第31話 君の涙はわたしのせいで、わたしの傷は君のせいだった

 雨が降っていた。

 学園の周りで人を襲っていた妖を殺して、その死体を瓶に詰める。赤黒く濁った粘着質の液体。死してなおこの世にしがみついた理由も忘れて、ただ孤独を埋めるためだけに人を喰らう、化け物の残り香。

 雨に濡れた小瓶を袖口で拭いて、凪珊は深くため息を吐いた。寒さに吐息は白く濁る。

 例えもう死んでいるモノだったとしても、生に縋ろうとする彼らを殺すのは、いつだって心に重い影を残す。そんな事を言ったら、慎は呆れたように笑うかもしれないけれど。

 もう一度息を吐いて、凪珊は死体の入った小瓶をポケットにねじ込んだ。

 帰ったらココアを飲む事だけ考えて、帰路を急ぐ。

 協会の中に入ると、よく効いた暖房に出迎えられて、強張っていた体から力が抜けた。あとは小瓶を七夕に届ければ、今日の任務は完了だ。

 慎はどこに居るだろう。もし暇そうにしていたら、昨日話せなかったクリスマス会のことを話すのもいいかもしれない。泣いたことも、泣きそうな顔だったことも、忘れたフリをして。薄っぺらくて、どうでも良くて、楽しい話だけしていたい。身勝手な事を考えながら、七夕の研究室の扉に手をかける。

「俺のせいでしょ!?」

 扉を開けられなかったのは怒鳴り声が聞こえたせいで、立ち去れなかったのは聞こえたのが慎の声だったせいだ。

「ちげえって言ってんだろ」

 七夕が低い声を返す。

「違くない!」

 慎が怒鳴り返す声が聞こえた。こんな風に感情的に怒っている彼の声を聞くのは初めてで、聞いちゃいけないと思うのに体が動かなかった。

「慎」

 諫めるように、強く七夕が慎を呼ぶ。

「覚えてんだよ……」

 覚えてんの、と繰り返した慎の声は震えていて、泣いているのだとすぐに分かった。心臓がキリキリと痛んで息も出来ない。

「母さんが喰われてんの、俺、ただ見てた」

 ヒュ、と息を飲んだ。

「他にはもうなんも覚えてないのに、その日のことだけ、今も覚えてる」

 泣きながら、慎は言葉を吐き続ける。

「五歳だったんだ、しょうがねえだろ」

 その言葉でようやく、彼が五歳の時には両親がどちらも死んでいたのだと思い出す。

「しょうがなくない!」

 感情に任せて何かを殴りつけたのか、ガラガラと物が落ちる音がした。

「しょうがなくないんだよ、だって、汐野は守れた」

 言葉が肌に突き刺さるようだった。

「俺、あの日何してたと思う?」

 濡れた声が彼の心を引き裂きながら、血まみれの言葉を並べる。

「ただ見てたんだ。怖いって泣きながら、膝抱えて、母さんが化け物に喰われてくの、ただ見てた」

 鋭い声が幼い彼を殺しながら、凪珊の心に傷をつける。

「自分だけ守って」

 五歳の子供なら、それだけ出来れば及第点なのに。彼だってそう思っていたはずなのに。凪珊が、慎の後悔に薪をくべてしまった。昨日、彼が傷ついた理由が分かってしまった。

「母さんのこと、守ろうともしなかった」

 神様は残酷だ。

「俺には、力があったのに」

 運命なんてものがなければ。

「そしたら俺、今も、ちゃんと母さんのこと覚えてられたかもしんないのに」

 あの日、彼に出会わなければ。

「俺、母さんの名前も覚えてない」

 こんな風に、彼が泣く事なんて、無かったのに。

「おれが、母さんから名前も、過去も、ぜんぶ奪った」

 こんな風に傷をつけたのは自分なのに、声も出せないまま泣いていた。

「ぜんぶ、おれのせいだった」

「慎」

「おれのせいで」

「ちげえから」

「母さん、ぜんぶ無くしたんだよ」

「悪いのはお前じゃない」

 慎の空っぽな声の隙間で、七夕の声が空回る。

「おれが」

 誰の声も届かない暗くて寒い場所で、慎は自分の肌に爪を突き立てる。

「おれが死ねばよかったのに」

 肌から浸み込んだ声が、心を焼くように痛かった。黒い闇が彼を飲み込んでいく。

 違う。

 違う。

 違う。

(慎を、闇のなかに突き落としたのは、わたしだ)

 あの日、理解者を求めた愚かな女だ。

 あの日、彼に触れて恋をした浅ましい女だ。

 彼の身に起こったことを知っていたのに、得意げに思い出話をした身勝手なわたしだ。

「ちげえから」

 七夕の震えた声が聞こえる。

「お前が無事で良かったって、思ってるから」

 慎の泣き声がくぐもって、七夕が抱きしめたのだろうと分かった。

「だから、死ぬな」

 頼むから、そう言う七夕の声は掠れていて、心臓に突き刺さるようだった。扉の前に蹲って、声を殺しながら泣いた。昨日にもし戻れるなら、あんな話はしないのに。戻れなくても、彼の中から傷だけ綺麗に消せればいいのに。愛された記憶だけ、ぜんぶ綺麗に消えてしまったみたいに。

 今度は、痛みだけ、綺麗に──。

 目の前で火花が弾けたような気がした。涙は勝手に止まって、心臓が早鐘を打つ。素敵ではない。褒められたものじゃない。彼は、きっと喜ばない。

 でも、方法はひとつだけある。

 凪珊との会話で、彼の傷口が開いたのなら、会話を、その記憶を、消してしまえばいい。汐野凪珊との全てを、慎の中から、綺麗に、ぜんぶ。

 気が付いてしまった答えは、寂しくて痛くて悲しかったけれど、でも、それでいいと思えた。彼が、こんな風に泣いたことが、死ねば良かったなんて言ったことが、無かったことになるなら、それで。

 それだけで、命も過去も名前も、ぜんぶ捨てるには充分過ぎる理由になる。

(わたしの全部を、君にあげるから)

 全部使って、綺麗に消えて見せるから。

(だから)

 涙を拭って立ち上がる。

(だからどうか、そんな風に泣かないで)

 扉に背を向ける。昨日触れたばかりの慎の体温を心の中で抱きしめて、少女は振り返らずに前を見据えた。

 降り続いていた雨が、みぞれに変わったのは、それからすぐ後のことだった。

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