第4話 どうやらこの部室には狂った人間しか来ないらしい
「コウ君、おかえり」
ひび希の出迎えに
短く切りそろえられた黒髪はくせ毛なのか、好き勝手な方向に跳ねている。三白眼の下には濃い隈が浮かび、目つきを一層悪くしていた。それでも怖いと思わないのは、右頬にある泣き黒子のおかげだろうか。
「姉ちゃん……?」
航平が小さな声で呟く。視線はまっすぐサメに向いていた。
「姉ちゃん?」
サメはぐーっと体を傾ける。首を傾げようとすると全身が傾いてしまうのが、このボディ最大の難点だ。次は自分で目がかけないこと。
「何言ってんの、こうへい」
柏木が実に珍しく真面な事を言った。
部長代理の拘束が緩んで、サメは尾ひれで飛んで元の椅子に移った。ようやく身の安全が確保されたことに深く安堵の息を吐く。人望ありげな航平という人は、入ってきた姿勢のまま入口で固まっている。なにをどうしたら、サメが自分の姉だと思うのか。サメはぽりぽりとヒレで腹をかいた。
この場所にはどうやら、とち狂った人間しかやってこないらしい。
「慎、そいつ、なんで喋ってんの」
航平が眉を寄せて柏木を睨む。マスクの奥でにっこり笑ったらしい柏木は缶コーヒーに口をつけながら肩をすくめた。それ随分前から空だろう。サメは優しいのでツッコまないであげる。
「俺にもそんなこと分かんないよ」
「分かるだろ」
強く断定する航平に柏木の口からため息が落ちた。嘲笑うような雰囲気を纏ったそれは部屋の空気を一層重くする。
「俺に何が見えないかなんて、航平には分からないでしょ」
柏木は缶コーヒーで手遊びを続けながらそう言い放った。さっき出会ったばかりのサメでも分かるはっきりとした拒絶。航平が口を噤む。嫌な空気だ。緩衝材を詰め忘れた段ボールみたいに。花屋でプランターを蹴飛ばした後みたいに。
「ごめん」
蚊の鳴くような細い声で航平がそう口にして部屋から飛び出した。柏木の指先が一瞬、縋るように扉の方に伸びたけれど、彼は結局立ち上がらずに缶コーヒーに口づけた。
「空でしょ、代理」
少女が半目で柏木を見やる。
「誤魔化しでしょ、代理」
少年が問題を解きながら言った。どうやら二人の喧嘩は気づかないうちに終幕したらしい。兄弟喧嘩というのはつくづく不思議だ。
「手厳しいねぇ、二人とも」
柏木は手元の缶を弄りながら、静かに微笑んだ。細くなった目の奥で仄暗い何かが燃えている気がして、サメは思わず手を伸ばす。目を覗き込んで、頬を撫でて、ここに居る、と伝えなくてはいけない気がした。
「か」
リリリリ。リリリリリ。
嘘みたいなタイミングで携帯が鳴った。もちろんサメは携帯なんて持っていない。完全に無視しているところを見るに、双子も持っていないのだろう。柏木はスラックスのポケットから黒い端末を取り出して、しばらく画面を見つめた。着信が一度途切れ、すぐにまたかかってくる。面倒くさそうにため息を吐いてから、柏木は応答ボタンを押した。
「もしもし」
応対しながら立ち上がり、双子の頭を順に撫でる。
「ごめんって。で? どこ行けばいいの?」
最後にサメのヒレをぎゅっと握ってから柏木は部屋を出ていった。サメは握られたヒレをじっと見つめ、にぎにぎと動かしてみる。
やってみてから初恋の人と手を繋いだ後の乙女みたいだなと思って、机にヒレを擦りつけておいた。
***
部室を出た柏木は、学園近くの公園で幽霊と向かい合っていた。無駄に極彩色の彼の視界には、いつだって幽霊のなり損ないと幽霊と化け物が映っている。
「顔が……良い……結婚してください」
幽霊が額を地面に擦りつけながら懇願する。柏木はマスクの中でにっこりと笑った。霊力で作り出した刀が苛立ちで小刻みに震える。近所の花屋で働いていたという女性の幽霊は「わたし、イケメンに求婚して盛大に振られるのが夢だったんです」と意味不明なことを呟きながら泣いている。
正直大分気持ちが悪い。
柏木はひきつった愛想笑いを浮かべながら後ろを振り返った。
「七くん」
呼んだ先には一人の男が煙草をくゆらせながら立っている。百九十を超える長身と無造作にまとめた金髪が人目を集めているが、本人はそんなことにはお構いなしに面倒くさそうに煙草の灰を落とした。
「あれ、切っちゃっていい?」
ほかの幽霊に比べて随分色の薄い女性を指さして柏木は首を傾げる。
「ちゃんと夢叶えてやれよ。お前がごめんなさいって言えや終わんだろ?」
七くんと呼ばれた男は煙草を革靴で踏みつぶして、二本目に火をつけた。柏木の顔が露骨に歪む。
「受動喫煙」
「ははっ、長生きしたいタイプじゃねえだろ」
「先生がそういう事言っちゃだめじゃない?」
「一度も先生なんて呼んだことねえのに、こんな時ばっか生徒面してんじゃねえよ」
大きな傷だらけの手で髪を撫ぜられて、柏木の顔は一層引きつった。物心つく前から面倒を見られていたとは言え、この年になっても子供扱いされるのは心外だ。深くため息を吐いて手を振り払ってから、柏木は幽霊に向き合った。
「この人もめちゃくちゃ顔が良いと思うんですけど、花婿候補にどうです?」
幽霊相手に結婚もクソもないが。
「良いですね、結婚してください!」
幽霊が七夕に向き直って頭を下げる。残念ながら
「無言は肯定!? 結婚!?」
幽霊に常識なんてものが通じるわけがなかった。
「七くん、幽霊と結婚すんの?」
「は?」
七夕は怪訝そうに片眉をあげて柏木を見た。柏木はちょいちょいと幽霊を指さす。それだけで察したらしく七夕の口から盛大なため息が落ちた。子ども扱いの意趣返しが出来て胸が少しスカッとする。
「切っていいぞ、もう面倒くせえ」
吸殻を地面に捨てながら、七夕が踵を返した。上司のお許しが出たところで、柏木は霊力の刀を幽霊の首に向かって振り下ろした。驚く間も与えられずに幽霊が息絶える。
結婚、結婚と騒いでいた口も、白く艶やかだった肌も、あかぎれだらけの手も、彼女を構成していた何もかもが溶ける。柏木はそれを、無感動に見つめている。
その静かに凪いだ瞳の奥には嫌悪だけがある。
「行くぞ」
七夕の節くれだった手が柏木の両目を覆った。そのままずるずると引きずられる。
「ねえ、七くん」
「あ?」
「……今日、部室のサメが喋ったよ」
「へえ。喋るサメな」
柏木はきちんと自分の足で歩きながら、幽霊だった物を一度だけ振り返った。
「一回バラしていいか?」
もうそこには何の痕跡もない。
「ダメに決まってるでしょ」
すぐに視線を逸らして、七夕を見る。頬の辺りを幽霊にすらなり損ねた死者の欠片が魚になって泳いでいたから、条件反射で握りつぶした。一瞬だけ手が汚れて、すぐに蒸発するようにして消える。
「壊したら、ダメだからね」
遠くを見ていた七夕の瞳が柏木を見た。マスクがズレている気がして針金を鼻に強く押し付ける。
「わーったよ」
白衣のポケットに手を突っ込みながら七夕が答えた。視線を落とすと足に絡みつこうとする幽霊になり損なった蛇が居た。無感動に踏みつぶす。
死んだ何かを殺し続ける。
死んでなお、こんな世界に踏みとどまろうとする誰かを殺し続ける。
幽霊殺し。
それが類まれなる霊力を持って生まれた柏木慎の決して逃れることが出来ない職務であり、誕生の瞬間から定められている彼の価値の全てだった。
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