第12話 共犯になってよ

 必死の形相でこちらに手を伸ばす柏木の顔を最後にサメの視界は暗闇に包まれた。黒の中を真っ逆さまに落ちていく。その最中、サメは誰かの思い出を見ていた。

***

 裸足で踏みしめる床は付けっぱなしになっているエアコンのせいで、ひんやりと冷たい。売店で買ったばかりの缶チューハイを握りしめて、少女は薄暗い部屋の中を進んだ。個性のない部屋だった。机も椅子も本棚もベットも枕カバーまで支給品。

 彼の匂いはどこにも無い。クローゼットに入っているのも、制服と学校指定のジャージと黒のスウェットだけだと知っている。

 モデルルームだってもう少し個性があるぞ、と誰に言えばいいんだか分からない文句を心の中で呟いて少女は小さくため息を吐いた。当の本人は閉め切った窓に背を預けて、呑気に月なんか見上げている。少女はわざと足音を立てながら歩いた。気が付いているはずなのに、彼が振り返る気配はない。

「ばぁ」

 驚かせるつもりもないのにそう言って、勢いよく窓を開く。案の定、彼は静かに笑ってこちらを見た。驚くふりをするくらいのリップサービスは欲しいものだ。唇を尖らせたら、彼は仕方がないな、という風に眉を下げて笑った。風に吹かれて目にかかるくらい長い前髪が揺れる。

「汐野」

 少年が少女の名前を呼んだ。少女の名前を口にするときの彼の表情が、少女は一番好きだった。少し低くなった声も。小さく、恐らく無意識に上がった口角も。少女を呼ぶときだけの、特別なサインだから。

「しおの」

 丸く溶けた声で少年が少女を呼ぶ。彼に名前を呼ばれると嬉しくて、悲しくて、どうしたって泣きそうになる。満月が出ていて明るい今日みたいな夜は、特に。少女は腰を折って少年の顔を覗き込んだ。

「ねぇ」

 長い黒髪がカーテンのように少年の顔の横に垂れる。唐突に世界に二人だけになる。

「共犯になってよ」

 泣きそうだったから、水滴だらけのアルミ缶を少年の頬に押し付けた。缶チューハイごと左手をそっと掴まれて、彼の手の温度に眩暈がした。彼の左手の親指が目元を拭う。そのまま濡れた親指をペロリと舐めた。一瞬だけ覗いた真っ赤な舌が酷く扇情的で困った。

「しょっぱい」

「間違えて海水でも舐めたんじゃない」

 隣に腰かけながら言うと、彼は喉の奥で小さく笑ってから缶チューハイのプルタブを起こした。アルコール度数三パーセントの甘ったるい液体が彼の体内に消えていく。嚥下の度に動く喉仏にうっかり見惚れた。

「ん」

 少年が口元を手の甲で拭いながら、アルミ缶を少女に渡す。

「間接キスだね」

 小首を傾げて微笑んでから、少女はアルミ缶に口をつけた。健全な高校生なら、ちょっとくらい頬を赤らめたって罰はあたらないだろうに、彼は静かにこちらを見るだけでほんの少しも照れた様子がない。可愛げというものを一体どこに置いてきたんだろうか。甘いだけで美味しさなんて少しも分からない液体を飲み込んで、少年に返す。

「ん、どーぞ」

 少年が上から摘まむようにして缶チューハイを受け取る。同じ場所に口をつけられたら自分の方が赤くなってしまいそうで、少女は月を見上げた。丸くて明るくて嫌になるくらい綺麗な月だった。月が明るいせいで、少女の輪郭は酷く鮮明で、少年の輪郭もはっきりと見えた。違う人間なのだと思い知る。溶けたって、きっと、ひとつにはなり切れない。

「汐野」

 名前を呼ばれて振り返る。

 視界の端まで彼で埋め尽くされる。

 唇に温かい何かが触れた。今更伺いを立てるように伏せられた瞼の向こうにある黒い瞳と視線が混ざる。少女は息を止めてそっと目を閉じた。

 彼の温度を一番近くで感じられるからキスをするのが好きで、彼との境界線を突きつけられるから与えられるキスが嫌いだった。

 矛盾した思考が擦り切れていく。摩擦で心臓が痛かった。言いたいことも、聞きたいことも山ほどあるのに、口は塞がれたままだから、何一つ声にならない。言葉に出来ない感情は勝手に喉の奥に溶けて消えた。小さく残った棘だけが、歯茎に刺さった魚の骨みたいに痛かった。

「汐野」

 呟くように少年が名前を呼ぶ。額がくっついたときに前髪が混ざるのがくすぐったかった。至近距離で見つめた彼の目の中に自分が映り込んでいる。

「なんで」

 声が勝手に小さく震えた。

「なんで、キスなんかするの」

 少年の熱が離れていく。追い縋るように手を伸ばしたけれど、頬に触れる前に我に返って握りこんだ。欲しいのは体温よりも言葉だった。態度よりも明確な何かだった。

「……酔ってるから、かな」

 立てた両ひざの上に頬を埋めながら、少年が呟いた。少女は嘘つきって言い返そうとして、今更だったと口を噤む。真っ赤に染まった耳を見られただけで、今夜のところは許してあげようと思った。痛む心臓に蓋が出来ると思った。少女は少年に寄り掛かって月を見上げる。

 月が綺麗ですね、なんて。

 彼相手では暗号にもなりはしないから、声にならなかった。

***

 サメは誰かに呼ばれた気がして意識を取り戻した。

 見ていた夢の名残か、体の中心が痛いような気がする。いつの間にか落下の感覚は止まっていたけれど立ち上がる気力も方法もないものだから、サメはただ静かに黒い空間に寝そべっていた。

 静かにしているとどうしたって考えてしまうのは、覗き見た思い出の事で。鮮明だった夜空の色が、近くで見た少年の顔が、触れた熱の温度が、サメの中で何度も蘇る。

「あれ、部長代理だよなぁ……」

 声はどこにも響かずにサメのすぐ傍に落ちた。

「ってことは、あれ、柏木さんの記憶なのかな」

 汐野、と呼ばれていた少女を思い返す。長い黒髪と雪のように白い肌と大きな目を持つ綺麗な人だった。目の形がどことなく航平に似ていたのは気のせいだろうか。

 つらつらと答えの出しようがない事を考える。

 考え事なんてつまらないことを始めてしまうくらいに、サメは退屈していた。ゴロン、と寝返りを打って上を見る。視界はやっぱり黒で埋め尽くされているから、上を見ているんだか下を向いているんだか定かではない。

「ここ、どこだろうなぁ」

 自由号、無事かなぁ。

 恐らく壁に激突したであろう愛車を思い出して、サメはペソペソと泣いた。こんなに悲しいのに涙は一滴も零れない。サメの体はつくづく不便だ。

「誰か迎えに来てくれるのかな」

 不安は口に出すと途端に存在感を増して、サメは短いヒレで自分自身を抱きしめる。ついでに尾ひれも丸めて、ぐっと小さく丸くなった。

「誰か心配してくれてたり、しないかなぁ」

 問いかけに返事はない。当たり前だ。ここにはサメしか居ない。むしろ答えが返ってきた方が怖いと思いなおして、サメは今更ながら口を噤む。もし危ない奴が傍に居るのなら不用意な独り言が命取りになりかねない。

 そんな事にも気が付かないなんて、うっかりなのか幽霊の特殊能力なのかは知らないけれど、知り合いの記憶を覗いてしまった事に自分はかなり動揺していたらしい。

「もしかしてこれ、誘拐ってやつかな……」

 誰にも聞かれないようにひそひそ声で呟く。

「サメの身代金とか一体だれが払ってくれるんだろう……いや、このままどこかに運ばれて実験体にされるのかな」

 バラバラにされて、電気とか薬品とかを浴びるほど流されて、全部暴かれる。挙句の果てにはきっと焼却炉行きだ。サメなのに。いや、幽霊だけど。

 自分のことも忘れたまま、また死ぬのだろうか。

 航平にサメ権に配慮してくれてありがとうと伝える前に死ぬのだろうか。

 つづ希におさげ可愛ねってまだ言ってないのに、死ぬのだろうか。

 ひび希にもう少し優しくしてって要望してないのに、死んでしまうんだろうか。

 柏木にまだ癇癪を起したことを謝っていないのに、別れることになるんだろうか。

 一人きりで?

 こんな暗闇の中で?

「嫌だよ」

 声が震えた。

「そんなの、あんまりだ」

 サメはじっと暗闇を睨みつける。手を痛いくらい握りしめた。視線を彷徨わせたって出口はおろか蝋燭ほどの明かりも見つからない。サメは泣けない体で泣いた。

「助けて、助けてよ」

 ぼろぼろと見えない涙が落ちる。

「柏木さん」

 瞬間、暗闇が砕けて、上から降ってきた。サメは大きく目を見開いて、頭上を見る。そこには、どういう訳だか天使の羽を生やした部長代理のそっくりさんが居た。

「遅くなってごめん。迎えに来たよ」

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