第13話 推定双子の弟
「遅くなってごめん。迎えに来たよ」
親し気に話しかけてくる柏木のそっくりさんをサメは呆然と見上げた。もしかして双子の弟だろうか。
「あれ、また記憶飛んでる?」
推定双子の弟は天使の羽をバサバサと動かしながら頬をかいた。あの羽も幻覚ではないらしい。サメの目が狂ったわけではないことに一先ず安堵する。
「あぁ、なるほど」
推定弟の不審者はポンとわざとらしく手を打った。
「お姫様を起こすならやっぱりキスだよね」
「うわぁごめんなさい本人でした」
サメは一息に謝罪して口を手のひらで覆った。口より手の方が小さいからあんまり効果はない。柏木はサメの前にしゃがみこんで息を吐くように笑った。そのまま細い指がサメの頭を撫でる。
「無事でよかった」
幽霊への言葉にしては実感がこもりすぎていて、サメは言葉に詰まった。
なんとなく気詰まりなのは、勝手に記憶を覗いてしまった後ろめたさのせいだろうか。それとも、触れられたところが妙に熱いせいだろうか。サメはどうしてか泣きそうになりながら、柏木を見上げた。
「ん? どうかした?」
頭を撫でながら問いかけられる。
何かあった。
何も無い、何も感じなかったとはとても言えない。けれどこの、熱に浮かされているような、暗闇でひとりになってしまったような感情をうまく言葉に出来なくて、サメはただ柏木を見つめた。
夢の中で少女が態度で痛みに蓋をしたように、サメは視線で言葉を伝えようとした。
首を傾げたままの柏木と見つめ合うこと二秒。
先に動いたのは柏木の方だった。
「わっ!!!!」
突然、上に放り投げられ、サメは悲鳴をあげる。手足をバタバタと動かしながら下を見るとサメから居た場所から黒々とした闇が湧き出ていた。
まるで泉のように闇が青く透明な水面を侵食し、闇が立ち上がる。闇は柏木とサメを中心に鳥かごのような形になって、その成長を止めた。柏木は放物線を描いて落下するサメを難なくキャッチして左腕で抱える。
「いきなり投げないでくださいよ」
サメは短いヒレで柏木をポカポカと殴った。返事はない。
「代理?」
体を回転させて、顔を見上げる。その表情があんまり静かで鋭いものだから、サメは口を噤んだ。土足で踏み込んではいけないと頭が警鐘を鳴らす。どうしたものか、と頭をひねるサメを気にした様子もなく、柏木の右手が慣れた仕草で刀を握った。
「うわ」
何もない空間から刀が出て来たことに驚いてサメは声をあげる。静かにしようという誓いは僅か三秒で破綻した。柏木の視線がこちらに向く。
「あ、いや、急に刀が出て来たから驚いて……」
サメが素直な気持ちを口にすると部長代理はぱちくりと瞬きを繰り返した。沈黙が落ちる。今まで同じ人間だと思っていた生き物が実はサメだったことに気が付いたみたいな顔だった。刀は解けるようにして消え、サメを抱える腕からも力が抜ける。ずり落ちかけたサメを抱えなおして、ようやく我に返ったらしい柏木が言った。
「ごめん、ちょっとびっくりして」
「それは知っ」
「あ、ア、あ、啞ぁ、ぁ」
てます、と続けるはずだったサメの言葉は突然響いた引き攣った声にかき消された。
「あ、あソ、あぁそぼぉ於」
闇の内側ににっこりと笑った顔がいくつも現れる。
「あぁそボぉ」
間延びした声で声は同じ言葉を繰り返した。顔がケタケタと笑う。男の声、女の声、少年少女に老婆に赤子。幾千もの違う声が重なりあって不協和音を奏でる。耳の穴から手を入れられて、脳みそをぐちゃぐちゃにかき回されているような気がした。
吐き気を覚えて、サメは思わず口を手で覆う。
「あそぼぉ」
闇の一部が膨張してサメに伸びてくる。平衡感覚すら失くして吐き気をこらえるサメはただそれを見ている。手が眼前に迫る。サメはギュっと体を固めて身構える。
「あぁ」
低い声が落ちた。
「やっぱり汚いな」
不協和音の中、そこだけ切り取られたみたいに、柏木の声が綺麗に響く。サメの目の前で黒い手が裂けた。
否、柏木が左手で繰り出した槍に貫かれて霧のように空間に溶けて消える。サメは呆然と柏木を見上げた。いつだって微笑を浮かべていた顔は静かに凪いでいて、黒い瞳だけが嫌悪を湛えて燃えていた。
「柏木、さん……?」
急に知らない人になってしまったような気がして、サメは名前を呼んだ。返事はない。視線は合わない。不協和音はいつの間にか止んでいた。なのに、どうしてかさっきよりもずっと胸騒ぎがする。
「アア亞亞、於、乎」
ひび割れた声が空間に木霊する。笑っていた顔たちが一斉に悲鳴をあげて泣き出す。黒い、雫が降ってくる。柏木がサメに覆いかぶさって、水面に手をつく。落ちた雫は蒸気を上げながら水に沈んだ。柏木が短く唸る。視界の端に、滴り落ちる血が見えた。
「大丈夫、なんでもないから」
サメが何か言う前に、柏木が微笑んだ。その笑みがいつも通り過ぎて、サメは言葉を失った。痛みすら届いていないような気がした。柏木の腕を血が滑り落ちる。水面が飲み込んで、辺り一帯が赤く染まる。柏木の方に伸ばした手が血で真っ赤になった。こんな時すら、サメの目からは一滴の涙も出ない。
「あ、あ、あ、あ、あそぼぉよ」
泣きながら幾つもの顔が闇の内側をクルクルと回る。サメを水の上に寝かせて、柏木はその額を撫でた。ゆっくりと手のひらが肌の上を滑る。微睡むようにゆっくりと視界が闇に閉ざされていく。嫌だと首を振ったような気がしたけれど、うまく動けたかどうかも自信がない。
「ごめんね」
小さく呟く柏木の声と、血だらけの背中を最後にサメは意識を手放した。
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