第7話 血が滲むくらいの事で君の涙が止まるなら

 ベランダに座る柏木の髪を夜風が揺らしていく。視線の先の香立てには、一本、線香が立っていた。白い煙が風下に居る柏木に絡んで、そのまま天へと上る。子猫がじゃれるような動きに、柏木は頬を緩めた。

 猫のような女の子だった。寂しがり屋で、その癖素直ではなくて、可愛くて、柏木にだけ少し横暴で、酷く優しくて、女王様みたいで。柏木と同じ視界を持つ、ただ一人の、運命の女の子だった。

 もう、死んでしまった女の子だ。

「汐野」

 小さく吐息に混ぜて名前を呼んだ。

 答えがないことを毎晩確認する。

 もう隣に居ないことを毎日確かめている。

 うっかり、日々の中で探してしまわないように。探して、居ないことに絶望して、誰かの前で泣いてしまわないように。

 暗い部屋でひとりきり。柏木は毎日、死んでしまった女の子に線香をあげる。風に吹かれて線香の上に乗っていた灰が香立ての中に落ちた。煙とじゃれながら、幽霊になり損なった死者の欠片が空を目指している。脊髄反射で手が伸びた。

『意地悪したら、ダメだよ』

 思い出の中の声に怒られて、柏木は手をそっと引いた。強く握りしめる。頭の中に散らばった思い出をひとつひとつ、箱に収める。柏木の頬を一筋、涙が伝った。嗚咽をすることも、顔を歪めることもなく、柏木は泣いた。流れ作業のように淡々と流れる涙は彼女の死を汚していくようで嫌いだった。

 でも止め方が分からないから、柏木はただ静かに泣いていた。

 少女の形をした空白だけが、彼の内側で激しく波打って、痛みを放っている。それ以外の感覚は水に隔てられているかのようにどこか遠い。閉め切った窓に寄り掛かって、柏木は滲んだ瞳で空を見上げた。上弦の月と町明かりに照らされた空は明るくて、星がうまく見えない。あの日、でたらめな星座を作って笑い合った彼女も、もう居ない。

 半月に照らされたベランダに、柏木だけが取り残されている。夏の生ぬるい空気は、彼女の温度が隣にないことを意識しなくて済むから好きだ。線香が下まで燃え切って消えた。

「慎」

 ガラガラと窓が開いて、航平が顔を出した。水に遮られたみたいに声が小さく聞こえる。涙を拭うタイミングを逃して、柏木はただ空を見上げた。月はいつだって綺麗だった。

 柏木が泣いていることに気が付くと、汐野の弟は痛そうに顔を歪める。優しい心が傷つくのが目に見えるようだった。柏木はゆっくり口角をあげて、空を指さす。

「月が綺麗だからさ」

 聞かれる前に言い訳を口にする。笑顔が下手くそになったのか、航平は口をへの字に曲げて窓を開けたまま隣に座る。航平への言い訳は大抵失敗に終わる。彼の視線が白い香立てに落ちた。

「月、綺麗だよ。見ないの?」

「姉ちゃんに、線香あげてたの?」

 質問をまるきり無視して、航平が踏み込んでくる。月が真ん中を占める視界の端で、航平がこちらをじっと見つめているのが分かった。まっすぐで、真摯で、綺麗な優しい目。暴くつもりなんて微塵もない、踏み込むつもりすら感じられない、ただ温かいだけの視線。

 柏木は意味もなく笑みを浮かべたままで答えた。

 向日葵のように月を見ながら言った。

「月に、だよ」

「……そっか」

 嘘でしょ、とは言わない。差し出した言葉を、丁寧にハンカチで包むようにして受け取ってくれる。そういう所が好ましくて、でも、罪悪感を刺激されるからどうしようもなく苦手だ。もっと適当でいい。もっとないがしろにしてくれればいい。暴力的に暴いてくれればいいのに、と身勝手な事を思った。体がドロドロに溶けて、汚い本性が顔を出す。

 気持ちが悪くて吐き気がした。

「ねえ」

 真っすぐに見つめられても、柏木は視線を返せない。

「なんで、サメの中身が見えないって嘘吐いたの」

「面倒くさかったから」

 用意しておいた答えを口にする。

「ほんとに?」

 今度は航平も食い下がった。柏木は月から視線を引きはがして、航平を見る。にっこり笑みを張り付けた。マスクがないから、上手に笑顔になっているか不安だった。目が合って、やっぱり月を見ていれば良かったと後悔した。

「どっちだと思う?」

 航平がぐっと眉を寄せる。

「俺、真面目に話してるんだけど」

「うん。知ってる」

 笑ったまま答えると、手が伸びてきて目元を撫でられた。まだ涙が出ていたらしい。やっぱりマスクが無いと嘘が下手くそになってだめだ。

「慎は、あのサメの何を知ってんの」

 真っすぐに目を見つめられて言葉に詰まった。

「何を隠して、嘘吐いてんの。俺には、話せないこと? 俺、守ってもらわなきゃなんないほど、子供じゃないよ」

 目元を拭われながら言葉が続く。心臓がきりきりと痛んだ。

「隠し事なんかないよ」

 柏木の事を良い人間だと信じてやまないその目が嫌いだ。

「俺はオオカミ少年だよ、知らなかった?」

 航平の手が肌から離れていく。熱の名残が風に吹かれて消えた。

「愉快犯で嘘を吐くし、自業自得でオオカミに食べられる。そういう愚かな少年だよ」

「俺じゃ、力になれねえの」

 航平が泣きだす寸前のような顔で柏木を見た。心臓が巨人に握りつぶされたみたいに痛む。

「うん」

 柏木はただ笑って、言葉を吐いた。

「だって、俺困ってないよ。毎日超順調。だからさ、航平。そんなに俺のことばっか心配しなくていいよ」

 痛ましく歪んだ目元には黒いクマが刻まれている。半年前からだ。汐野凪珊しおのなぎさが死んだ半年前の冬から、真面に眠れていないと知っている。姉の後ろをずっとくっついているような弟だったと知っている。

「俺なんか、放って置いても平気なんだよ」

 大事に思って言葉を吐くほど、航平の顔が歪んでいく。視界はいつでも極彩色で、死人はいつでも見えるのに、柏木の目は大切な人の感情を写さない。見えないから、柏木には航平を救うための言葉が分からない。

「俺は、平気だからさ」

 笑ってみても、航平は笑ってくれない。

「大丈夫だよ。ほんとに。だから、そんな顔しないでよ」

 航平の両目に大粒の雫が浮かんだ。盛り上がった雫はついに零れ落ちて、頬を滑り落ちる。柏木は手を強く握りこんだ。涙を拭うには手が汚れすぎていて、けれども、何もせずに居るには航平との距離が近すぎた。

 痛い。

 心臓が悲鳴を上げている。

「ごめん」

 短く呟いて、航平は立ち上がった。部屋を出ていく背中に縋るように指先が伸びる。あまりに身勝手な自分が気持ち悪くて柏木は唇を強く噛んだ。

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