希望を託せる生者だ。

(サメも、みんなと一緒に)

 涙が落ちても、サメの目は泣けない。

(一緒に、生きてみたかったなぁ)

 航平を慰めるように抱きしめながら、けれど縋っているのはサメの方だった。

 どうか、この醜い願いに気づかないで。

 どうか、サメを置いていかないで。

 噛みしめるほどの唇もないから、ただ必死に手を握りしめていた。

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