第14話 そしてまた見ないフリを繰り返す

 時は少し遡り、柏木が天使の羽を使うか否か、真剣に悩んでいた頃。

 七夕は死神に呼び出されて、柏木の抜け殻を背負っていた。心臓が脈打つだけの死体になった柏木は体重を全部七夕に預けきっていて。柏木らしからぬ仕草に無駄に心臓が逸った。

 いつもは口うるさい死神も呼び出したきり一言も喋らなくて、沈黙が静寂を引き立たせる。節電のために消灯された薄暗い廊下を進む。リノリウムの床を踏みしめるゴム靴がキュ、と鳴った。

 七夕は抜け殻になった柏木の体を医務室のベッドに横たえる。白いシーツに行儀よく沈む柏木は本当に死体のようで、息が詰まった。濃くクマの浮かんだ目元を撫でる。肌は酷く冷たくて乾いた笑いが落ちる。

「はは……死体みてぇ」

 数分後には本当に死体になっているかもしれないのだと思うと、胸騒ぎがした。胸騒ぎの訳を、七夕は知らない。

「ねぇ」

 黙ったままだった死神が小さな声をあげた。

「君は、そんな顔をするんだね」

 死神が顔を歪めて泣きながら言った。涙は頬を伝って、床に落ちる。確かに床に落ちているのに、リノリウムが濡れることは無くて、彼女は彼岸の生き物なのだと突きつけられる。七夕はどうしようもなくて、薄く笑った。

「ねえ、七夕」

 死神が次に言う言葉を、七夕は知っていた。答えはずっと自分の中にあった。

「君のそれは」

 死神の唇の前に左手の小指を立てる。

「今更だろ」

 感情の名前を知っても。柏木に向けているのと同種で、でも少し違う物を彼女に抱いていたと気が付いても。もう何もかも手遅れで、七夕は彼女にれられないし、彼女は生き物にはさわれない。死神は涙を拭いて笑った。

「今の話だよ。昔の話じゃない。私と君の話じゃない。君と、彼の話だよ、七夕」

 よく喋る死神は一度口を開いたら停滞を許してはくれない。後悔も傷も抱えて進めとその瞳が訴える。

「君のそれは、多分愛だよ、七夕」

 声と一緒に涙が落ちる。

「君は柏木クンのことが、本気で大事なんだよ。研究対象としてじゃない。特級だからでもない。ただ、柏木慎っていう一人の人間を、君は愛してるんだよ」

 雫が滑る頬に手を伸ばす。

「七夕」

 指先は彼女の肌をすり抜けて空気に触れる。

「君は、私を愛さなかったその心で、柏木クンを愛するんだね」

 死ぬ前に一度も触れなかったから、肌の感触も未だに知らないままだ。

「俺は、誰も愛しちゃいねえよ」

 感情に蓋をする。後悔に足を取られて溺れないように。傷の痛みに足を止めてしまわないように。死神は泣きながら笑った。

「君は強情だね、七夕」

 伸ばした手をすり抜けて、死神が七夕に背を向ける。滲んだ自分の視界には気づかないフリを決め込んで、七夕は柏木に視線を落とした。死んだら嫌だと思うこの気持ちすら、彼女への後悔から出来上がっているようで吐き気がする。どこまでが懺悔で、どこからが柏木に向けたものなのか、明確に線を引くことは出来なくて。

 だから、七夕は全部に蓋をして深く息を吐いた。椅子の背もたれに寄り掛かって、薄汚れた天井を見上げる。無性に煙草を吸いたかった。

「お前が寝てたら誰にライター買いに行かせんだよ、慎」

 一人の部屋で呟いた言葉は、酷く乾いていて味気なかった。

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