第6話 君は大人になったんでしょう

「お前、元気な奴だな」

 三白眼が丸く細くなって、途端に柔らかい印象になった。航平は笑うと子供っぽい顔になるらしい。サメは抱えられたままでその笑みを見ていた。どういうわけだか喉が詰まって泣きそうだった。

 可愛いものを見ると無条件に泣きたくなる性分なのだろうか。

「んな面白いか?」

 肩を震わせる航平とは対照的に七夕は真顔で胸元から煙草を取り出した。百均に売られていそうな緑のライターを何回か押す。火は付かない。苛立った様子でブンブンとライターを振ってから、もう一度試していたが、結局火は付かない。

「あはは、禁煙なのに吸おうとするからだよ」

 七夕の回転椅子でクルクルと回りながらひび希が笑う。

「俺の部屋はいつでも喫煙オーケーなんだよ。長生きしてぇならもう帰れ」

 シッシッと片手で追い払う仕草をしながら、七夕は物凄いスピードでスマートフォンに何かを打ち込んでいく。女子高生もかくやと思わせる程の手さばきだ。双子はむ、と唇を尖らせて一応抗議の姿勢を取ったものの、七夕が携帯から顔をあげないのを見て部屋から静かに出ていった。

 相当ストレスが溜まっているのか、七夕の携帯を持っていない方の手が机の上で空気ピアノを弾いている。ちょっと面白い。

「七先生、俺買ってこようか?」

 背もたれを立てた診察台にサメを座らせながら、航平が七夕を見た。無意味に膝の上に連れて行かない辺りに好感が持てる。サメ権にも配慮してくれるのは、今のところ航平だけだ。

「んや、今慎パシッたからいい」

 七夕はなんでもないことのように言った。航平は苦笑いを浮かべる。サメはぱちくり、と目を瞬かせた。ような気分になる。

「高校生ってライター買えたっけ?」

「あ? あぁ……中の売店だからな。おつかいって言やぁ大抵のもんは買える」

「うわぁ、部長代理お酒とか飲んでそう」

 完全に偏見で口にすると、七夕がこちらに視線を向けてふ、と笑った。航平は苦笑いだ。冗談のつもりが地雷を踏んだ気配がする。部長代理が思わぬところでヤンチャすぎてサメの口からは乾いた笑いが落ちた。ピアスホールはないのに、飲酒はするらしい。真面目なのか不良なのか、分かりにくい人だ。

「七先生、俺、慎待っててもいい?」

 七夕はちらりと視線をあげて、顎で部屋の隅に立て掛けてある椅子を指した。航平が椅子に座って、室内には静寂が満ちる。サメはグニグニと手を擦り合わせながら、交互に二人を見た。今日会ったばかりの人しか居ない空間で沈黙に放り込まれるのはなかなか厳しいものがある。サメは尾びれで診察台を叩いてみた。誰からも返事はない。もう少し強く叩いてみる。やはり誰からも──

「やあやあ、お呼びかな?」

 ──突然真後ろから声が聞こえて、サメは叫んだ。勢いよく床に着地する。痛い。心臓がバクバクと早鐘を打った。

 ような気がした。

「あ、あ、あぁ……びっくりした……」

 サメは床を這ってどうにか体勢を立て直す。この体にも段々慣れつつある。特に嬉しくはない。

「あははははっ、良い反応だね、わざわざ天井から背後に回ったかいがあったよ」

 その人はふわふわと浮きながら、目元の涙を拭った。サメはもう一度叫ぶ。

「足がない!?」

 そう。目の前のふわふわした──物理的にだ──女性には膝から下が存在しなかった。というか、脛の部分が絶えずボロボロと欠け続けている。見ているだけでも顔をしかめたくなるほど痛そうだ。

「あっはっはっ、君面白いね」

 足欠けの女性は大きな口を開けて笑う。

「田中さん、七先生にまた追い出されるよ」

 航平がやって来て床に座るサメを持ち上げた。そのまま診察台に降ろされそうになったので、ヒレでぎゅっと航平にしがみつく。こんなびっくり箱みたいな人の近くに放置しないで欲しい。航平はなにを思ったのかサメの背中をゆっくりと撫でて、一緒に診察台の上に座ってくれた。出来たらここから離れて欲しかったが、贅沢は言うまい。

「お使いのお使い頼まれてきてあげたんだから、ちょっとくらい騒いでも許してほしいよね、ご褒美って大事じゃない?」

 つらつらと言葉を並べながら、女性は手の中でライターを弄る。

「幽霊もライター持てるの?」

 サメはひそひそ声で航平に話しかけた。

「ふっふっふ。残念だったねぇ、サメちゃん。私は幽霊じゃなくて、死神。名前は田中。死神の田中」

 よく口が回る人だ。サメは目が回ってきた。

「幽霊殺しが殺した幽霊とか、死人の魂とか、妖の残骸とかを回収している、雑用係ってところかなぁ。やんなっちゃうよねぇ、私、死んでからも馬車馬のごとく働かされてるんだよ? 可哀想だと思わない? 全く、死神にも労働基準法を適用すべきだよ、ほんと」

「はっ。安心しろ。どうせてめーは引っ掛からねえよ」

 パソコンに目を向けたままで七夕が鼻で笑う。サメには半分くらいしか言っていることが分からなかった。

「そういう事いう人にはライターあげないよー? いいの? 柏木クンに頼まれて私が持ってるんだけど?」

「慎もっかいパシれば問題ねえよ」

「自分で買いに行けよ、そこは」

 死神は半目になって七夕にライターを渡す。受け取って煙草に火をつけながら、七夕はようやく田中を見た。くゆる煙が顔にかかっても、死んでいる彼女は顔をしかめることすらない。

「んで? なんの用だよ、馬車馬のようにこき使われてて忙しいんだろ」

「えー、もうちょっとお喋りしようよ、つれないなぁ」

「今更だろ」

「今更だけどさぁ。ま、いいや。ほい、これ。今日柏木クンが殺した分。なんかまぁた半分欠けててうっすいよ」

 小指大の瓶に入った半透明液体が死神の手から七夕の指に移る。

「最近多いな」

「流行ってんじゃない? 妖の中で。幽霊半分お残し食事法的なのが」

「悪趣味なこと言ってんじゃねえよ」

 七夕は煙草を灰皿に押し付けながら、半目で死神を見やる。

「君がデリカシーの話しする?」

 田中はうげぇと顔をしかめた。

「へえへえ、悪うござんした。おら、仕事終わったろ、とっとと帰れ」

「ほんとつれないねぇ。でも残念。今日の本題は別にあるんだよね、ね、サメちゃん?」

 ぼけーっと壁のシミを数えていたサメは突然名前を呼ばれて、慌てて死神を視界に映した。何一つ聞いていなかったので、何の話題に自分の話が出たかも分からない。

 分かるのは、死神にじっと覗き込まれていることだけ。あの、布も綿も通り抜けてサメに直接触れる視線だ。その鋭さは柏木に似ている。

「ね、これ柏木くんはなんて?」

 田中の視線が航平に移る。

「ん? あぁ、分かんないって。俺にも見えないって言ってたよ」

 航平の言葉に死神は小首を傾げて微笑んだ。場の空気が一度下がる。心なしか照明まで暗くなったような気がする。

「それ、嘘だね」

 嘲笑を含んだ声が空気を揺らす。航平の体が強ばった。

「嘘だよ。柏木クンは特級だよ? この程度の幽霊、寝ぼけてたって見えるよ」

「そんなこと」

 航平が椅子から半分立ち上がって反論する。

「分かるはずないって? 分かるよ、ねえ、だって、あの子が今日殺した幽霊の方がずっと、霊力が少ないんだよ。あれが見えるのに、サメちゃんの中身が見えないなんて矛盾が過ぎるよ」

 航平は力なく椅子に座る。

「嘘だよ。柏木クンは見えてるのに、見えてないって嘘を吐いたのさ」

「菜月」

 鋭く、七夕が死神を呼ぶ。空気がもう一段階張り詰めた。死神は首だけで振り返って七夕を見る。

「なーに? 七夕クン」

「慎がオオカミ少年なのは今に始まったことじゃねえだろ。無駄に煽んな」

「無駄に見えてる?」

 田中は微笑を浮かべて、七夕に向き直った。二人の間にある糸がピンと張り詰め、感情の温度が上がっていく。サメは航平の腕をヒレで強く掴んだ。

「暴くのは暴力だっつたのはお前だろ」

「嘘は何も救わないって、君も知ってるでしょ?」

「嘘でしか守れねえものもあんだろ」

「はは、君がそれ言う? 何もかも丸裸にして暴き立てなきゃ気が済まないくせに」

「俺の話をしてんじゃねえだろ」

「君の話だよ。君の話でしょ? ねえ、七夕」

 田中が静かに七夕を呼んだ。七夕は押し黙って、死神の黒い目を見た。サメには彼女の背中しか見えなかったけれど、田中が泣きそうな顔をしているのは容易に想像がついた。声は既に泣いている。

「ねえ、七夕」

 死神はもう一度、かつて隣に居た人を呼んだ。

「君は暴くべきだよ。本物のオオカミに村人も少年もまとめて食べられてしまう前に。君が暴くべきだよ、だって、君は大人になったんでしょ。君は、彼を大事にするって決めたんでしょ」

 七夕の目元が強張った。正面に居たサメにはその小さな変化がよく見えた。唇が薄く開いて、七夕は鋭く息を吸った。

 泣き出す寸前のように思えた。

 けれども、七夕の目に涙が浮かぶことはなく、ただ、彼は田中に背を向けてパソコンに視線を戻した。沈黙が落ちる。

 航平に縋りついていた手がいつの間にか握り返されていたけれど、その温度があまりに馴染むものだから、サメは気が付きもしなかった。

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