第18話 終わりの分かり切っている初恋がどうか胸の中だけで死にますように

 ちょっとだけと言った通り、五分もすれば柏木はいつもの調子を取り戻した。目元を拭って、立ち上がって、残った体温もあっという間に消えて、柏木が遠のいていく。名残惜しいなんて思ったのは、今日のサメがどうかしているからだろう。

「あ、航平」

 ふ、と遠くを見た柏木の視線を追うと、児童書を山ほど抱えた航平が居た。柏木に伸ばしかけた手を航平に向かってふりふりと振る。カウンターに向かっていたらしい航平は二人に気が付くと、くるりと方向を変えた。

「慎が図書室に居んの初めて見た」

「んー、まあ、もう全部読んじゃったからね」

 言葉を返しながら柏木は紙束の上にドサドサとファイルを重ねる。

「なんか調べもん?」

「七くんのお使い」

 航平が覗き込もうとしたファイルを横からパタンと閉じると、柏木はそれと一緒に机の上に散らばっていた資料を全部まとめて持ち上げた。

「じゃ、俺は野暮用あるから、彼女は航平に頼んでいーい?」

 大量のファイルを抱えて、柏木が小首を傾げる。明かに追及を拒むその態度に、サメは何も言えずに航平を見た。

「いいけど。それ、片すなら俺も手伝おうか?」

 柏木に伸ばしかけた手でファイルを指さして、航平が小さく笑う。「いーよ、一人で出来る」柏木はそれだけ言って、サメと航平に背を向けた。資料が重いのか、ふらふらと離れていく背中を見送りながら、航平は小さく言葉を落とす。

「お前、凄いのな」

 弱々しく吐き出された言葉の真意が掴めずに、サメは航平を見上げて首を傾げる。

「何が?」

 椅子を掴んで倒れそうな体を支えながら、返事を待つ。けれども、航平は柏木の背中を見つめるだけで、何も言おうとはしない。柏木が本棚の向こう側に消えると、航平はサメを抱きかかえた。

「行くか」

 児童書を机に積んだままで、航平はサメを横抱きにして図書室を後にした。


 ゆら、ゆら、と上下に視界が揺れる。サメは前だけを見据える航平の顔と天井を交互に見ながらもぞもぞと手を動かす。聞きたいことは幾つかあって、言いたいこともいくつかあった。

 けれども、何かを口にしたら航平の心を踏みつぶしてしまいそうな気がした。唇を噛みしめる航平の表情はそのくらい張り詰めていて、サメは天井を見上げたまま口を噤む。天井の丸いライトが次々と後ろに流れていく。

「なぁ」

 ちらりとサメを見て、また前に視線を戻した航平は言葉を続けた。

「お前、ほんとに何者なの」

「……記憶喪失の幽霊……?」

 突然の問いかけに戸惑いながらも、今言える精一杯の答えを口にすると航平は何故か深くため息を吐いて、サメを抱えたままその場に座りこんだ。廊下の端、神様にお供えするみたいに掲げられて、サメはぽりぽりと白い腹をかいた。

 この体勢は結構恥ずかしい。

「慎が誰かに縋りついてんの初めて見た」

 小さく掠れた声で航平が言う。

「人前で目ぇ潤ませてんの、初めて見た」

 膝に押し付けられた航平の表情はサメには見えなくて。でも、その小さな声が震えているから、泣いているのだとすぐにわかった。

「お前は、慎に頼られんのな」

 俺は、頼られたことないのに。続いた言葉に滲んでいるのは寂しさで、サメは心臓がぎゅっと痛むのを感じた。幽霊なのに、おかしな話だ。

「お前が姉ちゃんなら、こんな馬鹿な事考えねえのにな」

 サメは目一杯手を伸ばして航平の頭に触れる。存外柔らかいらしい髪を撫でて、少し迷って、結局サメは口を開いた。

「航平くんのお姉さんって、どんな人?」

 あの、夢の中で見た綺麗な人を思い出す。間近で覗き込んだ、柏木の顔を思い出す。他人の思い出をなぞるようにして触れた温度を、サメはまだ忘れられずに居る。航平は顔をあげて唇の端を釣り上げた。笑顔と呼ぶには痛みを含みすぎた表情だった。

「すげえ綺麗なひとだった」

 壁に背中をつけて座りながら、航平は彼の姉について語りだした。

「強くて、優しくてさ。俺が上級生とケンカしてると、すぐ飛んできて相手をぶん殴るような人だった」

 思い出しているのか、航平は目を細めて遠くを見やる。

「慎と同じくらい目が良くて、慎と違って幽霊とか妖とかが好きで。友達が居なくて、母さんと父さんが大好きで」

 航平はそこで一度言葉を切って、天井を見上げた。空が見えるわけでもない、ただ清潔な白を保っているだけの天井に向かって、航平は言葉を吐きだす。

「そんで、慎のことが大好きだった」

 ズキリ、とどこかが痛んだ気がしたけれど、多分、気のせいだ。

「特級ってさ、世界に二人しか居ないんだって。前の二人は、菜月さんと飯野って男の人。その二人が死んで、力がそれぞれ慎と姉ちゃんに引き継がれたんだってさ」

 世界で、たった二人きり。同じ視界を共有できる、たった一人の片割れ。真っ白な世界で、二人だけで手を繋ぐ柏木と汐野が浮かんで、サメはぎゅっと両手を握りしめた。

 なんて、寂しい世界だろう。

 なんて、苦しい世界だろう。

「姉ちゃん、よく言ってたんだ。どうせ運命なんて物で引き寄せられるなら。どうせ、何かの糸で勝手に繋がれるなら、赤い糸だったら良かったのにって。慎は、あんなに姉ちゃんのこと大好きなのにさ」

 航平は「馬鹿だろ?」と笑ったけれど、サメには笑い飛ばせなかった。会ったこともない少女の感情が、まるで流れ込んでくるみたいによく分かった。

「自信が無かったんだよ、きっと」

 サメの言葉に航平が首を傾げる。

「好かれているのが、自分なのか、運命なのか」

 馬鹿げた事だと分かっていても、考えてしまうだろう。

 もし、自分が特級では無かったのなら。

 もし、自分にこの特別な視界が無かったのなら。

 彼は、自分を愛してくれたのだろうか、と。

 世界でたった一人だけの理解者すら信じられない現実は、少女を一体、どれほど傷つけただろう。明確な言葉を求めて、でも与えられなかったあの日、彼女は一体どのくらい傷ついたのだろう。

「好きだから、不安だったんだよ」

 とても大切で、大好きで、同じだけの感情を返して欲しいと願ったから。サメはあの日、自分を助けに来てくれた柏木を見て、泣きそうだと思った理由に初めて気が付いた。さっき、柏木の両腕を振り払えなかった訳に、気が付いてしまった。


(あぁ、わたしは、あの人に恋をしているのか)


 自覚した瞬間に終わりが見えた初恋は、幽霊の体では持て余してしまうほど熱くて困った。

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