第28話 夏の始まり、縁の結び目
教室に入る前は、いつも少し体が強張る。途中で身に着けたマスクを鼻に押し当てて、無理やり口角を上げて、わざとらしく深呼吸を繰り返す。廊下のざわめきが肌に突き刺さるようだった。いたたまれなくて視線を落とす。上履きの汚れが嫌に目についた。
もう一度笑顔を作って、覚悟を決めて、後ろ側の扉を開ける。
「」
おはよう、と言うはずだった声は、今日も臆病風に吹かれて飲み込んでしまった。一瞬だけ何人かの視線が凪珊を捉えて、なんの反応も示さずに離れていく。にっこり作った愛想笑いは、今日も役立たずのまま死んでいく。
他人のことに過敏なくせして、盛り上がらない話題は簡単に無視して、体力を温存する。乾いた埃の匂いがする教室は、いつだって、時代遅れの変わり者に冷たい。
談笑するクラスメイトを横目に窓際の自分の席に座って、体を机に預けた。何も見たくはないから目を瞑って。羨ましくなるだけだから耳を塞いで。
そうして、今日も、ひとりきり、殻の内側で腐っている。
***
退屈な時間ほど長いから、学校が終わるころには疲れ切っていて、凪珊は行きよりもずっと重く感じる鞄を背負いなおした。もう日が長くなっているのか、夕方だというのに日暮れにはまだまだ遠い。傾いた白い太陽は朝と同じに眩しくて、凪珊は小さく笑った。
「こうへー!!」
弟の名前が聞こえて、帰り道の脇にある公園に視線を向ける。青々としげった緑の向こう。友達とボールを投げ合う弟の姿が見える。チクり、と痛んだ心臓には知らないフリをした。羨ましくなんてない。
「ともだちなんて、べつにいらない」
呟いてみたら、心臓からタラりと血が出たようで、じくじくとした痛みが増した。自分に嘘は吐けないって本当だ。
弟に気が付かれないように静かに公園の脇を通り抜けて、声が聞こえなくなった辺りでようやく深く息を吐いた。背後からやってきた二台の自転車が凪珊を追い越しながらも、何事かを大きな声で話している。風がさらった笑い声が、凪珊の心を引き裂いて、後ろへと流れていく。
「いいなぁ……」
漏れた本音は、醜く嫉妬に濡れていて自己嫌悪だけが募った。呟くだけで友達が出来たらいいのに。
航平に気づかれないまま、追い抜いていく自転車に声をかけられることもなく、凪珊は家の前にたどり着いた。もう帰宅していたらしい母親と、黒い背広の知らない人が玄関前で話しているのが見える。詐欺師だろうか? 金髪が陽の光を反射して怪しく光る。
「あ、なぎさ」
凪珊を見つけた母の顔が優しく緩む。どうやら危ない人ではないらしい。
「あぁ、君が」
切れ長の青い目に射抜かれて、凪珊はつかの間呼吸を忘れた。
「ええと、俺は
何故か最後にクエスチョンマークを浮かべて、その人は言った。凪珊はただぱちくりと瞬きを繰り返す。と、不意に目の前の人は凪珊の背後を指さした。つられて、凪珊も視線を向ける。
「俺はあれが見える」
そこに居るのは異形だった。
襤褸を纏った小さな体。だらりと垂れ下がった皮膚で地面を擦りながら歩いている。額の皮膚で半分隠れた両目が自分を視認する誰かを探してきょろきょろと動いた。凪珊は微笑んで片手を振る。
「……へぇ」
男は瞬きをした後で、ゆっくりと口角を上げた。
「それで、あの、死神協会って、なんですか」
聞きながら、凪珊は既に答えを知っていた。あの会話が全てだ。心臓が飛び跳ねる。
「あー、なんだ、その……そうだな。この世ならざる化け物どもが見える人間の集まりだって事だけ分かっててくれればいい」
途中で説明を端折ったのが分かったけれど、確かに教えてもらう情報はそれだけで十分だった。唇がむずむずする。期待と不安が胸の中でタップダンスを始める。
「俺は君の運命を、君と同じ視界を持つ男を知ってる」
耳の奥で心臓が一際大きく鳴った。ここから始まる、と分かる。物語だったら、最初の一ページ。人魚姫なら、王子様を見かけるシーン。劇的な出会いが世界を変えていく、そんな期待で胸がいっぱいになる。
「会いたいか?」
ゆっくりと頷く。ごくりと唾を飲んだ。
「友達とも、家族とも離れることになるけどいいのか?」
それほどの価値が、まだ出会っても居ない男にあるのか、と問いかけられる。凪珊の答えは決まっている。
「いいです」
価値はある。
同じ目を持っている。誰かに会いたいと願うのに、それ以上の理由はあるだろうか? 他人にはあるだろう。でも、凪珊にとってはそれ以上に心が躍る理由なんて無かった。初めてテーマパークの門をくぐったときのように、感情が昂った。
「わたし、その人に会いたい」
風が丁寧に櫛をいれた髪をさらって吹き抜けていく。草の匂いがした。濃い雨の匂いがした。夏が来ている。
何かが始まる、夏が来ていた。
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