第32話 その楽園は少年の泣き声がする

 サメの手を誰かが引いて、記憶の海が遠ざかっていく。引き上げる手は力強く、痛いくらいだった。やさしくて、やわらかで、残酷で、あまやかな記憶が遠ざかっていく。彼女が最後に感じていた心の痛みがサメの中に色濃く残って、息が詰まった。

(それでも)

 痛みを抱えたまま、意識を取り戻しながら、サメは思う。

(それでも、彼女は幸せだった)

 あの、記憶の海は彼女にとって、優しい場所だった。出会った事を後悔しても、分かり合えない事が寂しくても、自分の過去が彼を傷つけたことに傷ついても。

 それでも、汐野凪珊は、彼との日々を、確かに幸せなものとして記憶していた。それがサメには嬉しくて、少しだけ悲しかった。


***


 姉に手を引かれるまま、航平は廊下を進む。階段を下り、保健室の前を通り過ぎ、昇降口が見えてくる。開け放たれた扉から入ってくる風は冷たくて、雨の匂いがした。

「慎は?」

 てっきり玄関で待っているのだと思っていた人が居なくて、航平は足を止める。まさか、喧嘩だろうか? ズキリ、と頭が痛んだ。

「まこと?」

 振り返った凪珊は不思議そうに瞬きを死ながら首を傾げる。まるで、柏木慎を知らないみたいに。

「慎」

 オウム返しで言葉を返す。知らないはずがない。忘れてしまうはずがない。だって、姉にとって、慎以上の理解者は存在しなくて。

「コウ、まだ寝ぼけてるの?」

 指を揃えて、凪珊は航平の額に触れる。「熱はないねぇ」反応の意味が分からなかった。理解出来ない。したくはないと頭が拒んでいる。

「寝ぼけてねえよ。姉ちゃんこそ、どうしたの?」

 これは、一体、だれだ?

 怖くなって、二、三歩と後ろに下がる。握りしめていたはずの右手はあっという間に離れて、ぶらん、と二人の間で揺れた。

「慎だよ」

 凪珊は瞬きを繰り返す。

「柏木慎」

 視界が揺れる。

「姉ちゃんの、運命のひとでしょ?」

 あの日、あの、夏の日。運命のひとに会ったと、泣きそうな顔で言った凪珊を、よく覚えている。慎を見つめるとき、柔らかく目を細めるのを知っている。

「覚えてるでしょ?」

 あの日の凪珊と、目の前のポカンと呆ける凪珊が上手く重ならなくて、息が出来なかった。視界がブレる。凪珊が揺れる。伸ばされた手を払い落す。

「覚えてるって、言って」

 眉を寄せて、凪珊は困ったように首を傾ける。記憶を探っているらしい仕草に吐き気がした。思い出さなきゃ分からないほど、凪珊は慎と遠くないはずで。四六時中考えてるんじゃないかってくらい、彼のことばかり見ていたはずで。

 それが、航平の知っている汐野凪珊だ。

「ねえちゃん」

 じゃあ、慎を知らないこの人は、一体誰だ?

「覚えてるでしょ、分かるはずだろ」

 詰め寄って、細い肩を掴んで揺さぶる。意味が分からなかった。これが自分の夢なら、凪珊の中から慎が消えているはずがない。だって、出会ってからの方が幸せそうだった。

 家を出たらいつだって一人で、背中を丸めて孤独に押しつぶされそうになってたのに、慎に出会ってから、背筋が伸びた。笑顔が増えた。なんでもない事で、くよくよ悩むようになった。

 それが、幸せな変化だったと、航平はよく知っている。

「わからないよ」

 吐き出された言葉は、絶望するには充分だった。

「かしわぎまことって、一体だれ?」

 鈍器で側頭部をぶん殴られたみたいな衝撃だった。肩を掴む手から力が抜けて、ふらふらと後ずさる。彼女は確かに航平の姉なのに、あの日死んだ、汐野凪珊ではなかった。航平が守れなかった、もう一度会いたいと渇望した、凪珊ではなかった。

「ははっ」

 地獄のような楽園で、航平は目を瞑る。

「当たり前だよな」

 廊下の真ん中に蹲れば、瞼の裏に白い雪の上で眠る、彼女が見える。

「死人には、もう会えない」

 分かっていることだったのに、夢を見せられたあとに受け入れるには、その現実は重すぎた。そっと頭を撫でられる。その優しさは、温度は、確かに汐野凪珊の物で、航平は目を閉じたまま、細い指に縋りついた。

「あぁ、あぁ、そうでしょうとも」

 鼓膜に声が流し込まれる。勢いよく顔を上げれば、ニィ、と丸く細められた赤い目と視線が交じった。

「あなたはその手を振りほどけない」

 時間が静かに止まる。目の前の凪珊も、保健室から出て来た女生徒も、廊下を走り抜けていったクラスメイトも。皆が、瞬きも呼吸も忘れて、止まっている。

「あなたはこの楽園を否定できない」

 首を傾げて、そうでしょう? とそれは嗤う。

「求めた人ではないと知っても。兄のように慕った友が消滅していると知っても」

 ふふ、とそいつは楽し気に笑う。航平は見知った顔を睨みつけた。

「なにしてる、影法師」

 赤い目はわざとらしく瞬いて、ゆっくりと立ち上がった。纏った着物の長い袖がさらりと音を立てながら床の上を滑る。豪奢な柄が目に毒だった。

「なに、と言われましても。それがしは柏木殿の依頼を遂行しているだけでして、ふふ」

 航平は眉を寄せて首を傾げる。

「慎からの依頼?」

「えぇ、えぇ。彼の考えた楽園にあなた方を閉じ込めて欲しいと、ふふ」

 この地獄のような甘い夢を、あいつは確かに楽園と呼んだらしい。

「楽園でしょう? 汐野凪珊は死なず、彼女を殺した憎き殺人者は消滅している」

 素晴らしい世界でしょう? と影法師は目を細めて嗤った。それは確かに微笑みではなく、嘲笑だった。嗤われたのは、自分が居ない世界を楽園と呼んだ慎か、違う人だと気付きながら姉の手を離せない航平か。分からないから、口を噤んで止まったままの凪珊を見上げた。

 上を向いた拍子に頬を素敵が伝った。何が苦しくて泣いているのかも、もう分からない。

「おれ、もうどうすればいいか、わかんねえよ」

 まこと、と小さく呼んでしまったのは、彼ならばただ優しく笑って、一緒に悩んでくれると知っていたからだ。慎との間に積み上げた感情が、凪珊を殺した人間に対する憎悪と噛み合わなくて、どちらを選べばいいか分からない。矛盾した感情が、腹の奥で暴れまわって、苦しかった。

「立ち止まってしまえばよろしい」

 前に回り込んで、影法師は正面から航平の顔を覗き込む。赤い瞳の中に震える自分が映り込んでいて、まるで閉じ込められているみたいだと思う。至近距離で見た瞳は、存外真摯な色をしていたから吐き出しかけた否定を飲み込む。

「立ち止まって、思考を放棄して、夢に溺れていればよろしい。そうすればきっと、現実のことなど、全て忘れてしまえる」

 甘言が耳から浸み込んで、頭の中に靄を作っていく。

「この夢を、あなたの現実にしてしまえば良い。だって、きっとそれを望んでいる。あなたもそう思うでしょう?」

 問いかけが上手く理解出来なくて、航平は額を押さえた。視界がぐらぐらと揺れて気持ちが悪い。勝手に瞼が閉じていく。

「あぁ、あぁ、抗ってはなりません」

 甘やかな声音に体が溺れていく。

「だいじょうぶ。あなたはきっと、この楽園を好きになれる」

 懇願のように聞こえたその言葉を最後に、航平はまた意識を手放した。目を閉じ切る刹那に見上げた赤い瞳が、最後に見えた慎の目に重なって見えて。手を伸ばしたけれど、届いた感触は無かった。

「はは……」

 ぐらり、と傾いた航平の体を抱き寄せて、影法師は乾いた笑い声を落とす。

「あなたであれば、と道を譲った代償が、彼女の死と地獄のような楽園の運営とは……」

 死んだ魚のような目で自分に会いに来た少年の顔を思い出す。

「まったく、わりに合いません」

 共に生きたいと、初めてそんな不相応な願いを抱いた少女の顔を思い出す。思い出そうとしたけれど、妖の記憶は明け方に見るやわい夢のように曖昧で、もう輪郭すらも描けなかった。柏木がどうか頼むと頭を下げて預けていった少年を背負って、影法師は小さく笑う。

 よもや、あの誰の傍にも近づこうとしなかった幼子が、友と呼べる存在を得るとは。

「まったく、長生きもたまには良いものです」

 悠久の時を生きる妖は、だれも知らない場所で微笑んで、硬く瞼を閉じた少年を夢のなかへと送り届けた。

「願わくば、その身に平穏と幸福があらんことを」

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