サメとにっこり笑ったオオカミ少年

第17話 君のことは絶対に忘れたくないと思った

 川面に柏木たちが囚われてから三日後。サメは七夕の研究室に居た。

「絶対いやです」

 サメは目の前で抱っこ紐を体に巻いた柏木の前で大きなバツ印を作った。ヒレだと短すぎてバツにならないので、わざわざその辺に転がっていた軽い棒を拾ってまで、柏木にNOを表明する。

「あ、顔が見える方がいい?」

 柏木は抱っこ紐を結び直して、ハイ、と両手を広げる。おんぶから抱っこになったら良いとかそういう問題じゃない。

「むしろなんで顔が見えたら許されると思ったんです?」

「え、だって、君、俺の顔好きでしょ?」

 サメの方こそ何を言ってるの? とでも言わんばかりに柏木が首を傾げる。イケメンの自己肯定感の高さがサメには怖い。グスグスと目元を押さえて泣いた。

「図星を突かれてぐうの音もでねえとよ」

 七夕が勝手にサメの思考を読む。

「なんでホントのこと言うんですか!?」

 両手に持った長い棒で七夕をポカポカと殴る。サメの愚鈍な攻撃などお見通しだとでも言わんばかりに、サッと避けられた。サメはあまりに悔しさに歯噛みする。

「よし、柏木さん、十万ボルトです!」

 天使の羽が生えるんだから感電させるくらい呼吸より簡単だろう。

 と、思ったのだが、振り返った先には何故か耳の先を赤く染めて固まる柏木が居た。その顔が、暗闇の中で見た女の子にキスをしている柏木に重なって、どうしてか指先が痛む。

「あの、柏木さん?」

 サメがブンブンと棒を振ってアピールすると、柏木の焦点がようやく現実に戻ってきた。

「だいじょぶです? なんかありました?」

「え、あ、いや」

 右手で左耳の後ろをかきながら柏木が喋る。

「まさか肯定されるとは思わなくて」

 サメから視線を逸らすように柏木が横を向く。その頬にも少しだけ朱が差している。

 もしかしなくても、これは照れているのでは。

 サメの方こそそんな反応が返ってくるとは思わなくて、意味もなく棒をカチカチと打ち鳴らした。楽しい。この棒は貰って行ってもいいのだろうか。思考が立派な現実逃避を始めたところで、上から棒を取り上げられる。

「あ、サメの棒……」

「お前のじゃねえよ。隣から俺がパクってきたんだ。俺んだ」

「それ、七くんのでもないでしょ」

 呆れたように言いながら、柏木が七夕の隣に立つ。その頬からはもう赤みが引いていて、至って普通、いつも通りだった。それを、なんとなく残念に思ったサメが居る。サメは両手をじっくりと見つめ、首をひねった。

 今日のサメは、ちょっとだけ、どうかしている。かもしれない。

「うるせーよ。つかお前ら、作業の邪魔だし鬱陶しいから図書館にでも行ってこい」

「俺、あそこの本全部読んじゃったんだけど」

「誰も読書してこいなんて言ってねえよ。こいつの正体探るための資料探し、パシリだな」

「せめてお使いって言ってくれる?」

 柏木がうげ、と眉を寄せた。面倒くさいとか正体なんて知りたくないとか、文句をこぼしながらも、柏木の手が優しくサメを抱き上げた。そのまま背中に抱えられて、抵抗する間もなく抱っこ紐で固定される。

「よし」

 満足気に言う柏木の頭を強く叩いた。

「いてて」

「なんにも良くないですけど?」

 ポカポカとつむじを殴りながらサメは不本意な運ばれ方に抗議する。

「だって君、一人で移動すると誘拐されるでしょ? 安全措置だよ、安全措置」

 一番痛いところを突かれて、サメはぐっと押し黙った。「あー、傷が痛いなぁ」柏木がわざとらしくお腹を押さえる。怪我をしていたのは主に背中だろう、と思ったがサメは賢くて優しいので黙ったまま、柏木の髪の毛を摘まんだ。

「柏木号、全速前進!」

 これはこれで、結構楽しい。


 柏木号をこき使いながら、サメは図書館にたどり着き、柏木が目の前に積んだ資料に片っ端から目を通した。

 手がかりを探してこい、と言われても、手掛かりがどんな形をしているのかもわからない以上、サメに出来るのは真面目に読むことくらいだった。

 柏木は来る前に文句を垂れていたのが嘘みたいに真剣な表情でいくつもの資料を並べている。時折、スマホで写真を撮って、メモ用紙に何かを書き記していく。

 角度が悪くて、サメには何が書いてあるのかまるで分からなかった。

 そうして、二人で真面目に作業を続けること数十分。そろそろ集中が途切れてきた頃、サメは奇妙な資料を見つけた。

「あれ……ここ空白になってますよ」

 記録者の名前が連続して空白になっている。内容はとある妖についてだった。身を乗り出して資料を覗き込んだ柏木が低い声でサメの言葉を肯定する。

「あー。ほんとだね」

「あ、柏木さんのお母さんって書いてあります、ほらここ。柏木さんのお母さんも協会の人なんですね?」

「あー。うん。みたいだね」

「どんな人なんですか?」

「さあ。どんな人なんだろうね?」

「え?」

「俺が……いくつの時だったんだろうなぁ。あぁ、ここだ」

 柏木の指が紙の上を滑る。深爪気味に切られた四角い爪は縦じわだらけだった。

「柏木母、五歳の息子を残して死ぬ」

 静かで平坦な声が文面を読み上げる。母親の死について話しているにしては冷静すぎて、サメはじっと柏木を見つめた。

「俺の母親はね。魂を砕かれて死んだんだ」

 柏木の指先が紙を強く押した。

「そうすると、どうなるんですか」

 柏木はサメの方を向かない。今度は酷く痛そうな横顔だった。窓の外で中庭の木が大きく揺れて、葉の作る影が彼の顔の上で動いた。名前が刻まれていたであろう空白を見つめて、柏木は口元だけで笑った。

「忘れられる」

 低く、意識して丸く作られた声。

「世界中から、忘れられてしまうんだ」

 母親の名前があった場所を柏木の白い指先がなぞる。まるで、母の抱擁を求めて子供がその手に纏わりつくみたいだと思った。

「俺はね、自分の母親の事を、何も覚えていないんだよ。薄情でしょ?」

 柏木がサメを見て笑う。泣いている子供が見えた。彼の目から涙が流れないのは、心の中で、ずっと、子供が泣いているからなのだと分かった。目よりずっと奥の場所で、涙が流れ続けているから、彼の涙は表に出て来られない。サメは短い手を精一杯伸ばして、柏木に触れた。

「薄情じゃないです」

 全身が痛かった。

「薄情なんかじゃ、ないです」

 こんなに痛くて、苦しくて、悲しいのに、サメの表情筋はこれっぽっちも仕事をしてくれない。真顔で柏木の目を見つめながら、サメは彼の服をヒレで握りしめた。

「柏木さんは、優しい人です」

 柏木の手が強張ってピクリと動く。

「優しいです」

 震える声で繰り返す。この人の、一番深くて柔らかい場所で泣いている子供の涙を止める言葉が欲しかった。一輪の花みたいに。気持ちのこもったプレゼントみたいに。素敵で温かくて、思い出すだけで生きていけるような言葉を吐きたかった。

 柏木慎の心を、救いたかった。

「優しいんです、優しい人だって、サメは知ってるんです」

 柏木が深く息を吐く。影がサメの視界を暗くする。ふわりと香った線香に、背中に回った腕に、押し付けられた頭の重さに。

 抱きしめられている、と自覚する。

 心臓がバクバクと意味もなく早鐘を打った。ような気がした。サメは初めて、自分の心臓がとうに動きを止めていることに感謝する。もしも、今、この時に心臓が機能していたなら、この、胸の高鳴りが全部、彼に筒抜けだっただろうから。

「ごめん」

 柏木の声がすぐ近くで聞こえる。

「ちょっとだけ、こうしてて」

 長い前髪が目の脇で揺れるのがくすぐったかった。サメは持ち上げた自分の両手をじっと見つめる。小さなヒレ。灰色の手。おっかなびっくり、柏木の背中に触れる。触れたところが妙に熱くて、火傷しそうだと思った。それなのに、離す気にはなれないのだから。

 やっぱり、今日のサメはどうかしている。

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