第29話 落雷のような初恋で、降り積もる雪のような失恋だった
七夕との出会いから二週間。手続きや準備──と言っても、ほとんどの家具は備え付けだったので着替えを鞄に詰めただけだが──を終え、移り住んだのは山と畑に囲まれた静かな場所だった。木々も草も花も虫も、人も。なにもかもが近くて、少しだけ、本当にたまに、息が詰まる。
寮の中庭に向かいながら、凪珊は久々に確保した一人の時間に、ゆっくりと息を吐く。人が近すぎて困るなんて、初めての経験で。困っているし、辛いときだってあるのに、心のどこかは嬉しいと思っている。
「きて、よかったな」
小さく、確かめるように呟く。中庭はもう目の前だった。凪珊が細く開けた扉の隙間から、小さな幽霊のなり損ないがひらひらと泳いでいく。つい、いつもの癖で視線を向けた。柔らかな日の光を透過して、そこだけ、妖精の居る森みたいだと思った。
綺麗だと、思った。
楽し気に踊りながら、魚は進む。凪珊も小さく微笑みを浮かべたまま、その動きを視線で追った。
太陽を求めるように魚は一心に空を目指して――そこで、黒い刃に貫かれた。は、と息を飲む。目の前の光景の意味が理解出来なかった。太陽を求めて、ただ空に近づきたいと願っただけの生き物が、無残に空気に溶けていく。
「あれ? 見ない顔だね」
刃の持ち主が笑いを含んだ声でそう言って、凪珊を視界に映す。黒髪が日に透けるさまが綺麗だった。視線が交わって、二人の思考が交差する。
(このひとだ)
理由なんて分からない。
根拠なんてひとつもない。
(このひとが、わたしの運命だ)
けれども、その時確かに、二人は同時にそう確信した。呼吸が止まった永劫のような刹那のあと、先に動いたのは少年の方だった。握りしめたままだった刃を空に溶かして、ゆっくりと近づいてくる。後ずさりたくなった気持ちの意味を、凪珊は知らない。
「きみが、七くんが連れきた特級?」
特級?
「あぁ、ごめん。そうだよね。まだ、階級とか知らないよね」
こちらの思考を読んだみたいに、彼は話を進める。凪珊はぱちくりと瞬きを繰り返すことしか出来ない。話かけられたら、どうするのが正解だっけ。
「えーと、なんて言うのかな」
目にかかるほど長い前髪を揺らして、少年は斜め上を見上げる。凪珊もつい、彼と同じ方を見た。そこには虹色に光る彼岸の羽虫が居る。少年はス、と目を細めて、羽虫を刺し殺した。この世に縋りついていた小さな命は、まるで紙をちぎるように呆気なくこの世から消滅する。
「はは、ほんと勘弁してほしいよね」
少年は乾いた笑みを浮かべながら凪珊を見た。
「妖なんて、みんな死ねばいいのに」
低く、そう呟く。嫌悪よりも深くて、憎悪にしては愛の痕跡がない。心の底から、ただ、嫌いなのだろう。
「あ、いや。もう死んでるんだっけ」
誤魔化すように少年はおどけて笑った。凪珊は笑みを返せない。ただ静かに少年の黒い目を見つめる。
この人が、同じ視界を持っている、世界で唯一、凪珊を理解できる人だ。凪珊を理解できる人だと思っていた。期待していた。会えば、それだけで、救われると思っていた。けれど、少年は凪珊には分からない嫌悪を、妖に向けている。
凪珊と、彼の間には、当たり前のように溝があって。
凪珊と彼は、当たり前に別の人間だった。
期待がしぼんで、棘が刺さったような痛みだけが残る。凪珊はどうにか笑みを作った。
「はじめまして」
少年がゆっくりと瞬きをする。まつげが案外長いことに気が付く。
「わたしは、汐野凪珊」
滑らかな頬の上で、まつげの影が躍っている。それが綺麗で、つかの間、言葉を忘れた。途切れた言葉を補うように、少年が言う。
「俺の、運命のひと?」
細められた瞼の向こう、緩んだ瞳が優しくて綺麗だから、凪珊は泣きそうだった。少年は一歩、前に出て凪珊の目元を撫でた。触れた親指は息も出来ないほど熱くて、そこで火花が弾けたみたいだと思った。
「しょっぱい」
親指の水滴をなめとって、彼は歯を覗かせながら笑う。そういう顔をしている時は、存外幼く見えると知った。
「俺は柏木慎」
柏木はそこで一度言葉を切って、首を傾けて笑みをおさめた。
「君の、運命のひと」
見つめられたところから、彼が浸み込んでくるようだった。心臓が高鳴って、耳鳴りがする。頬が痛いくらい熱かった。長いまつげの向こうで、黒い瞳が面白そうに細められる。
「なーんて」
おどけたように、慎が笑う。二人の間にあった、息が詰まりそうなくらい張り詰めた空気はそれだけで緩んで、凪珊は深く息を吐き出す。
「ははっ、君、おもしろいね」
それじゃあ、今日からよろしく、と差し出された男の人にしては細い、けれど自分よりは一回り以上も大きな手を握り返す。他人の温度は眩暈がするほど鮮烈だった。心臓はまだうるさい。きゅ、と自分より暖かい手を握りながら、初恋の意味を知る。
離したくない。
離されたくない。
身勝手な欲が頭をもたげる。
「よろしく、わたしの運命のひと」
意識して冗談っぽく笑えば、彼は手を離して肩を震わせた。本当にそう思っているなんて知られたら、彼はどんな顔をするだろう。
「うん、よろしく、俺の運命のひと」
目元に滲んだ涙を拭いながら、柏木が言う。優しい笑みが、いっそ残酷だった。二人を繋いだのは、神様が与えた目で。それはつまり、運命のようなもので。確かに凪珊は柏木の運命で、柏木は凪珊の運命だった。
(でも)
心臓が悲鳴を上げている。芽生えてしまった恋を殺しきれずに悶えている。
(でもそれは、赤い糸なんかじゃない)
同じなだけではとても救われない。
雷が落ちたみたいに全身を貫いた初恋は、始まった時から終わりが見えていた。同じで、同じはずなのに他人の二人。その間には、大きくて深い溝が確かに横たわっている。
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