第33話 伝わらない愛情ではなんの枷にもなりはしない

 水音に手を引かれるようにして、航平は意識を取り戻した。何故か隣にはサメも寝ている。ぱち、ぱち、と瞬きを繰り返し、彼女が微動だにしない事を確かめてから、航平は頬をつついてみた。サメは目を開いているからと言って、起きているとは限らない。

「おーい」

 小声で呼びかける。

 反応はない。

「おきろー」

 今度は頬を摘まんでみた。

 まだ起きない。

 どうやらぐっすり眠っているらしい。航平はサメを起こすのは諦めて、体を起こした。いつも寝起きしている寮の自室だ。こたつが出ていて、足元の方に凪珊のベッドがあって──違うのは、部屋が綺麗なことだけだった。姉が死んでから掃除をサボってばかりのあの部屋は、もっと埃っぽい。まだ夢の中に居るらしい、と気が付いて航平は膝を抱えてうずくまる。

「かえりたくねーなぁ」

 綺麗に整えられた凪珊のベットや机の方に視線を向ける。膝に押し付けた頬がつぶれて、少し痛かった。

「ねえちゃんが居る」

 言葉にするとふわふわと温かくて、染み入るように痛かった。

「まことが居ない」

 心臓がぎゅっと握りつぶされるように痛くて、でも呼吸は楽だった。居ないなら、向き合わなくて済む。話もしなくていいし、顔も見なくていいし、ここに居たら、きっとぜんぶ忘れてしまえる。忘れたくないものまで、まるごと。

「言いたいことは、いっぱいある」

 例えば、どうしてもっと早く打ち明けてくれなかったのか、とか。

「聞きたいことも、結構たくさん」

 例えば、本当に慎が姉を殺したのか、とか。これまでの時間の何処からが嘘で、何処までが本当なのか、とか。──いや、これは突き詰めたってお互い辛いだけだから、聞かなくてもいいか。

 話さなければいけないと思う。そうしなければ、何も選べない。どこにも進めない。時間を浪費するだけになって、きっといつか、浪費していることも忘れる。

「でも」

 額を膝にこすりつけた。

「話すのは、こわいな」

 全てが嘘だと言われたらどうしよう。

 優しさなんて本当はどこにも無かったと言われたら?

 この体のなかに詰まった思い出には、もう半分くらい彼が居るのに、それを全部、ゴミ箱に捨てたくなるような答えしか返って来なかったら、一体どうすればいい?

 怖いから、話せなくて。話せないから進めない。目の前に大きな壁が迫っているようだった。後ろには落とし穴。前にも後ろにも、逃げ場は存在しない。はぁ、と吐き出した空気は思ったよりも重くて、ベッドの上に深く沈んだ。

「ハウア!」

 突然の奇声に航平はびくりと肩を震わせて、後ろを振り返る。サメは何故か両手を天井に向かって伸ばした状態で固まっていた。心なしか、さっきよりも目が大きく開かれている気がする。

「あ、航平くん!」

 航平を見つけたサメは嬉しそうに飛び上がって、ベッドの上に器用に立った。尻尾を駆使しているらしいこと以外何も分からない。呆然としている航平の方を見て、ほんの少しだけサメは固まった。じっと向けられる視線が痛い。

「泣いてる……?」

 柔らかな丸い手が、航平の目元をごしごしと擦る。凪珊の細い指とは似ても似つかない乱暴さだった。

「なにかあった?」

 顔を覗き込まれて言葉に詰まる。一言で説明するには内容が濃すぎて、うまく声にならなかった。

「……あったか。あったよね、そりゃあ」

 サメの手が今度は優しく航平の頬をなぞった。

「柏木さんは意味わかんない嘘ばっかり言ってるし、起きたら知らない場所だもんね、そりゃあ怖くて涙くらい出るよね」

 怖くて泣いてるんじゃないとか、ここは自分の部屋だとか、言いたいことはいろいろとあったけれど、一番はそんな事じゃなかった。

「嘘? 慎が、嘘吐いてるってなに?」

 サメの肩を強く掴んで問い詰める。

「いや、あいつはいつも嘘つきだけど、そういう事じゃないんだろ?」

 サメは驚いたように背をのけぞらせて、それから航平の目をぎゅむっと手でふさいだ。

「ステイステイ、君、自分の顔が凶器だって自覚して?」

 埃が目に入って、サメから距離を取りながら目を擦る。「なんだよ、俺の顔が凶器って。普通の人間の顔だろ」パシパシ、と瞬きしながらサメを見やる。表情は全く変わっていないのに、半目で馬鹿にしたように見られているのがよく分かった。

「なんだよ」

 サメは自分の頬を押さえて、やれやれ、と言った感じで首をゆるく振った。胴体ごと左右に振れていて、くびれを作る運動みたいだと思った。ふ、と唇から笑いが漏れる。

「なんでもないですよぉ」

 そう言いながらもサメはハァ、と深くため息を吐く。そういえば、凪珊も昔、顔を近づけるなって誰かに言われていたような……。思い出しながら、ふと、起きてから一度も姉の姿を見ていないことに気が付く。二人部屋とは言え、そう広くはないし、何より寛げるような場所はここしかない。どこかに買い物にでも行っているのだろうか。

「航平くん?」

 サメに呼ばれて、航平は視線を前に戻す。

「誰か探してるの?」

「あ、いや、姉ちゃん、どこかなって」

 サメは体ごと首を傾げた。

「お風呂じゃないの? さっきからずっと水の音してるよ」

 そう言われて初めて、航平はその音に気が付いた。言われてみればずっと止まることなく、水音がしている。それも、どこかくぐもった音が。まるで、水を張った洗面器にずっと水を流し続けているみたいな音。

「おれ、この音知ってる」

 サメがさらに首を傾げた。

「そりゃ水の音だからね」

 航平は立ち上がって、風呂場へと急いだ。知っている。この音も、扉を開けた先にある光景も、恐怖も、痛みも。勢いよく扉を開いて、そこで足が止まった。頭が痛かった。飛び跳ねながら付いてきたサメが短く悲鳴を上げる。忘れていただけで、思い出せないようにしまい込んでいただけで、航平はその光景を知っていた。

「ねえちゃん」

 狭い風呂場の奥、水を張った洗面器に左手をつけたまま、ぐったりと台にもたれる凪珊が居る。深く切り裂かれた手首からは絶えず血が流れだしていて、そのせいか頬はいつもより白かった。目の前の光景と記憶の中のそれが混ざって吐き気がした。

 風呂場の入口に座り込んで膝を抱える。姉の死体を二度も抱える勇気は、航平には無かった。

「馬鹿だなぁ、ほんと」

 前に彼女が手首を切ったのはいつだっただろう。もう随分前のことだ。あの時は、たまたま父が急に早く帰ってきて、救急車を呼んでくれたんだっけか。その辺りの記憶はもう朧気だ。

「死なないでよ、ねえちゃん」

 パズルのピースがはまるように、慎の嘘が解けていく。

「おれ、ひとりじゃ無理だよ」

 何があったのかは分からない。航平には凪珊の心は難解で、彼女は大事な時ほど言葉足らずだった。

「おれ、姉ちゃんが居ないと無理だよ」

 でも、あの雪の日、凪珊は自分で死んだのだろう。こうやって手首を切ったのと同じように、包丁をその身に突き立てた。航平が見た人影はきっと一足先に惨状に気が付いた慎だ。

「なぁ、知ってるでしょ」

 吐き出した言葉に返事はない。あの時と同じように、航平を置いて死んでいく彼女はなにも答えをくれない。

「おれ、甘ったれなんだよ」

 視界が滲んで水滴が落ちた。

「あんたが居ないと、掃除もさぼるし、レトルトカレーすらうまく温められない」

 サメの手が労わるように背中に触れた。心臓が痛かった。呼吸が出来なかった。流れ落ちる水滴は馬鹿みたいに熱かった。

「ねえちゃん」

 この熱が、もしもあとほんの少しでも彼女の心に届いていたのなら、こんな事にはならなかっただろうか。問いかけてみて、そんなはずはないと首を振る。

「おれじゃ、あんたを引き留める理由にはなれねえんだな」

 追いかけているだけでは、星の孤独は埋められない。手を伸ばしているだけでは、星の涙は拭えない。守られているだけの航平では、汐野凪珊は守れない。

 汐野凪珊の生きる理由にはなり得ない。

「悪いの、ぜんぶおれじゃん」

 凪珊を引き留められなかった。

 慎にひとりで全部背負わせた。

 嘘を吐いて愉快になる人間でもないのに、ずっと一人きりで嘘を吐かせた。

 挙句、全部なすりつけて怒鳴って、殴って、お前のせいだと糾弾して。

「おれが悪いじゃん」

 溢れた水が足元を濡らしていくから、寒さが身に染みた。涙を拭いて、顔をあげる。力なく項垂れる凪珊を見たら、また涙が滲んだけれど、もう下は向かない。

「おれ、帰んなきゃ」

 柏木慎を忘れて、それでも救われなかった凪珊を目に焼き付ける。大好きだったひと。これからもずっと、大好きなひと。航平のためには生きてくれない、愛おしくも憎らしいその人を最後に一度だけ抱きしめて、航平は立ち上がった。

「慎に謝んなきゃ」

 たとえ許されなくても。

 彼の優しさを踏みにじることになっても。

「ちゃんと、話しなきゃ」

 それでもきっと、一人で背負うよりは、彼の痛みが薄まるはずだから。

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