第22話 短い手ではあなたの心に届かない
ナイロンの手の先で、火花が爆ぜていた。花火は色を変えながら段々と短くなって、次第に色を失って消える。あっという間に消えてしまった輝きのあとに残るのは、黒くなった火薬の残骸と静けさだけだ。楽しいはずなのに、ひどく寂しい匂いがした。
「ん」
短い言葉と一緒に差し出されたのは、静かに弾ける線香花火だった。赤っぽい火花が柏木の顔を下から照らしている。白く滑らかな頬がやけに近かった。花火の残骸をバケツに入れてから受け取る。糸のように細い線香花火の持ち手がゆらゆらと揺れる。
「毎年、やってるんですか?」
社交辞令でサメは尋ねる。まだ、彼とどんな顔をして向き合えばいいのか分からない。
「うん。ひび希たちが来てからは毎年」
柏木は手に持った大量の線香花火に火をつけるでもなく、しゃがみ込んでサメの手元で爆ぜる夏をじっと見つめている。
「それまではずっと、七くんと二人だったから」
気詰まりな沈黙を挟んで、柏木が短く言う。今日の彼はなんだか、いつもより少し言葉数が少なくて心配になった。視線はずっと火花に落ちている。居心地が悪くて身じろぎした。ついでのように真っ赤に太った火の玉が地面に落ちて、黒いシミになった。
「こんな風に賑やかな夏が、最初はなんか、変な感じだったんだよ」
新しい線香花火に火をつけながら、柏木は小さな声で語る。こんな風に自分の事を話す彼を見るのは初めてだった。初めてだ、と気が付いて、それから彼と出会ってまだそれほど日が経っていない事に思い至る。いつの間に、こんなに心の奥深くまで侵入されていたのだろう。差し出された新しい線香花火を受け取って、サメはじっと柏木の横顔を見つめる。
「夏も、秋も、冬も、春も。ぜんぶ静かなものだと思ってたはずなのに。今はもう、静かな日々がどんなだったのか思い出せない」
ぎこちなく微笑んだ顔の上を線香花火の影が躍る。
「俺はたしかに、その静かな日常を心のどこかで好いていたはずなのにね」
言葉の最後にため息が滲んだ。
忘れていくのも、新しい生活に簡単に慣れてしまうことも、人間ならば当たり前だ。当たり前だと、サメは知っている。サメだって、自分がサメになっていることに戸惑っていたのは、ほんの僅かな間だった。今ではもう、自分がどうやって二本足で立っていたのか、てんで想像が付かない。
「きっと、きみがいる日々にも俺は簡単に慣れてしまえる」
柏木の声に自嘲が混ざる。慣れたくないと叫んでいる声が聞こえるような気がした。サメは幽霊になった線香花火を握りしめながら言う。
「嬉しいです」
柏木は変わらず地面の黒いシミを見つめている。
「柏木さんの中で、サメが日常になったら、サメはすごくうれしいですよ」
あなたの当たり前に、加えて貰えたら。
当たり前だと思えるほどに、近くに居られたら。
そんなに嬉しいことは、ちょっと他に思いつかない。
「うれしいんですよ」
小さな声でもう一度付け足して、サメは柏木から視線を逸らした。何度嬉しいと伝えても、きっと彼の心は救われない。それでも、あなたの当たり前になりたいと願う、ほんのささやかな好意が、柏木の中に優しく届けばいいと思う。
「……きみの言葉はあったかいね」
柏木がか細い声で言った。
「温かすぎて、やけどしそうだ」
とおく、花火の爆ぜる音がする。
ささやかな好意で火傷しそうだと嘯くオオカミ少年は、じっと黒くなった花火の残骸を見つめている。サメはぎゅっと線香花火を握りしめた。意味も分からず泣きそうだった。
最後の打ち上げ花火が終わって、つづ希がまだ足りないと文句を言っているのが聞こえる。ひび希はもう眠いと欠伸をしている。航平は七夕に缶ビールはバケツじゃなくゴミ箱に捨てろと怒っていて。
どこにでもある夏だった。
どこにでもある、輝いていて、大切で、綺麗な夏だった。
楽しさの片隅に寂しさが顔を覗かせている、ごく普通の夏だった。
「楽しかったですか」
小さな声で目の前の少年に問いかける。コンクリートの上に蹲る姿は、迎えを待つ園児のように頼りなく寂し気だった。
「うん」
口角だけがにっこり笑って答える。
「たのしかったよ」
満足だ、と言葉が続いた。
「俺はきっと、思い出だけで生きていける」
呟いて、柏木はぎゅっと膝を抱え込んだ。
新しいものは何もいらないと、今の日々に慣れてしまいたくないと、その背中が雄弁に語る。サメなんて要らないと、突きつけられる。サメは何も言えずに、ぎゅっと手のひらを握りこんだ。
食い込む爪すらない手では、胸の痛みは誤魔化せそうになかった。
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