第23話 降っている雪だけが白くて綺麗だった (上)
小さな花火大会を終えて、電気もつけずに航平は部屋のベッドに寝転がった。部屋はあの日、姉が居なくなったときのまま、こたつが出しっぱなしになっている。カーテンを閉め忘れたせいで、部屋の中がぼんやりと明るくて、舞い落ちる埃までやけに鮮明に見えた。目を閉じる。両耳にイヤホンをねじ込む。大音量で流行りのバンドの歌を流した。頭の片隅にはまだ、答えを貰えなかった仮説がこびりついている。
寝返りを打って、こたつに背を向け、航平は無理やり眠りについた。
***
雪が降っていた。
両親と離れ、田んぼと畑と数えるばかりの古びた民家に囲まれた扇野にやってきてから三度目の冬。
朝から降り続いていた雨は昼過ぎにみぞれに変わり、真夜中過ぎには完全に雪になった。真っ黒の空が白く重たげな雪を際限なく吐き出している。
「コウ、天使の羽が降ってるみたいだよ」
姉が興奮した様子で開け放った窓から外を覗く。いい加減寒いから閉めて欲しい。せめてもの救いはこの部屋が北向きでベランダがないことだろうか。ベランダ付の窓はもっと大きいから。
「ほら! ね、綺麗でしょう?」
「溶けてて見えねえよ」
航平はぶっきらぼうに言い放って、小さなこたつに深く潜りこんだ。こんな事になるなら、今日はやっぱり慎の部屋に泊めて貰うんだった。
今更のように後悔して、暖かい炬燵の中で身震いする。凪珊はむぅ、と唇を尖らせてまた窓辺に向かった。もこもこの上着を着ているとは言え、そろそろ本格的に止めに入らないと風邪を引くだろう。
「姉ちゃん、いい加減窓閉めろよ。明日の朝、つづとひび誘って遊べばいいじゃん」
体弱えんだから、と続けるものの、凪珊は全く聞く耳を持たない。わくわくに囚われた姉はこれだからやっかいだ。窓の外に手を伸ばして、雪を掴もうと躍起になる。細腕に支えられていた体が大きく外に傾いで。心臓がどくり、と嫌な音を立てた。
「っぶね……!」
思い切り腕を伸ばして、航平は姉の体をこの世に繋ぎとめる。触れ合った姉の体は死人とそう変わらないくらい冷たくなっていた。心臓はまだ落ち着きなく跳ねまわっていた。
立ち上がり、温もりを分け与えるように抱きしめる。どこかぼんやりとした様子の凪珊の髪を撫でつけながら窓を閉めた。
部屋の空気が少しだけ重くなる。
「姉ちゃん」
腕の中で唇を尖らせる凪珊を呼ぶ。いつから、自分の体は姉よりも大きくなったのだろう。
「落ちたってどうせ死なないよ」
凪珊は溶けた雪でびしょびしょの手を安い照明にかざしながら言った。
「死んだって、死神になってお終い。今となんにも変わらない」
黒い瞳で自分の手を見つめる姉の体をこたつに押し込んで、航平は小さくため息を吐く。
「変わるよ、全然ちがう。姉ちゃんが死神になったら、買い物行ってもらえなくなるし、学校だって行けなくなるだろ」
凪珊は航平を見て、ぱちくりと瞬きを繰り返した。その瞳の中にある純粋な驚きの意味が理解できなくて、航平は唇を噛む。
ここに居るのが、柏木慎だったなら。
同じ視界を共有できる彼だったなら。
凪珊の心を理解できただろうか。
彼女が驚いている意味を、口元だけで笑って爪先を見つめる表情の訳を、彼なら理解できるのだろうか。
「姉ちゃん」
航平は凪珊の方に手を伸ばしながら彼女を呼んだ。声は勝手に小さく震えた。理解出来なくても、航平にとっては大切なたった一人の姉で。
「俺、なんか間違えた?」
かけがえのない家族で。傷つけたいとも、わだかまりを放置したいとも思わない。凪珊は微笑を浮かべるばかりで何も言わない。ここに来てから、彼女は大事なことは何も言葉にしてくれなくなった。
「分かんないよ、姉ちゃん。喋ってくんなきゃ、俺には分かんない」
(俺は、慎じゃない)
当たり前なのに、苦い味がする言葉を飲み下して、航平はじっと凪珊の横顔を見つめた。こたつの温度を二段階もあげたのに、彼女の頬は変わらず白いままだ。死人みたいだと思って、ゾッとする考えを追い払うようにかぶりを振った。
凪珊の白く細い指がそっと航平の頬を撫でる。さっきよりは幾らか温くなっただろうか。航平の頬が冷たくなっただけかもしれない。何しろ、さっきより二人の温度は近かった。そんな風に感じるのは、ここに来てから初めてのような気がした。
いつの間に、姉の目元にはあんなにクマが出来ていたのだろう。
じっと見つめた黒い瞳がまるくなる。
「まちがえてないよ」
柔らかい声が聞こえる。甘やかされている、と自覚する。
「航平は、そのままでいい」
親指が宥めるように航平の頬を滑る。まるで、母親を前にしているような気がした。凪珊の心がとおく、離れていく。
「航平は、そのままで居て」
助けになりたかったはずなのに。姉の心を理解して、的確な励ましを述べて、黒い場所に沈み込みそうな彼女を引き上げたいと願ったはずなのに。
「航平がそのままで居てくれたら、わたしは安心する」
引き上げられたのは、航平の方で。
「だから、そのままで居て」
航平だけ、また少し呼吸が楽になる。
「やさしくて、まっすぐな、君のままでいて」
もっと対等であったはずの凪珊が、ひどく遠い場所から航平を見下ろしている。些細な喧嘩も、仲直りも、愚痴を聞くことも、きっともう叶わない。
自分によく似た大きな丸い目が、照明の明かりを反射してきらきらと光る様を、航平はただじっと見ていた。息が詰まって身じろぎも出来ない。
触れている指先が小さく震えていることだけが鮮明だった。
「あいしているよ」
まるい声が鼓膜を揺さぶる。
「きみを、きみのままで」
柔らかくて、あまくて、どこまでも優しい言葉だった。そこに一つも嘘はないと知っている。愛されている。その証明のように甘やかされている。
「あいしてる」
やわい言葉が、心の奥に滑り込んで、いっそ罰のように牙をむいた。
「しってる」
わざと生意気な言葉を返した。もう大人だと、はっきり口にするのは照れくさくて出来なかった。だって、まるで子供みたいだ。
「ふふ、そうだとおもった」
凪珊は全部見透かしているみたいに優しく笑って、航平の頬から指を離した。彼女の残した温もりが部屋の温度に混ざって消えてしまうのが、少しだけ気がかりだった。
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