第15話 救いと希望に形があるなら、それはきっと少年の形をしている。

 航平は白い扉を乱暴に開いて、その部屋に飛び込んだ。扉が背後で勢いよく閉まる。その大きな音にも少しも反応せず、航平はベッドの上に横たわる柏木に駆け寄った。

「まこと」

 小さな声で名前を呼ぶ。静かに胸が上下しているだけの死体があった。柏木の中にあるはずの中身がそっくりそのまま無くなっていて、航平にはそれがはっきりと見えてしまうから。

 だから、横たわっている体がどうしても死体に見えた。

「まこと」

 もう一度名前を呼ぶ。視界の端で七夕が立ち上がったのが見えた。七夕が隣に立つ。

「んな心配しなくても特級はそう簡単に死なねえよ」

「姉ちゃんだって、死なないと思ってた」

 でも死んだ。

 雪の上、血まみれになって倒れている姉の姿が白いシーツに沈む柏木と重なる。抱き上げた体の冷たさが、柏木の指の温度にかぶる。心臓が痛いほど脈打っていた。じわりと冷や汗が滲む。勝手に視界がぼやけて声が震えた。

「絶対死なないって思ってたんです」

 強い人だと知っていたから。妖や幽霊はもちろん、人間にだってそう易々と殺されるような人ではなかった。でも、死んだ。殺された。黒いパーカーを着た細身の男が航平の視界の端で点滅した。姉を殺した男の汚い手が、柏木の喉元に迫る幻覚が見える。細い喉仏を握りつぶして、腹を切り裂いて、走り去っていく。片耳に光るピアスまではっきりと見える気がした。握りしめた手の内側で爪が皮膚に食い込んで血が滲んだ。

「俺も川面に潜る」

 気が付いたらそう口にしていた。

「正気か?」

 七夕が強く航平を睨む。

「川面はあの世とこの世の狭間。下りて、無事に戻れる保証はねえぞ」

 航平は唇の端で小さく笑った。

「知ってる。でも、このままただ見ていて慎が死んだら、俺は死んだ方がマシだってくらい後悔すると思うから。だから行きます」

「霊力が物いう世界で、あいつが誰かの助けを求めると本気で思ってんのか」

 七夕は航平を睨みつけたまま言葉を並べる。

「あいつに霊力の量でも、その練度でも劣るお前が、それが全ての世界で慎を助けられると、本気で思ってんのか」

 感情的になっている、と七夕は自覚する。目の前の子供がざっくり傷ついた顔になる。言葉を止めるべきだと分かっているのに声は止まらない。止め方が分からない。

「お前が出来ることなんか何もねえんだよ」

 航平に言葉をぶつけながら一番傷ついているのは七夕の方だった。

「あいつに劣ってるお前じゃ、あいつの助けになんかなれやしねえよ」

 そう言った声が震えていて、そこで初めて七夕は自分が泣いていることに気が付いた。航平が傷ついた顔のまま笑う。

「俺、求められてるから助けに行くんじゃないよ、七先生。慎がさ、言うんだ。俺は困ってないから、俺のことは心配しなくていいって」

 思い出しているのか航平の笑みが柔らかくなる。

「慎は困ってるとか辛いとか絶対人に言わないからさ。俺、いつも心配できないし、慎の役に立てないんだけど、今は絶対困ってると思うからさ」

 笑った航平は酷く眩しく見えて、七夕は目を細めた。

「だから、俺は慎を助けに行くんだよ、七先生。求められてなくても、お節介って怒られても、心配だよって言葉が届くまで、俺は何回だって、慎に手を伸ばすって決めてんだ」

 航平は最後にもう一度笑って、七夕の脇を通り抜けた。走り去っていく後ろ姿に迷いは感じられない。遠ざかっていく。

 川面に下りる力すらない七夕を残して。

 振り払われるのが怖くて手を伸ばすことすら出来ない七夕を置いて。

 航平が遠く、廊下の向こう側に消えていく。七夕の口元には自嘲が浮かんでいた。

「助けに成れねえのは、俺の方だっての」


***


 柏木の上に黒い雫が降り注ぐ。サメは意識を奪って川面の水に閉じ込めたから、柏木が死ぬまでは無事だろう。肌を溶かす雫を避けることもせずに、柏木は闇に迫り、泣きわめく顔を突き刺す。聞くに堪えない絶叫を上げながら顔が消滅する。その分だけ雫が減る。と言っても、一人が出しているのは微々たる量だから減った気がする、と言った方が体感的には正しい。

「はぁ、はぁ、っは」

 荒い呼吸を繰り返しながら、柏木は額に浮かんだ汗を手の甲で拭った。

「このままだと、こっちが消耗して終わりだな……」

 ちらり、とサメを見る。起き上がる気配はないし、川面の水が侵食されている様子もない。柏木が水の殻を維持している限りは大丈夫だろう。

「問題は、それがいつまで出来るかってことだよなぁ」

 苦笑いを浮かべて、柏木は闇を見回した。殺した顔の数はようやく三分の一に届くかどうか。だと言うのに、体力はもう半分も残っていない。このままチマチマと一人ずつ殺していたら、確実に柏木の方が先に限界を迎えるだろう。

「はは、ま、このまま死んだら心中っぽくていいけどさ」

 黒い雫が降り注ぐ闇の中、柏木は乾いた笑いをこぼす。心中なら良いと言いながら、彼女を殺すのは許せない自分が居る。柏木が一つ、小さく息を吐くと右手に持っていた刀が解けるようにして消える。顔が動きを止めて、柏木を見やった。

「亞、乎、ア、あ、あぁそぶ?」

 見当違いな期待をしてにっこりと笑う妖に柏木は小さく笑い返した。

「遊ばない」

 柏木が制服のシャツを肩まで捲り上げる。露わになった左肩には黒い痣があった。まだ咲いていない、黒いホトトギス。霊力と一緒に授かったその痣を柏木は右手でそっと撫でた。

「永遠はここにあり」

 柏木の呟きに反応して、痣が熱を持ち始める。流し込んだ霊力に反応して、ホトトギスが成長する。ホトトギスは手に向かって茎をのばし、葉を茂らせ、蕾を増やす。腕全体が黒い花に覆われる。久方ぶりの感覚に柏木がふ、と短く息を吐いた。

「きもちわる」

 柏木は笑いながらくるくると回る顔を見た。雫が止まったおかげで、体は随分に楽になった。

死儀しぎ・永遠、開放」

 柏木の言葉と共に、ホトトギスが一斉に開花した。体力がごっそりと削られて、柏木は思わずよろける。

 死儀。

 それは、神の御業。

 それは、神が残した呪いであり最後の祝福。

 神が気まぐれで柏木に与えた特異能力。

 闇が柏木の変化を鋭く感知して、黒い手を伸ばしてくる。目にもとまらぬ速度で首に迫った手を半身で交わして、花だらけの左手で触れる。

 黒い手は柏木の喉をひねりつぶそうとした恰好のまま、その場に固まった。柏木が腕を切り落とすと、手は消滅することもできずに、水に飲まれて行った。闇が悲鳴を上げる。不協和音が脳を直接揺らした。

 体力と霊力を異能が吸い上げているせいで体勢を維持できずに、柏木は水面に倒れ込む。その上に黒い雫が降り注いだ。

「はは……ダサ」

 立ち上がるだけの体力すらなく、柏木は這ってサメの近くまで進む。その間も闇の涙は柏木の肌を溶かし続ける。治すより溶かされる方が速くて、柏木の肌はあっという間に血で染まった。

「間抜けな顔」

 真顔で天井を見上げる彼女の姿はシュールで、柏木の口に笑みが浮かぶ。もう、時間が無かった。柏木の霊力はもう底を尽きかけていて、目もかすみ始めている。このままでは、サメを覆っている水の殻も維持できなくなって、二人仲良く心中だろう。

 そんなのは、死んだってごめんだから。

「ごめんね」

 彼女が怒ると知っていて、柏木はホトトギスで埋め尽くされた左手で水の殻に触れた。柏木が操っていた水はサメを覆う形で固定される。これで、柏木が死んでも水が彼女を守り続けてくれるだろう。

 柏木がここで死ねば、地上の体も機能を停止するから、そしたらきっと誰かが来てくれる。田中辺りなら、水の殻を壊すことも出来るだろうから、きっと、サメは助かる。

 きっと、多分、そうなるはず。

 馬鹿々々しいほど運に頼った戦略に柏木は自嘲を落とした。

 ゴロン、と体勢を変えて闇を見上げる。白黒に点滅する視界では、そこに何があるのかも見えない。大好きだった女の子がすぐそこで笑っているような気がして、柏木は頭上に手を伸ばした。

「しおの」

 ドロリと溶けた声で名前を呼ぶ。もう死んでしまった女の子を呼ぶ。

「死んだら、君に会えたり、するのかな」

 口にした願いはあまりに現実味がなくて笑えた。そんな奇跡は起きないと、柏木は誰より知っていた。伸ばした手を力なく下ろそうとした、瞬間。

「慎!」

 力強い声に名前を呼ばれた。闇が弾け飛んで光に包まれる。白く光る二振りの刀で闇を切り裂いて、眩しいほど鮮烈なそいつが下りてくる。

「こうへい」

 小さく名前を呼んだ。心臓が震えるくらい安堵していた。

「ほら、やっぱり困ってた」

 眩いほど綺麗に笑って、航平が柏木の右手を温かい左手で握りこんだ。その手の温度に柏木は酷く安堵して、救われてしまった。

 汚れた手を躊躇いもなく掴んでくれる優しさを手放したくはなくて握り返す。その、自分勝手で浅ましいあり方に心臓が悲鳴をあげた。

(あぁ、この優しい手を、こんなにも優しい人間を、俺はいつか傷つけるのか)

 痛い。痛い。悲鳴をあげいてる。雪の上で横たわる少女の姿が目の裏に浮かんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る