第16話 不老不死を求めた男
柏木の意識がゆっくりと浮上する。白く、薄汚れた天井が真っ先に目に入った。消毒液と煙草の匂いが混ざって鼻先をくすぐる。ぼう、と天井を見上げていると視界の端に七夕が入り込んだ。
「よー、目ぇ覚めたかよ、間抜け」
いつも通りのしかめっ面だけれど、目元が不自然に赤い。柏木はそっと手を伸ばして七夕の目じりを撫でた。
「もしかして、泣いた?」
掠れた声で問いかけると、七夕は黙って顔を引っ込める。追いかけて体を横に倒した。七夕の後ろにあるベッドには航平とサメが仲良く眠っていた。全員で帰ってこられたらしいことに、ひとまず安堵する。
「お前は、ちゃんと周りの人間大事にしろよ。俺みてえに心配しねえ奴ばっかりじゃねえんだぞ」
七夕が目を擦りながら言う。柏木は小さく笑った。全身怠くて重かったけれど、痛みはそれほど酷くない。七夕の大きな手が柏木の髪の間をすり抜けていく。眠かったけれど、どうにか目を開けたまま、柏木は問いかける。
「誘拐犯については、なにか分かった?」
柏木が向こうに居た間、七夕がずっと体を眺めていたわけでもないだろう。犯人の居所や証拠くらいは掴んでいるはずだと思ったのだが、差し出されたのは小さなボタンひとつだった。柏木は手のひらに落とされたボタンをまじまじと見つめる。よく知った意匠が彫りこまれた、銀のボタンだった。
「AHBG社の会員証……七くんの?」
肉体を脱ぎ捨て、魂だけになった女体が天を目指す、独特の彫り込みを自社マークとして使っているのがAHBG社だ。彼らは協会地下に拠点を置き、幽霊や妖、それが見える人間を非合法な手段で研究している。知的好奇心を満たすためなら大抵のことに手を染める七夕も当然所属している。
「俺のじゃねえよ。これはお前がぶっ倒れてた場所の近くに落っこちてたもんだ」
柏木はぱちくりと瞬きを繰り返して七夕を見た。協会の地下に拠点があるのだ。AHBG社の会員のほとんどは協会に籍がある研究者であるのだし、廊下にボタンが落ちていたところで何ら不思議はない。
「俺ぁ、設備の整ってる場所で研究してえってだけでBG社に居るが、大半の奴は社長の思想を本気で崇拝してる。それこそ宗教団体を名乗れるレベルでな。んで、そういう奴にとっちゃ、そのボタンは教祖に仲間として認められた証だ。落としたりしねぇよ」
「社長の思想?」
柏木がぼんやりしたまま問いかけると、七夕は苦虫を嚙み潰したような顔になって、唸るように言った。
「全人類死神化計画」
端的な答えでは理解できなくて、柏木は首を傾げた。七夕が深くため息を吐いて、椅子に座る。煙草を携帯灰皿に落として、心底嫌そうな顔で説明を始めた。
「死神ってのぁ、大きすぎる霊力を持ったままで死んじまって、三途の川を渡れなかった奴のことだ。未練があって死にきれず、三途の川を渡らなかった幽霊とは少しちげえ。違いはなんだと思う?」
少し考えてから柏木はたどり着いた答えを口に出した。
「見える人間の層?」
「そ。幽霊は強大な霊力を持った限られた人間にしか見えねえが、死神なら俺でも見える。計器じゃ霊力無しと判定される一般人の中にすら、見える奴がいるくれえだからな。小さくて細かいもんは視力が良い奴にしか見えねえが、でかくて色のはっきりしたもんは誰にでも見えるのと同じ理屈だな」
「それで? みんなを死神にして、その社長って人は何がしたいの?」
「不老不死だよ」
七夕の口から飛び出した、あまりに現実離れした言葉に柏木は瞬きを繰り返す。
「不老不死?」
「そ。不老不死。四十過ぎたオッサンが追っかけるにはちっとばかりメルヘンに寄り過ぎた夢だろ?」
七夕が唇の端を釣り上げて笑う。
「最初は誰も奴の考えに見向きもしなかったらしいぜ。馬鹿げてるって。当たり前だがな。普通の科学者なら追っかけてるだけで一生が終わる。だが、奴は普通じゃあなった。その頭脳も、体質もな」
七夕は窓の外に視線を向けた。
「常人では発言を理解することも難しいほどの卓越した頭脳とあの世を見据えられる目。その二つを持ち合わせた天才が追うには、不老不死はぴったり過ぎるテーマだった」
「奴は何十年もかけて実験と理論の再構築を繰り返し、ついに、不老不死に至る答えを見出した」
「答え?」
「そう、答えだ。死神も幽霊も妖も見えねえ奴らでは到底考え付かなかった答え」
七夕はちらりと柏木を見ていった。
「不老不死になりたきゃ、死んじまえばいい、ってな」
矛盾した結論。
普通の人間ならば血迷った科学者の妄言だと一蹴できる言葉。
けれども、田中菜月を知っている柏木には笑って馬鹿にすることも、破綻した理論だと言うことも出来なかった。AHBG社の社長がたどり着いた答えが、柏木にははっきりと見えた。
「逆転の発想ってやつだ。生きているから死の恐怖に怯えなきゃなんねえ。なら、死んじまって死神になりゃあいい。そうすりゃあ、老いることもねえし、霊力さえ摂取しておけば消えちまうこともねえ。元が一般人だって、死神同士になっちまえば互いのことは見えるし、死人同士なら触れ合うことも出来る。まさに不老不死ってわけだ」
柏木の脳裏には、口数の多い死神が浮かんでいる。彼女は確かに死者だが、航平や七夕、もちろん柏木も、生きている人間と同じようにコミュニケーションを取る。それを、その普通に話せて笑い合える状態を『生きている』と定義したのならば、確かに死神は生きているのだろう。
「問題は死神になれるほどの霊力を持ってんのは特級だけってことだが……霊力を増やす方法なんて協会に居る奴なら誰でも知ってることだしな」
「……霊力で出来てるものを食べる」
「正解。保管庫に収容されてる妖を片っ端から喰えばいい。気持ち悪ぃっつって誰もやんねえだけで、霊力なんて実は簡単に増やせる。実際奴は、その方法でお前に匹敵するほどの霊力を手にしてるわけだしな」
特級に匹敵するほどの霊力を手に入れたなら後は簡単だ。首でも括って死ねばいい。それだけで、社長は死神になれる。彼流の言い方に変換するなら、不老不死を手に入れられる。
「なるほど。ここの地下に気持ちの悪い集団が居るっていうのは理解できたけど、それが今回の誘拐とどんな関係があるの」
本題から大分ズレた話題を軌道修正しつつ、柏木はベッドの上で上体を起こす。ぼんやりしていた頭もようやく冴え始めた。
「馬鹿なフリすんなよ、慎」
七夕がサメを指さす。
「あれの中身は?」
「幽霊」
「そう、本来なら特級にしか見えないはずの幽霊だ。でも、見えねえのは中身だけで、外側のサメなら一般人にも見える。分かるか? あいつは、死んでんのに、俺やお前だけじゃねえ、あの世の存在を信じてもいねえ一般人とも普通に意思疎通が出来んだよ」
普通に話せて、笑い合える状態。
AHBG社が『生きている』と定義する状態の、幽霊。
「しかも奴は恐らくただ死んだだけ。特級並みの霊力を手に入れるより、幽霊に器を用意してやる方が遥かに安上がりだし効率もいい。奴はサメだから一般人に擬態すんのは無理だが、外見を人間そっくりに仕立てた人形なら? 物体にも生物にも
柏木は目を見開いて七夕を見た。
「奴がどうやって存在してんのかを解明すりゃあ、後は入れ物を用意するだけで、本物の不老不死に手が届く」
震える視線でサメを見やる。二人が話している間も、航平とサメはぐっすりと眠って居て、まるで別世界みたいに平和な光景がそこには在った。奪われたくないと柏木の中で、どこかが叫ぶ。
「分かるか、慎」
七夕が柏木と目を合わせてから、静かに言った。
「あいつをバラシて暴きてえと思ってんのは、俺だけじゃねえんだよ。不老不死を求めてるオッサンだけでもねえ。社長の思想を崇拝してる熱狂的な信者も、だ。しかも奴らは俺よりもっと手段を選ばねえ。今回みたく、全員で帰ってこられる保証は、どこにもねえんだ」
青い、まっすぐな瞳が射抜くように柏木を見る。こんな風に目が合うのは初めてな気がした。
「あいつを守りてえなら、知ってること洗いざらい吐け。俺ならお前の許せる方法でデータが取れる。データさえ渡しゃあ、あいつらだって妖使って誘拐なんて面倒なことには走らねえ。俺が、んな事させねえから」
七夕が顔を歪めて柏木を見つめる。傷だらけの手が柏木の頬に触れる。
「だから、全部喋っちまえ、慎」
優しい言葉だった。
七夕の言葉は真冬の朝にソファーで寝ている柏木に彼が掛けてくれた毛布みたいに温かく届いた。それは間違いなく優しさから出た言葉で、柏木にこれ以上嘘を吐かせないための言葉だった。
だからこそ、柏木は泣きながら口を噤む。優しさに絆されて、何もかも喋ってしまわないように、唇を強く噛んだ。
「慎」
七夕が柏木の名前を呼ぶ。幼い頃からずっと、何度も呼んでくれた声で、七夕が柏木を呼ぶ。抱きしめられているみたいだと思った。悪夢を見て眠れなくなって、七夕の布団にもぐりこんだ夜みたいだと思った。面倒くさそうな顔をして、でも柏木が眠るまで星の話をしてくれたあの夜みたいだった。
「俺は、何も知らないよ」
嘘を、吐いた。
嘘だと、七夕が気づくと知っていて、嘘を吐いた。
「だから、俺は何もしゃべれない」
七夕が顔を歪めて柏木を見る。頬を撫でていた手が離れていく。
「そうか」
深く息を吐き出して立ち上がって、部屋から出ていく。その背にかけるべき言葉を知りながら、柏木はただ口を噤んでいた。
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