第24話 降っている雪だけが白くて綺麗だった (下)
雪はずっと降り続いている。
しばらくこたつで大人しくテレビを見ていた
航平は時計と部屋のドアを見比べる。ついでに凪珊がおいて行った手袋を見る。
「はぁ……」
深くため息を吐いてから、航平はこたつの電源を切って、ベッドの手袋を取った。クローゼットの中から一番分厚いジャンパーを着込んで、サンダルに足をねじ込む。
寮の出入り口には鍵がかかっているはずだから、彼女が向かったのは中庭だろう。携帯も持ったし、幸い中庭までは一本道だ。すれ違う心配はない。
時計の長針はとっくにてっぺんを通り過ぎて、もう少しで二時にたどり着こうとしている。静まり返った寮の廊下をペタペタと足音を立てながら歩く。廃病院にでも迷い込んだのかと思うほどの静けさと不気味さだった。
寒さだけではない寒気に、航平は肩をすくめた。知らず早足になりながら、六階の廊下をぬけ、冷え切った階段を下りる。
全く、こんな時間に雪遊びなんて正気じゃない。自由奔放な姉に心の中で文句を言いながら、ポケットの中で手を握りこむ。
足先はすっかり冷え切っていた。吐く息が白く濁るんじゃないかと思うほど寒い階段を下り切れば、中庭はもう目と鼻の先だ。
最後の曲がり角を右に折れて。
白く染まった中庭が見える。
室内と区切られた硝子のドアを静かに開く。冷えた外気が肌に突き刺さった。
最初に見えたのは黒いパーカーを着た男だった。黒い、どこにでも売っているスウェットの上下。
雪の上に足を踏み出して。きゅ、とゴムと雪が擦れる音がした。男はまだ航平の存在に気づいていない。そのまま横に二歩、三歩と進む。声をかける前に顔を確認したかった。ただ、それだけだった。
赤が見えた。
白い雪の上、投げ出された細い腕。放り出された包丁。男の、男にしては細い指が赤の中で蠢いている。凪珊が二時間も悩んで買ったもこもこの上着が真っ赤になっていた。両手で握りしめていた手袋が雪の上に落ちる。航平はそのことにすら気づかず、ただ目の前の光景を見ていた。目が離せなかった。
これは、なんだ?
は、と自分の口から吐き出された息が白く濁ったのが見えた。白と赤と黒が視界の中でぐちゃぐちゃに混ざって点滅している、足元が急におぼつかない、冷えた指先で口元を押さえる、何かがせり上がってきそうだった。
男はまだ航平に気づかない。
姉の上で蠢いていた手で、何かを大事そうに抱えて男は立ち上がった。そのまま男の正面にある扉に向かう。深く被られたフードのせいで顔は一度も見えなかった。男が立ち去って、視界が開ける。雪の上に寝転がる姉が見える。真っ赤に染まった凪珊が見える。息が止まった。
「ねえちゃん……?」
そこにあるのは、姉の形をした何かだった。呼びかけに返事はなく、当たり前のように目を閉じている。彼女の発する引力に引き寄せられて、航平は「何か」の傍に寄った。姉によく似ている、姉とは違う「何か」だった。
「姉ちゃん、じゃないよな」
凪珊の頬は白いとは言ってももう少し赤みがあったし。
黒い瞳はいつも忙しなく周りを見ていて、こんな風に閉じ切っているなんてあり得ない。
声だって聞こえない。
頬に触れる。冷たい感触がした。舞い落ちる雪が額の上に薄く積もっていた。全身血塗れなのに、顔だけはいっそ不自然なほどに白かった。雪を払って、頬を撫でる。
「ねえちゃん」
何かのドッキリだと思った。
きっと、凪珊は今のこの様子をどこかから見えていて、航平が泣きだした辺りで出てくるつもりなのだ。びっくりしたでしょ、それ七先生が造ってくれたんだよ、とか言って。航平はそれに怒るだけで良い。悪質だとか、夜中にやるなとか、雪が降ってるんだから雪遊びしろとか、文句はいくらだって思いつく。一通り文句を言ったら、冷え切った体を寄せ合って炬燵でココアでも飲もう。いつまで経っても好みがお子様な彼女は、きっと喜ぶ。
「ねえちゃん」
唇が勝手に凪珊を呼んだ。
違う、これは凪珊じゃない。
「ねえちゃん」
そこだけ壊れてしまったみたいに、姉を呼ぶことしか出来ない。早く泣かなければ。そうしないときっと、凪珊は出てこられない。ドッキリは種明かしの瞬間が一番面白いのに。
「姉ちゃん」
また口が勝手にしゃべった。脳みそが頭の中でバラバラになったみたいだ。考えていることと行動が結びつかない。だから唇は勝手に凪珊を呼び続けるし、目から涙は出ない。
凪珊はまだ返事をしない。
頬を撫でる。姉に呼びかける。涙を流そうと目に力を込める。また頬を撫でる。
涙は出ないし、返事はないし、雪は頬の上に積もり続ける。天使の羽みたいだと凪珊は言ったけれど、それにしては水分を含んで重たい雪だった。
「おい」
不意に腕を掴まれて、視線がぼう、と上にズレた。
「なにして」
七夕の言葉は不自然に途切れて雪の上に落ちた。呆然とした顔。驚いて見開かれた青い瞳と視線が交差する。見上げた顔の向こう側から降ってくる雪だけが白くて、嫌になるほど綺麗だった。
「なにがあった」
短く問われて、瞬きを返す。何があったかなんて、航平が一番分からない。ただひとつ分かるのは、これは七夕が造った人形ではないことだけだ。それがつまりどういう意味なのかは、まだ理解したくない。七夕の視線が地面に落ちて、雪に埋もれかけた足跡をたどる。
「誰か、ほかにも居たのか」
今度は小さく頷く。
「黒いスウェット着た、男、顔は見てない」
航平が答えている間も七夕の目はじっと足跡を見つめている。まるで、そこに何か暗号文でも書かれているみたいに。観察すれば答えがあると思っているみたいに。
「警察と救急車は俺が呼ぶから、お前はとりあえず中にいろ」
握られた手が温かくて、困った。凪珊の頬の冷たさが際立って嫌だった。凪珊に視線を落とす。また額に雪が積もっていた。そっと目を閉じる。瞼の裏にはまだ、雪が綺麗だとはしゃいでいた凪珊が居る。笑って、笑ったままで、そこに居る。目を開いても、夢は覚めないし凪珊は微笑まない。
「ねえちゃん」
今更になって、生ぬるい液体が頬を伝った。伝ったところで、凪珊が種明かしにやってくることはない。
「ねえちゃん」
震える声で名前を呼ぶ。返事は聞こえない。呼吸の音も、心音も、雪に奪われて航平まで届かない。七夕が手を離して、体の支えが消える。冷たくなった凪珊に縋りつくように、航平はその体の上に倒れこんだ。べったりと彼女の血が頬についたけれど、気にはならなかった。ぎゅっと強く抱き寄せる。頬に何か硬いものがあたって、航平は体を起こした。
胸にぽっかりと空いた傷口の近く、きらりと何かが光る。血で真っ赤に染まったそれは、見慣れないピアスだった。持ち上げてみれば、小指の爪の半分ほどの大きさのトンボ玉がゆらりと揺れる。
「凪珊のか?」
スマホを操作している七夕が航平の手元を覗き込んで聞いた。航平は首を横に振る。
「姉ちゃんは穴あいてない」
つまり、これは、さっきここに居た男の落とし物だろう。元が何色だったかも分からないほど血に染まったピアスを航平はぎゅっと握りしめた。凪珊を殺した男が愚かにも落としていった証拠品。心の奥から舐めるように炎が燃え上がった。悲しみが塗りつぶされていく。憎悪と殺意で思考回路が擦り切れていく。
殺さなくてはいけない。
探し出して、包丁を突き立てて、泣き喚く声を聞かなければいけない。
それだけが姉を奪った間違いだらけの世界に残された、一欠けらの正しさだ。
***
無機質なアラームの音に夢がぶつ切りになって遠ざかっていく。重たい瞼を開くと、閉め忘れたカーテンから朝日が差し込んでいた。こたつの上に積もった埃がゆっくりと舞い上がって、また落ちていく。
埃が積もるくらいには時間が過ぎて、見ないふりが出来るくらいには傷の痛みが鈍くなった。
時計の針は残酷だ。
愛されていたのに、愛していたのに、もう航平は凪珊の声を思い出せない。あいしているよ、と航平を許した声を、忘れてしまった。
零れ落ちていく。砂時計の砂がさらさらと落ちるように、航平の中から凪珊の欠片が抜け落ちて。
きっといつか、顔すら満足に思い出せなくなる。
「ねえちゃん」
引き留めたくて呼んでみても、返事はない。閉じた瞼の裏にはもう、笑ったままの彼女は居ない。
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