第27話 なにも知らないままで許したりしないで
「もう、どこにも行かないで」
凪珊の細い腕に抱きしめ返される。
「きみが望むなら、私はどこにだって駆け付けるし、きみが言うなら私は鳥かごの中で繋がれたって幸せだよ」
体を離されて、白い指先がぐしゃぐしゃの目元を拭っていく。涙で緩んだ目を細めて凪珊は航平を見る。その目があんまり綺麗で優しいから、言葉が出なかった。
こんな風に言ってくれる人を、あの日、一人で死なせた。
「わたしはきみのお姉ちゃんだもの」
少しだけ得意げに凪珊が笑う。
「きみのそばに居るよ」
撫でられたところが温かった。触れ合っている部分が温かった。夢にしては随分とリアルで、息が詰まった。
「さぁ、かえろう」
幼かった頃のように手を引かれて廊下を進む。廊下のざわめきも向けられる視線も、全部がどうでも良かった。きゅ、と細い手を握り返して、深く息を吸い込む。
「ねえちゃん」
「ん?」
足を止めないまま、前を向いたまま、それでもちゃんと声が返ってくる。嬉しくて、同時に昨日まで失くしていた物の大きさを思い出して、声が震えた。
「ごめんな」
守れなくて。
一緒に死ねなくて。
「ごめん」
きっと何も伝わらない。こんな謝罪だけでは、何も。言葉をつくして説明したって、分かってもらえるとは思えない。こんなのは、ただ、許されたいだけの、楽になりたいだけの、自分勝手な謝罪だ。
「うん」
甘やかな声が返ってくる。
きっと、何も分かってないのに。
「いいよ」
彼女はいつだって、
「こうへいがしたことなら、いいよ」
弟だからいいのだと、航平を許す。
許して欲しかったはずなのに、いざ許されてしまうと苦しくて。身勝手な思考に吐き気がした。
***
サメは影の中を落ちていく。あたたかくて、やさしくて、あまくて、ほんの少しも怖くない場所に居た。誰かに、細い手に導かれて暗闇の中を落ちていく。
「さがして」
少女のか細い声がした。
「かれを、たすけて」
細く、けれども強く。
願いを託されて、サメは遠い日の思い出の中に沈み込んだ。
少女は黒髪を丁寧に梳かす。それが世界の行く末を決めるみたいに、何度も櫛を通した。
「姉ちゃん、俺先出るよ?」
蓋の止まっていないランドセルは弟が動くたびにガタガタと音がしてうるさい。青色のランドセルの上を、この世ならざる小さな魚がじゃれるように泳いでいる。
「ちょっと待ってて」
凪珊はせっかちな弟を玄関に留めて、もう一度だけ前髪を整えた。今日初めて袖を通した中学の夏服は、真新しい白が少しだけ眩しい。鏡に映る自分の姿をチェックして、凪珊はようやく洗面所を出た。
「姉ちゃんおーそーい」
今年小学六年生になったばかりの弟は、段々と生意気になってきた。尖った唇を指先でつついて、凪珊は彼のランドセルの蓋をきちんと留める。
「留めなくても別にひっくり返したりしねーのに」
子ども扱いが不満な年ごろらしい。
「でも、走ったときに誰かにぶつかるかもしれないでしょう?」
学校指定の白い運動靴に足を突っ込みながら言えば、仕方なさそうに肩を落とした。少し生意気で、誰に似たのか言葉遣いが荒くて、まっすぐで、とても優しい自慢の弟。自分とよく似た癖っ毛の髪を撫でて、凪珊は玄関のカギを開けた。両親は朝早くから仕事に出ていて、もう居ない。
「行ってきます」
「いってきまーす」
二人で声を揃えて、無人の家に挨拶してから、外に出た。段々と強くなりだした日差しが肌を焼く。航平はうげぇ、と眉を寄せながら太陽を睨んでいる。今からそんな調子では、夏本番が来たら一体どうなってしまうのやら。
「こうへい」
学生鞄を背負いなおしてから、凪珊は弟を呼んだ。まるくて大きな瞳が凪珊を映す。
「いってらっしゃい」
満面の笑みを浮かべて、航平は言う。
「いってきます!」
中学とは反対方向に駆けていく弟が曲がり角の向こうに消えるまで見送って、凪珊はようやく足を動かした。俯いて歩いていると、足元にトカゲとも魚ともつかない半透明の生き物がじゃれついてくる。少しだけ、呼吸が浅くなる。
ジーン。ジーン。ジーン。
気の早い蝉が鳴きだして、強く風が吹き抜けていく。
夏だった。
なんの変哲もなくて、あっという間に凪珊を置いて死んでしまう、刹那的な夏が、すぐ傍まで迫っていた。十四度目の夏。
初恋の痛みは、まだ知らない。
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