第38話 言葉ひとつも言えないことが罪だった
七夕に手を引かれて、寮の中に戻る。スニーカーで雪の上に出ていたものだから、靴下までびっしょりで、随分久々に拳骨をくらって柏木は寮の入口に立ち尽くしていた。七夕は替えの靴下とか、あったかい飲み物を持ってきてくれるらしい。絶対動くなよ、約束だからな、と言われてしまっては、逃げ出すことも出来なくて、手持無沙汰に天井を見上げながら鼻をすする。
ぼぅっとしている間にどのくらいの時間が過ぎたのかは分からない。ただ、なんとなく、変な感じがしたから、柏木は視線を動かした。
中庭の方向。
ざわざわと肌を撫でる感じた事のない空気。それが何かは分からなくても、それが良くない物であることは確かだった。ス、と息を吸い込めば、濃密な死の匂いが鼻の奥まで入り込んだ。ぎゅっと眉間に皺を寄せて、玄関から中庭の方を睨む。
嫌な何かは、こちらに迫ってくるでもなく、ただそこに在った。それが関心を向けているのは、どうやら柏木ではないらしい。特級の霊力に釣られないという事は、妖ではないのだろうか。
それとも、×××の方に――――。
「は?」
記憶にノイズが走る。何かが勢いよく剥がれ落ちていく気がする。柏木は濡れた靴下のまま、弾かれたように駆け出した。消えていく。大事なひと。忘れるはずのないひと。するすると重りのついた紐が手のひらを擦りながら落ちていくように、記憶が抜け落ちていく。
名前が思い出せない。
顔が思い描けない。
声を再生できない。
肌の温度も、輪郭も、指の細さも、言葉の優しさも、何もかもが分からなくなっていく。確かにそこに誰かが居たことは分かるのに、それがどんな誰だったのか、まるで分からない。
雪が降っていた。
中庭の黒い土に降り積もった雪の上。
白く染まった世界の中で、そこだけが不自然に真っ赤だった。呼吸が止まる。上下の感覚すら不鮮明で、足元がぐにゃぐにゃと歪んだ。
「は」
短く吐き出された二酸化炭素が白く濁って、雪の中に沈み込む。記憶の中、欠けていた顔が埋まる。声を思い出す。名前を知る。
「しおの」
か細く呼んだ声に返事はない。投げ出された両手。飛び散った血液。放り出された包丁。死体の中心で、きらきらと光る砕けた魂。
「汐野!!」
駆け寄って、体を抱いて。でも、彼女はぐったりと項垂れるばかりで、なんの反応も示さない。当たり前だ。魂を砕いておいて、まだ意識があるなんて、そっちの方がよっぽど悲劇だ。
「汐野」
返事はないと知っているのに、口は勝手に名前を呼んだ。情報が理解の手前で渋滞して、何もわからない。抱き寄せた拍子に散らばった魂が雪の上を転がって、一欠けら消滅する。ざわざわと肌を撫でる死の空気が濃くなる。
「待って、いやだよ、汐野」
思い出せないことが増える。
彼女を存在ごと消し去ろうと自我を失くした消えかけの死神があの世から集まってくる。どうすればいい。どうすれば、彼女を、汐野凪珊を覚えていられる。忘れていいはずがない。忘れられていいはずがない。
こんなに、綺麗でやさしい人が、世界から消えていいわけがない。指先で壊さないように魂の欠片をかき集める。
「死儀」
そのたった一言で服の下の肩の花が蕾を開き、指の先まで埋め尽くされる。
「永遠、開放」
永遠。
霊力が花に吸収されて、視界がちらちらと点滅した。心臓が張り裂けるように痛い。血液が沸騰するように熱かった。
消滅を一時的に止めたはいいものの、このままでは柏木の霊力の方が先に底をつくだろう。
何か。
なにか、方法は。
視界の隅を妖になりかけの欠片が、ゆらゆらと泳いでいく。閃光が走るように、ひらめきが頭を過った。
砕けた魂を霊力で覆ってしまうのはどうだろう?
消滅しかけた幽霊が自分を核として、他人の魂やほかの幽霊を喰らって肉体を得るように、砕けた汐野凪珊を核として、妖になる一歩手前の霊力を与え続ける。
上手くいく保証なんてどこにも無い。
もっと酷い結末を生むことになるかもしれない。
でも、意外と上手くいって、何も忘れずに済むかもしれない。
「うっ、」
視界が大きく揺れて、思わず死体の向こう側に両手をつく。胃の中身が逆流してせり上がってくるようだった。体力の限界が近い。大事な決断なのに、思考に割ける時間も体力もあまりに少ない。粘ついた唾を飲み込んで、柏木は散らばった手早く魂の欠片を拾い集めた。
胸の傷跡の中できらりと何かが光る。
「あ」
ポケットに入れたまま忘れようとしていたプレゼントになり損ねたピアスだった。さっきよろけた拍子に落っこちたらしい。拾う余裕はなくて、そのままにして立ち上がる。目の前が真っ黒に染まったけれど、気にも留めずに走り出す。時間との勝負だった。
柏木は両手で魂を抱いたまま、寮の中を走った。まずは餌の幽霊よりも先に、入れ物を探さなくちゃいけない。靴を履く手間も惜しくて、そのまま雪の上に飛び出す。冷たいのか熱いのかもよく分からなかった。
汐野の入れ物として相応しいものには、心当たりがあった。彼女が一番喜んでくれた、最初の誕生日プレゼント。部室の彼女の椅子に座っているサメの人形。来世は絶対海に生まれたいって、いつかの夜に話していた事をまだ覚えている。
寮の敷地を駆けぬけて、当たり前のように施錠されているドアを霊力の刀で壊して、部室まで急ぐ。後で怒られるかもとか、警備の人が来るかもとか、どうでも良いことが頭を過って、流れ去る風景のように消えていく。
部室が北校舎の三階なんて、寮から遠い場所にあるのがひどく恨めしかった。息が切れて、心臓が脈打って、肺が痛い。走って、走って、走って。無人の部室に転がりこむ。
「あった」
月明かりでぼんやりと照らされた部室の中。彼女がいつも座っている椅子にサメはいつも通り仏頂面で立て掛けられていた。そっと、丁寧に、その綿の中に魂を沈めていく。ふらふらと窓際を飛んでいた幽霊を捕まえて、手のひらで潰して、サメの中に浸み込ませる。あとは魂が勝手に必要な分だけ食べるだろう。人間というのは、どこまでも生にしがみつくように出来ているものだから。
「……まにあった……」
体中から力が抜けて、その場にへたりこむ。サメに額を預けても、汐野の体温はどこにも無かった。目から溢れ出た水滴だけが、唯一温かく、サメの中に浸み込んでいく。
「しおの」
記憶の中に留まったままの名前を呼ぶ。
「しおの」
体が真ん中で引き裂かれたように痛かった。苦しくて息も出来なくて、嗚咽ばかりが零れる。サメの柔らかな肌を強く抱き寄せる。
「汐野」
名前なんて、呼ばなければ良かった。
頬なんて、撫でなければ良かった。
涙なんて、拭わなければ良かった。
キスなんて、するんじゃなかった。
「しおの」
凪珊って、求められるままに呼んでおくんだった。
擦り寄ってくる君が愛おしいと、伝えてしまうんだった。
君が泣いたら苦しいんだって、伝えてしまえば良かった。
気恥しいとか、分かってるはずだとか、言い訳なんて捨てて、好きだって言えば良かった。汐野凪珊が好きだって。生きていて欲しいって。
「しおの」
伝えていたら、何かが変わっただろうか。手を伸ばして、抱きしめて、この体の温もりで冷えた彼女を温められたら、こんな風に終わることもなかっただろうか。
今日、柏木が七夕の温度で死に損ねたように。
柏木の言葉で、汐野を止めることもできただろうか。
こんな風に血だらけで死ぬことも、雪の日に誰にも知られずに逝くことも、無かったのだろうか。
「ごめん」
震えた謝罪は、もうどこにも届かない。
「ごめん、汐野」
呼んだ名前は、宙に浮いて、どこにも行けない。柏木が汐野から何もかもを奪ってしまったから、彼女はもうどこにも行けない。ここで、柏木が死ぬまで停滞することしか出来ない。震えた吐息は室内だというのに、白く濁った。
窓の外には雪が降っていた。朝になったらニュースで騒がれるような、珍しい大雪。白くて、静かで、彼女にはほんの少しも似合わない冬の日だった。
その日、柏木は確かに、汐野凪珊を、誰にも見えない刃で殺したのだ。
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