第30話 言葉ひとつも言えないのは、お互い様だった

「まこと」

 彼を呼ぶ自分の声が溶けているのを自覚する。初めて会った日に芽生えた初恋は、二年半も経った今でも殺しきれないままだ。

「汐野」

 マスクの向こうで微笑んだ慎にマグカップを差し出す。二人きりの慎の部屋。隣ではなく、机を挟んだ真向いに座ってココアを一口飲む。あたたかい液体が喉を滑り落ちていくのは心地よかった。両手で握りしめたマグカップは火傷しそうなくらい熱くて、あの日握り返した慎の右手みたいだと思う。

 そういえば、ちゃんと触れたのはあれが最後だったかもしれない。リップクリームを塗った唇を舐める。当たり前に苦くて顔をしかめた。

 誰にも言えないキスは両手じゃ足りないくらいしたはずなのに、彼の心はまだ溝の向こう側にある。かさついた慎の唇をじっと見つめた。世間はハロウィンを終えて、あっという間にクリスマスへと向かっている。

「ん?」

 ココアを見ていた慎が視線に気づいて顔を上げる。

「どーかした?」

 その声が、優しく溶けているのを知っている。

「」

 好き。

 こぼれた気持ちは結局言葉にならなくて、吐息になって部屋の空気に混ざった。臆病なところは今も変えられずに居る。

「クリスマスだなぁって思っただけ」

 誤魔化すようにココアを飲んだ。ぱちくり、と瞬きをした後で、慎はふぅ、とココアに息を吹きかける。

「そうだね」

 濁った心をかき混ぜるみたいに、話題を探す。クリスマス。大きなケーキとフワフワのラッピングに包まれたプレゼント。リビングのクリスマスツリー。

「クリスマスにね」

 取り出された思い出をよく確認もせずに声に乗せた。

「一回だけ、妖に襲われたことがあってね。私はまだ五歳だったし、航平もちっちゃくて」

 大変だった、と言いながら、慎の顔が凍り付いていくのを見ていた。何かを間違えたと気が付いても、止まるにはもう遅すぎた。

「へえ」

 慎はココアを一口飲んでから、つま先を見つめたままにこりと笑った。愛想笑いだとすぐに分かった。分かるくらいには、凪珊は彼の近くに居た。

「誰かが助けに来てくれたの?」

「ううん、ひとりきり」

 航平は泣きじゃくるばかりで、両親には敵が見えなかった。ひとりきり。何一つ分からないまま、握った刃物で妖を殺した。だらりと肌を伝った奴の死体がまるで返り血みたいで。

 自分が酷く汚いものになったのだと自覚したことだけ、今もはっきりと覚えている。

「汐野?」

 慎の顔がぼやけていた。瞬きをしたら、雫が頬を伝って、それで初めて、自分が泣いていることに気が付いた。目元を細い指が撫でて、水滴をさらっていく。水滴を舐めとる舌はいつも通り艶めかしくて、困った。

「もう、こわくないよ」

 涙で濡れた声で言う。

「うん」

 止まらない涙を慎が拭ってくれる。触れられる指先にすり寄って、手を掴んだ。

「こわがってないから、そんな顔しないで」

 マスクをしていたって分かるくらい、泣きそうに顔をしかめる慎の手をそっと撫でる。この手の体温が移って、彼の心に浸み込んで、忘れられなくなってしまえばいいと思った。

「うん」

 掴んでいるのと反対の手が伸びてきて頬を撫でられる。温かさは勝手に肌から心に刻まれて、もう一生消せない傷になる。細い指先で、切りそろえられた形の良い爪で、彼は何度も、心の柔らかなところに傷をつける。言葉ひとつもくれないくせに、忘れられないことばかり増えていく。

 痛くて、辛くて、甘くて、苦くて。

 どうしようもないほど、恋をしていた。

「泣かないで」

「うん」

 互いに頷くくせに、慎の顔は泣きそうなままで、凪珊の涙は止まらないままだった。触れ合っている手の震えだけが唯一誠実で、本当で。凪珊にはそれだけがあれば良かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る