第20話 いつもこうして甘やかされている / いつもこうしてはぐらかす

 吹き付ける風は生ぬるくて不快だった。夕方になってもしつこく鳴き続ける蝉は鬱陶しかった。背中を汗が滑り落ちる感覚は煩わしかった。苛立ちの理由はいくつもあって、でも、結局のところは一つしかない。一歩踏み出す度、さっき聞いた話が航平の頭の中でぐるぐると回る。蝉の声と混ざって吐き気がした。

 サメが頭から床に落下して、頭を冷やして来いと七夕に研究室を追い出されて、航平は当てもなく歩いている。夏の夕暮れは生き物の気配に満ちていて、不愉快だった。際限なく吐き気が湧き上がってくる。

 いっそ、この鬱憤を全部吐き散らかして、元凶にぶつけてしまえば、何かが解決するだろうか。胸倉をつかんで、至近距離で怒鳴りつけたら。

 彼は、何か、本当の言葉を吐いてくれるのだろうか。

「まこと」

 想像したって答えが出ないから、小さな声で名前を呼んだ。

 全部、聞いてしまいたかった。

 本当に、幽霊の混ぜ物なんて気持ち悪い物を柏木が造ったのか。それを、わざわざ汐野が大切にしていたぬいぐるみの中に入れたのか。仮説が本当なら、動機を。間違っているのなら、一緒に答えを探して欲しかった。

「慎」

 涙が勝手に溢れて止まらなかった。震える声で名前を呼ぶ。吹き付ける風が声を攫って駆けていく。鬱憤と不安はほんの少しも拭えない。怖い、怖くてたまらない。道の端に蹲って、騒ぐ声を遮断するように両膝の間に顔をうずめた。声は止まらない。当たり前だ。声はずっと航平の中で騒ぎ立てている。

 もしも、柏木慎がサメを造ったのだとしたら?

(うるさい)

 それをサメに入れたことに偶然以上の理由があったとしたら?

(もう考えるな)

 例えば、柏木が汐野凪珊を殺していたとするなら?

(そんな訳ないだろ)

 その魂を自分一人で愛でるために殺して、消滅しないよう霊力維持のエサとして幽霊を与えていただけだとしたら?

(そんな事、してるわけない)

 サメが目覚めたのは彼にとっても誤算で。だから、執着していたのだとしたら? 正体を濁した事にも、航平が彼女を姉と呼んだ時に酷く怒っていた事にも、汐野凪珊が霊力をほとんど残した状態で死んだのに死神になっていない事にも、説明がつく。ついてしまう。

「まこと」

 否定が欲しかった。

 それだけ信じていれば、外野の声も湧き上がってくる不安も押し殺してしまえるような、強くて確かな言葉が欲しかった。

 嘘つきな彼からそれが貰えたら、それだけで、もう何も疑わずに生きていけると思った。

 不意に影が差して、顔を上げた。滲んだ視界の真ん中に、彼が居る。いつだってそうだ。柏木はいつだって、航平が一人で泣いているとどこからともなく現れて、頭を撫でてこう言う。

「航平。アイス、食べよっか」

 笑ったその人が、あんまりいつも通りだから、航平はうっかり口を滑らせた。こんな疑念は口にするだけで彼を傷つけると知っていたのに。彼が見えている人間性よりずっと脆い人だと、航平は誰より知っていたのに。

「まことが、ねえちゃん殺したの」

 柏木が凍り付く。

 やってしまったと気が付いた時には、もう、遅かった。時間を巻き戻す術も、出てしまった言葉を飲みこむ方法も、言いすぎた言葉をフォローする上手い言い訳も、航平は何一つ知らなかった。

 マスクに隠されて表情が見えない。

 花粉症でもないのに一年中マスクをしている理由に、航平はこの時初めて気が付いた。世界が溶け落ちて崩れて、一瞬だけ鮮明になってまたぼやける。頬を熱い大粒の雫が伝うから、さっきよりも激しく泣いているのだと分かった。

 目から水分が出てしまったせいだろうか。喉が張り付いて声が出なかった。頭の上を温かい手が滑り落ちていく。傷つけた事は明白なのに、包帯も絆創膏も意味をなさない出血を止める術は航平には不明瞭だった。

「航平」

 いつも通りの柔らかくて低い声が、航平を呼ぶ。何かを取り繕っているはずの声がいつも通りに聞こえるから、航平は嗚咽を飲み込んだ。そんなのは、あんまりだ。

「花火しようか」

 いつも通りの声で、柏木が笑う。心臓が痛かった。苦しくて息も出来なかった。涙で顔が見えなかった。両手のひらでめちゃくちゃに顔を拭う。

「そんなに擦ったら、目、腫れるよ」

 優しく両手を右手が掴んで、左手がそっと手の甲で涙を拭う。いつも通りの声が、仕草が、体温が。憎らしくて声も出なかった。傷つけたのに。彼にとって間違いなく、傷つくことを言ったのに。動揺も、嫌悪も、怒りも、航平には引き出せない。憎らしいから勢いよく肩に額を擦りつけた。

 ふわりと香った線香を、その日初めて鬱陶しく思った。

「傷つけよ、馬鹿」

 身勝手な言葉を吐いて、嗚咽を飲み込んだ。

 引きはがして、怒鳴りつけて、ぶん殴ってくれたら良かった。そのくらいの罰じゃ、とても足りないくらいの事を言った。けれども、返ってきたのは酷く優しい抱擁だった。言葉はない。ただ静かな呼吸と、背を撫でる温かい手だけがそこに在る。

「航平」

 柔らかい声で名前を呼ばれる。

「花火、しようか」

 さっきも聞いた、と生意気に言葉を返す。

「夏の思い出にさ」

 毎年やってんじゃん、と嗚咽混じりに言った。

「うん」

 やってもやらなくても空白が出来ちゃうならさ、と柏木の言葉が続く。

「せめて、みんなの笑った顔は、覚えていたいと思うんだ」

 そこに、汐野は居なくても、と柏木は最後に小さな声で言った。


 夏が来ている。気が付くと、こんなにもすぐ傍まで。肌の上を夏が駆け上がって、人間なんて置いてきぼりにして遠ざかっていく。夏だった。どこまでも青くて、現実味のない、サメが喋るような夏だった。



 汐野凪珊の居ない、夏が来ていた。

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